相田冬二さんのドラマ批評

地上波にBS・CS、ネット配信と、観られるドラマの数がどんどん増える昨今、本当に面白いドラマはどれなのか──。ドラマ批評の専門家や各界のドラマ好きの方々が、「これは見るべき!」というイチオシ作品を紹介します。あなたの琴線に触れるドラマがきっと見つかるはず。

※紹介する作品は、コラム公開時点で地上波・BS/CS・ネット配信などで見られるものに限ります。

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不適切にもほどがある!

2024/3/21公開

ドラマとは何か──根源的な問いが敷き詰められたクドカンのセルフポートレート

 宮藤官九郎の「不適切にもほどがある!」は、第7話『回収しなきゃダメですか?』でいよいよ本題に入ったかに思える。このエピソードタイトルにおける【回収】とは、伏線回収のことである。

 連ドラに対しても映画に対しても、現代のファンはやたら伏線回収が出来ているか否かをSNSで叫ぶ。どうやら21世紀においては、伏線回収出来ているものが良質の作品で、それが出来ていないもの(意図的にしていないかどうかはどうでもいい。するのが前提)はダメなものであるらしい。昭和生まれ昭和育ちのわたしは、こうした思考=嗜好による巷の断定に到底納得できない。まるでバス型タイムマシンに乗って過去から現代にやって来た本作の主人公、阿部サダヲのような気分である。

 事実、この回の少し前、やおら登場した古田新太の若き日を錦戸亮が演じ、さらには阪神・淡路大震災をめぐる一つの悲劇が示唆された際、多くのSNSユーザーは「伏線回収!」と作者クドカンに喝采を叫んだ。

 また、昭和の価値観を振りかざすタイムトラベラーたる体育教師の令和への闖入を物語の端緒とする「不適切にもほどがある!」には、題名通り、具体的に不適切な言動が微に入り細に入り盛り込まれているのだが、たとえばジェンダーをめぐる諸問題への認識がなっていない、とドラマそのものを批判する意識高い系の文化人たちがSNSで暴れた。

 仕込みか? 昭和の言葉で言えば、サクラか? 「伏線回収」を賞賛する者たちも、「不適切」を批判する者たちも、すべてエキストラなのでは? と思わせるほどの現象が現実に巻き起こっている。ここまで作り手の挑発に素直に乗っかって、作品の一部と化してしまう、あまりに単純な視聴者・有識者に呆れながら笑ってしまうが、いや、全部折り込み済みであえて「演じているのだ」ともし開き直られたら、それこそが令和仕草なのかもと納得もする。フィクションの裾野が現実に侵食しているのか、はたまた、現実がフィクションを丸呑みしているのか。

 阿部サダヲと河合優実で形成される父子家庭が、この連ドラの軸である。ふたりは昭和(ふたりにとっては現在)と令和(ふたりにとっては未来)を行き来するが、序盤こそタイムトラベルによって引き起こされるギャップで面白がらせるが、そこに宮藤官九郎の主眼はないことが各話ごとに明るみになっていく。スリルは物語の推移にあるのではなく、作者の深層=真相の皮膜が徐々に破られていくことにある。

 ミュージカルシークエンスの挿入が毎回定番化しているが、そこで歌い踊られる内実は、ほぼ、リテラシーに留意し、社会的ルールにがんじがらめになった現代に対する、ファニーな揶揄であり、ミュージカルというシステムがそうであるようにシンプルかつダイレクトなステイトメントだ。率直な意見表明、いや、ただの感想だ。昭和が令和に対して感じる、ただの感想が、それらしい雰囲気の中で歌い踊られる。これは現代批判ではなく、現代批評である。しかし、これもまた、スパイスや副菜でしかない。

「木更津キャッツアイ」がそうであったように、命というタイムリミットが、可笑しみあふれる筆致を支える。笑って泣ける、と言ってしまえばそれまでだが、こうした古典的な作劇をヴァリエーション豊かに、しかも、あくまでもスモールサイズで展開させてきた脚本家が宮藤官九郎だ。

 一座と呼んでいい大人計画を中心とするキャスト陣。大石静と組んだ近作「離婚しようよ」の仲里依紗をメインキャストの一人(主人公の孫)に据え、あのドラマで仲の不倫相手を演じた錦戸亮をも召喚し、さらに同時期に放映されていた「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」へのあからさまな目配せもする。なんと「家族家族」では娘と父であった河合優実と錦戸亮を「不適切にもほどがある!」は結婚させてしまう。パラレルな背徳感。なんとも愉快な不適切さ!

