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「憲法九条」があるから「買い物」ができる。
雑誌の「通販生活」では、25年冬号から表紙にこの文言を掲げています。しかし、最近の国会でのやりとりを見ていると、憲法九条、専守防衛の国是が、あまりにもないがしろにされているように感じます。防衛費の倍増が当然のように受け入れられる現在、私たちは九条をどう生かしていけばいいのでしょうか。

内田樹さん

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うちだ●たつる 1950年、東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授。武道と哲学研究のための学塾「凱風館」を主宰する。近著に『知性について』(光文社)、『老いのレッスン』(大和書房)など。


高橋源一郎さん

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たかはし●げんいちろう 1951年、広島県生まれ。近著に『DJヒロヒト』(新潮社)、『ぼくたちはどう老いるか』(朝日新書)など。NHKラジオ番組「高橋源一郎の飛ぶ教室」のパーソナリティを務める。

──2014年に、当時の安倍政権が憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認して以降、国会の議論においてすら「憲法九条」はほぼ無視されている状況です。防衛費の増額についても、九条との関連で批判する声はほとんど聞かれませんでした。
高橋
だってもう解釈改憲の繰り返しで、明文改憲しなくても「戦争できる国」になっちゃっているような状況だから。いまさら九条をどう語っていいかわからないというところがありますね。
──まさにそういう状況だからこそ、お2人に「いま、九条をどう考えるのか」をお伺いしたいと思いました。
内田
もう20年も前ですが、『9条どうでしょう』(毎日新聞社)という本を、平川克美、小田嶋隆、町山智浩、僕の4人で書きました。実は源ちゃん(高橋さん)にも寄稿をお願いしたんだけど、断られたんです。
高橋
そうでした(笑)。当時、僕も憲法について発言し始めてはいたんだけど、「どうでしょう」と言われて、どこまで自分が憲法九条のことを知っているのか自信がなかったんです。
 その後、憲法についていろいろ本を読んだり、専門家の方の話を聞いたりして勉強したんですね。その中で、評論家の大塚英志さんが呼びかけていた「自分で憲法前文を書いてみよう」という運動にはすごく影響を受けました。「つくる」という発想を持つと、憲法を読んでいても見えてくるものが違うんです。僕は、日本国憲法の精神を「いいな」と思っている人ほど「つくる」発想を持つべきだと思う。
高橋さんイメージ
内田
じゃあ、源ちゃんの「つくる」憲法はどういうものなの?
高橋
その前に、つくるためには憲法を知らなきゃいけない。それで世界50ヵ国以上の憲法を読んでみたんですね。では内田さんにクイズ。多くの国の憲法で、最初に書いてあることは何でしょう。
内田
なんだろう、主権者の規定?
高橋
そう思うよね。でも、違うんです。最初に来るのは基本的に「前文」。前文がない国もあるんだけど、大抵の場合、前文で「われわれはこういう国だから、こういうことをしたいんだ」という決意表明をするんです。
 次に本文が来て、ここで「主権」、あるいは「国民の定義」について書くというのが民主主義国家の一般的な憲法のあり方。国王のいる国は少し違うけれど、前文の次、一条はやっぱり「人権」です。
内田
国王の定義じゃないんだ。
高橋
それは二条以降に書かれているか、憲法とは別にまとめられているのがスタンダード。その視点で日本国憲法を見ると、かなり異質なんですね。前文があって、一条から八条が「天皇」。九条に「戦争の放棄」があって、十条からようやく「国民の権利と義務」が始まる。
 だから、僕は〝異物〟になっている一条から九条を全部削除して、世界のスタンダードに近づけたらどうだろうと思っているんです。九条は「理念」として前文に残し、「天皇」に関する部分は後半に移すか、皇室典範にまとめる。
内田
憲法本文からは軍や戦力についての規定は外すわけね。
高橋
かつて小沢一郎さんは国連軍に日本は参加したらどうかと提案していたんだけど、もっと積極的に、自衛隊をまるごと国連に「プレゼント」して、国連軍にするとかね。
 もちろん、ほかにもいろんなアプローチがあるだろうけれど。こういう世界情勢だから軍隊を憲法に明記すべきだとか、逆に完全になくしちゃうべきだとか。戦後80年、われわれは九条と自衛隊という“矛盾”を抱えたままうまくやってきたわけだからそれで構わないという考え方も当然あるでしょう。
 ただ、いまは改憲しなくても何でもできる状態だから、九条についてあえて意見を持つ必要もない感じになっている。でも、九条をどう考えるかは、自分がどんな欲望や国家意識を持っているのか、自分が社会とどう関わろうとしているかを示す、とてもいい指標でもあると思うんだよね。
内田
僕もそう思う。九条をどう論ずるかは、その人の政治的知性のあり方を映し出すから。
高橋
いま、憲法論議が閉塞しているのは、「変える」「護る」しか選択肢がないというのも大きい。九条を「考える」とすることで、憲法をもっと自由に捉えてみたいと思うんです。

