「これまで2年以上、薄焼いわしを食べ続けた結果、無性に橘湾へ行きたくなりました。 一つは、いわしを獲る漁師さんたちに会ってみたかったから。二つは、天洋丸に同乗させていただいて、おいしい理由をたしかめてみたかったから」
島村菜津さん
しまむら・なつ●ノンフィクション作家。『エクソシストとの対話』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。わが国への「スローフード」の紹介者として知られる。
光に引き寄せられる片口イワシを追って、夜中に巻き網漁船で船出する。
「あの晩は寒かった」と漁師さんたちも後からささやくような、春先の凍てつく晩だった。しかも暗い海には波がしらが立っている。
不安げな面持ちで取材班が乗り込んだのは、竹下千代太社長の8隻からなるイワシ船団「天洋丸」のうちの一艘だ。
片口イワシには、光に引き寄せられる習性があるのだという。そこで、日の出の方向に湾曲した雲仙の橘湾に、明け方、その群れが入ってくる。そんな習性を利用する中型まき網漁は、夜中の船出である。500メートルもの網を輪にして投じ、網の底を絞り込むことでイワシを海面に追い込むその漁は、巾着網漁とも言われる。
出港する天洋丸が立てる白波
雪だるまのように着込んでも凍える船の上で、エンジンの熱で暖をとっていた七十八才のベテラン漁師が、私たちに、無言のまま、温かい場所を譲ってくれた。大学で集漁灯の研究をしたという若い漁師は、眠り込んでしまわないようにと、寒い甲板の上で横になる。
網の底から、銀色に煌めく群れが、まるで湧くように現れ、びちびちと跳ねる。
夜中から明け方にかけて、三回から、多い時には六回、投網をするのだという。
遠くの岸辺にちらちらと人家の灯りが揺れ、月の光を映した夜の海、そして、漁を終え、バラ色に染まっていく朝焼けの海を愛でることができるのは、夜中に海に出る漁師たちの特権だ。
まだ空に月が残る時間から、最初の網を引き上げてみるが、思ったほどのイワシは獲れない。やはり、集魚灯は、月が沈んだ漆黒の海でこそ、その威力を発揮する。
「予報では、夜中過ぎから凪ぐはずですが」という竹下さんの言葉通り、真夜中を過ぎると、ふいに海が凪いできた。そして、月が沈んだタイミングで投じた二本目の網は、予想外の大漁だった。
巻き網漁
今では、機械の力を借りるものの、魚群を称えたその網船縁に一列に並んだ男たちが慎重に引き上げていく姿は精悍だ。やがて、目を凝らしていると、網の底から、銀色に煌めく群れが、まるで湧くように現れ、びちびちと跳ねる。これを、別の網で、幾度も掬っては、向いの船の氷水の水槽へと注いでいく。何度も、何度も繰り返し、イワシをいっぱい腹に抱えた運搬船は、大急ぎで港に戻っていく。
一方、本船では、引き上げた網を、インドネシアからの研修生たちが、ベテラン漁師の指導の下、全身ずぶぬれになりながら、すばやく船尾に折りたたんでいく。高齢化が進んだ日本の漁の現場を支えてくれている、しなやかな若い力である。
苦みもくさみも感じないおいしさは、鮮度へのこだわりから生れる。
さて、ここからが肝心なところだ。竹下さんによれば、魚せんべいを作るには、酸化しにくい、脂の少ない小ぶりなイワシが良いのだという。そこで港に戻った船は、イワシを二段階で選別し、即座に、バラと呼ばれる畳大の木製のせいろごと、真水で釜茹でし、乾燥機の中へ放り込む。
真水で釜茹で
水揚げからここまでを、わずか30分以内に終える。その鮮度へのこだわりが、おいしさの秘密だ。従来、煮干しなどの場合には海水で煮るのが常識だが、塩分は限りなく控えめがいいけれど、カルシウムはしっかり取りたい、という現代人のわがままを受け入れて、わざわざ真水を引き込んで、煮てくれているのである。
乾燥
その後、酸化を防ぐため、じっくりと乾燥させる。その間も、女性たちが慣れた手つきで、大きなバラを天地返し、変色したり、ちぎれたものを取り除く。ここまでしているから、苦味もくさみもほとんどない。それに塩分がほとんどないのに、おいしいと感じる魚せんべいに仕上がるわけだ。
乾燥されたいわしを選定する女性たち
そんな手間ひまをかけても、竹下さんがこの仕事を引き受けたのは、安定した需要と価格が、天候や水揚げ量に収入が左右されやすい漁家にとって、とてもありがたいからだと言う。
最盛期には27あった橘湾の船団が、今では、3船団だけになった。
安い外材との競争、燃料の高騰、その上、担い手不足と、日本の漁を取り巻く現状は、とても厳しい。この橘湾でも、最盛期には、27もの船団がひしめいていたそうだが、今では、それも3船団だけになった。最近、廃業した知人からも引き継ぐことになり、このうち2船団を、竹下さんが操業している。
竹下さんは、橘湾の漁を何とか存続していきたいと、若い後継者を募るために研修制度だけでなく、期間を一年に絞った「一年漁師」制度を提案。古い漁網を再利用した使い勝手のよい「網エコたわし」は長崎デザインアワードで受賞。また、外国人研修生たちのために、台所の広いグループホームを自ら設計し、「インドネシア料理研修会」を発足し、煮干しとコラボした「ニボサンバル」も販売、あの手この手で漁を盛り上げている。「今日はたまたま実家に戻っているけど、うちには20代の女の子の漁師もいるんですよ」と言う。
インドネシアからの研修生と竹下さん(中央)
私も、竹下さんも今年で還暦。私は、10年ほど前には、乳がんも経験したし、今後も旅を楽しみ、取材を続けていくためにも、丈夫な骨は不可欠。だから、塩分は最小限で、無添加の魚せんべいは、心強い味方だ。
けれども、あの夜中から明け方まで続く片口イワシ漁を目撃してしまったからには、もう漫然と、ただ身体によくて、おいしいだけのそれではない。
これから、魚せんべいをいただく時には、夜の海で働く勇ましい男たち、加工場の逞しい女たち、漁網と格闘する外国からの若者たち、そして、漆黒の海から湧く、生命力の塊のような片口イワシの群れを思い出しながら、深く感謝していただくことにする。