憲法九条をめぐる動き

2014年7月 安倍内閣
日本と密接な関係にある国が攻撃された場合、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること(存立危機事態)」などの3要件を満たせば集団的自衛権を行使できると、閣議決定で解釈を変更した。

2022年12月 岸田内閣
外交・防衛の基本方針である「国家安全保障戦略」、防衛費の総額や装備品の整備規模を定める「防衛力整備計画」などの安保3文書改定を閣議決定。敵の攻撃に対処するために「反撃能力(敵基地攻撃能力)」を保有することが明記された。

2025年10月 高市内閣
自・維両党は、憲法九条改正に関する条文起草協議会を設置。維新は集団的自衛権の全面的な行使、九条二項を削除して「国防軍」を明記する案を示している。また高市首相は、防衛費を国内総生産(GDP)比2%に増額する目標を25年度中に前倒しすると表明。

日本もアメリカも憲法と現実とが
乖離している点では変わらない。

内田
九条と自衛隊の〝矛盾〟という話が出たけれど、アメリカ合衆国憲法にも矛盾があるんです。第一条8節12項には連邦議会は「陸軍を召集し、これを維持する権限を持つ」と規定してあるけれど、「この目的のための歳出の承認は2年を超えてはならない」と付記してある。つまり、陸軍については「常備軍を持ってはいけない」と定めてある。独立戦争を闘ったのは市民たちで、その市民に銃を向けたのは英国王の私兵である常備軍だった。常備軍は容易に権力者の暴力装置に変じるということは、独立戦争でアメリカ市民の骨身にしみた。だから、「建国の父」たちは「一旦緩急あれば」銃をもって駆け付ける市民兵を陸軍の正しいあり方だと考えた。でも、いまアメリカには143万人の常備軍がいる。
高橋
憲法違反だよね。
内田
憲法違反なんだよ。でも、だからといって、改憲して「常備軍を持つ」とすることは独立戦争の精神を否定することになる。それはできない。だから「人民が武器を保有しまた携帯する権利」、つまり武装権を認めた憲法修正第2条が存在するわけです。この条項は市民はいつでも主体的に軍を編成できる権利と解釈できるから。
 改憲派の人たちは「憲法九条は現実と乖離している」、こんな変な憲法は他にないとよく言うけれど、それは端的に嘘で、アメリカも憲法と現実とが乖離している点では変わらない。でも、アメリカはその葛藤をまっすぐ受け止めて、その葛藤に苦しみながら生きている。だったら、僕たちも葛藤しながら生きていたっていいじゃない。理想と現実の狭間で引き裂かれることこそが人間の常態なんだから。憲法の理想と政治の現実が乖離している場合に現実に合わせて憲法を変えようというのは「家が斜めに傾いたから地面をそれに合わせて削ろう」というのと同じだよ。
 憲法と現実が乖離した場合に、僕たちが立ち還るべきは「この憲法をつくった人たちはそもそもどういう流れで、こんな条項を思いついたのか」ということだと思うんです。合衆国憲法は、制定過程でどんな議論があったのかが『ザ・フェデラリスト(The Federalist Papers)』という文献にすべて記録されているでしょう。
高橋
アメリカの憲法も、世界のスタンダードからすればかなりいびつで、何度も修正が重ねられている。でも、その「いびつ」な憲法がつくり上げられていった軌跡がきちんと見えるんですね。
内田
常備軍についても、連邦政府下に強力な常備軍を置こうと主張する連邦派と州政府が兵力を持つべきだという州権派の間にはげしい論争があった。いまの憲法条項はその「妥協の産物」なんです。だからあんな中途半端な条文になっている。でも、論争過程が公開されているから、「意味のわからない条項」の意味がわかる。
 日本の場合はそういうものがないでしょう。どうして九条があるのか、想像力を駆使するしかない。1946年時点で憲法草案を書いた人たちはどのような未来を目指していたのか。彼らの目に世界はどう映っていたのか。憲法を読むときは、現代人の現実意識に即してではなく、80年前の世界に立ち還って、そこで読まないといけないと思うんだ。世界大戦は終わったけれど、この先世界がどうなるのかわからない。朝鮮戦争も東西冷戦もまだ起きていない時に書かれたんだから。
内田さんイメージ
高橋
日本には、自衛隊の前身である警察予備隊もまだなかった。
内田
しかし、すでに原爆は発明されているから、次の世界大戦は必ず核戦争になる。それで人類は滅亡するかもしれない。どんなことがあっても世界大戦は回避しなくてはならない。それが憲法制定時の最優先課題だったと思う。あれから80年経ち、その間に第三次世界大戦は起きなかった。だから、僕たちは「核戦争で世界が滅びる」という予想のリアリティーを1946年ほどひしひしと感じられなくなっている。その感覚の違いを勘定に入れて読まないと九条の切実さはわからないと思うんだよ。
 どうやって核戦争を防ぐか。そのときに思いついたのが近代市民社会を立ち上げた時と同じロジックだった。近代市民社会は強大な「リヴァイアサン」という公共を立ち上げて「万人の万人に対する闘争」を制御しようとした。それと同じロジックで強大な国際機関を立ち上げて「万国の万国に対する闘争」を制御しようとした。新しい「リヴァイアサン」たる国際機関に軍事力を集中させて、それが諸国間の利害を調整し、理非の判定を下し、判定に服さない国は実力で従わせる。そういう仕組みを考えたのは当然だったと思う。それしか人類が生き延びる道はない。そう考えた人たちが書いたのが「戦力不保持」を定めた日本国憲法九条二項だったと僕は思うんだよ。
高橋
さっきの「自衛隊を国連軍にする」アイデアと一緒じゃない。
内田
そう。公共としての国連軍があるから、個々の国は戦力を持たなくても構わない。他国が侵略してきたら国連軍がすぐに出動してくれるから。いまは日本だけだけれど、いずれ日本に続いて世界中の国が「戦力を保持しない」憲法を採用するようになる。たぶん1946年当時の憲法制定者たちはそう想像していたんだと思う。残念ながら、その予測は外れてしまったんだけれど……。
 憲法はただの「空文」であり、目の前の現実だけが立つべき足場だというのは悪しき現実主義であって、想像力の欠如の症状だと思う。あくまで立脚すべきは「この憲法はどのような現実を創り出そうとして起草されたのか」という原点でなければならない。だから、そのつどの現実に合わせてどんどん書き換えようという考えに僕は反対なんです。憲法が望見する「あるべき現実」を基準にして、「目の前の現実」を解釈し、改変するのがことの筋目でしょう。
――政界に目を向けると、自民党と日本維新の会の連立政権が「改憲条文起草協議会」を設置しました。維新は九条二項を削除し、集団的自衛権を全面的に容認。防衛の基本方針を「専守防衛」から「積極防衛」に転換するとしています。
内田
「改憲するぞ」と言ってはいるけれど、実際に改憲発議に踏み切る可能性は低いと僕は思っています。世界情勢がこれだけカオス化している中、限られた手持ちの政治資源を「改憲」に割く余裕はいまの政府にはないでしょう。
高橋
改憲案を発議して国民投票で否決されたら、党是に「改憲」を掲げている自民党の存在根拠が否定されるようなもの。ものすごく支持率が落ち込んでいるときなら一発逆転を狙う可能性もあるけど、いまは考えにくい。
内田
岩盤保守層へのリップサービスとして「改憲やります」とは言い続けるだろうけれど。
高橋
「やるやる」詐欺だね。ただ、どんな条文を起草するかについて、僕が憲法を勉強したときにすごくおもしろいと思ったことがあるんです。憲法学者の長谷部恭男さんに教えてもらったんですが、僕たちが「憲法」だと思って読んでいるものは、実は憲法じゃないんです。
内田
どういうこと?
高橋
憲法は英語で「コンスティチューション(Constitution)」だけど、これは国のかたちそのものを表す言葉で、訳すなら「憲法」よりも「国柄」や「国体」のほうが本当は合っている。そして、僕たちが「憲法」と呼んでいる、一条、二条……と書いてあるものは、本来3次元のものであるコンスティチューションを2次元に投影して言語化した「憲法典」に過ぎない。憲法典だけを見て憲法を論じていてはダメだと言うんです。
内田
それはまったく同感だなあ。憲法を起草した人たちが見ていたものも、まさに「コンスティチューション」だったから。
 敗戦後の焼け野原になった日本で「ここからゼロベースで復興して、こんな国を創ろう」と理想を紡いだ。その志の高さを知って、敗戦で深く傷ついていた日本国民が救われた気持ちになった。これは絶対に見落としてはいけないことだと思うんだ。あの憲法を持ったことはすべてを失った敗戦国民に残された最後の矜持だったんだよ。
高橋
僕らはつい憲法典だけ、たとえば九条なら「戦力を保持しない」という文章だけに注目してしまいがちだけど、戦後すぐに憲法をつくった人たちが描いたコンスティチューションの中に、「こういう国でなければ、われわれは生きていけない」という希望のようなものが含まれていた。
 それを言葉にすれば「戦争をしない国」「平和な国」ということです。現実には不可能のように思われたかもしれないけれど、自分たちが生きている国のありようが、理想とともに生まれたということも、僕たちは知っておいたほうがいい。
内田さんイメージ

いいかげんに、でも真剣に、
私たちは「主権とは何か」を
必死に考えなきゃいけない。

高橋
もう一つおもしろかったのが、2016年に当時の天皇(現在の上皇)が発表したビデオメッセージです。あの中で天皇は、天皇の務めとして「国民の安寧と幸せを祈ること」「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」を大切に考えてきたと語っています。でも、憲法――正確に言えば憲法典に書かれている天皇の「国事行為」には、「祈ること」も「寄り添うこと」も書かれていない。
内田
あれは憲法一条という「憲法典」に天皇陛下がご自身の息を吹き込んで三次元化した「コンスティテューション」だったと思う。
高橋
天皇は「日本国民統合の象徴」とあるけれど、象徴とは何だろう。象徴である天皇の務めとは何だろうと、彼は必死に考え続けたのでしょう。実は、日本で一番真剣に憲法を考えていたのは天皇だったということが、あのときにわかったような気がするんです。
内田
国民は戦後80年、そんなことまったく何も考えていなかったからね。あの「おことば」を聞いたとき、僕は憲法一条の解釈を天皇一人に押し付けてきたことについて国民として「申し訳ない」という気持ちになりました。だから、あの「おことば」は、人が憲法とどう関わるべきかを示してくれた、理想的なケースだったと思います。
高橋
本当はわれわれ国民も、憲法体制の中にいる身として、自分にとってのコンスティチューションを真剣に考えないといけない。
内田
国民主権なんだからね。「主権とは何なのか」をまず考えなきゃ。
高橋
ただ一方で、僕は市民の政治への参加の仕方はパートタイマーでいいと思っているんです。何か起こったときにパッと集まって行動して、終わったらまた日常生活に戻っていく。
内田
独立戦争直後のアメリカの民兵って、そんな感じだったからね。戦いの途中でも、「そろそろ農繁期だから帰るわ」と言って戦線を去って、家に帰る兵士もいた。でも誰もその人を「裏切り者」とか「卑怯者」とか責めたりしない。
高橋
なにより家庭生活が優先。
内田
これはアメリカのすごくいいところだと思う。日本だとこういう場合にすぐに「命がけ」になるじゃない。「ほかのことは全部捨てて、これ一つに命をかけろ」って。政治でも信仰でも仕事でも。でも、そのどれもいちいち命をかけないとコミットできないものじゃない。
高橋
好きなときに好きなことをする。何もしたくないときはしなくていい。そういう「いいかげん」さが市民的自由というものだから。
内田
ほんとにそうだと思う。「今日はなんとなく気が向かないから止めとくわ」でいいと思うんだよ。そういう身体的なセンサーってすごく大切なんだから。それが働くから「今日は絶対に行かなくちゃいけない」ということがわかる。
高橋
それは大事だよね。そのセンサーに従って、どうすればいいかを考えて、自分で動く。いいかげんに、でも真剣に──天皇が考えたのと同じくらいとは言わないけれど必死で考える。それがいま、僕たちに必要なことじゃないかな。
内田さんと高橋さんイメージ
構成/仲藤里美 撮影/平岩享
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