 もちろん、こうした賑やかしは、ちょっとサプライズなサーヴィスに過ぎない。

 第7話では、かつての人気脚本家の復活劇が描かれた。クドカン自身も含めた無数のシナリオライターたちの肖像がごちゃ混ぜにされたキャラクター。池田成志演じる彼は、当然のように空気を読まぬまま、現代を生き、SNSの罵声に傷つき、一度は降板しかけるが、すんでのところで自信を回復する。

 時代の寵児だった宮藤官九郎も、もう若くはない。朝ドラも大河も手がけた大御所だが、全てが上手くいってきたわけではない。監督作品は不当に無視されたし、昨年の脚本映画「ゆとりですがなにか インターナショナル」は無残な出来映えだった。そうした自虐も込みのセルフポートレートとして、本作はあるのではないか。第7話だけではなく、ドラマ全体を一風変わった自画像として捉えるなら、すっきり捩れたクドカン筆致の醍醐味を積極活用している狙いも見てとれる。

 つまり、タイムトラベルやミュージカルというジャンル性の導入は、メタフィクションという骨格を支える大切な道具なのだ。どこか大工仕事を思わせる「不適切にもほどがある!」が愛おしいのは、現代批評に見せかけた自己言及だからなのだ。

 また、ここには、震災ものへのリベンジもあるのではないか。「あまちゃん」は多くの視聴者に愛されたが、最終盤でグダグダになった。あそこまでアイドルから小劇場演劇まで、サブカルチャーを見事に総括・批評していながら、結局のところ、よくある3.11共同体感動ドラマに落ち着いてしまった。神戸の大地震に挑む「不適切にもほどがある!」は、「あまちゃん」の雪辱戦である可能性が非常に高い。

 地上波の連ドラで志高く書き続けるためには、民意との闘いが避けられない。宮藤官九郎は、観る者を存分に愉しませるが、決して媚びることがない。それは、監督映画を観ても演出演劇を観ても感じることだ。ファニーな佇まいで、民意とストリートファイトしてきた男だと考えている。だからこそ、あと数回で、どのような決着をつけるのか、期待している。

 第7話で阿部サダヲは、「回収しなきゃダメなのか? 最終回がどうなるかわからないから面白いんじゃないのか??」と啖呵を切る。それは、自身と娘の宿命を知っているからこその抗いだが、クドカンの吐露であり、最前線における宣戦布告に他ならない。客の一人として、受けて立ちたい。ここには、ドラマとは何か。そして、物語とは何か。そうした根源的な問いが敷き詰められている。だからこそのセルフポートレートなのだ。

「あまちゃん」では、俳優・宮藤官九郎が登板しそうで登板しなかったもどかしさもあった。飄々としていながら、かつてないほど慎重に駒を進めている「不適切にもほどがある!」にはついに名優クドカンが登場するのか。いや、わたしの想像などをはるかに超える【回収されない】最終回が観たい。

 盟友・阿部サダヲは、キャリア最上の名演。また、旬の人気女優、河合優実もこれまでで最良の芝居と断言できる。阿部にとっても、河合にとっても、そして宮藤官九郎にとっても、これが代表作に昇華することを、心から祈っている。

今回ご紹介した作品

不適切にもほどがある!

放送
TBS系で金曜22時~
配信
Netflix、U-NEXT、TVerほか

情報は2024年2月時点のものです。

筆者一覧(五十音順)

相田冬二

映画批評家

池田敏

海外ドラマ評論家

伊藤ハルカ

海外ドラマコラムニスト

今祥枝

映画・海外TV批評家

影山貴彦

同志社女子大学メディア創造学科教授・コラムニスト

小西未来

映画・海外ドラマライター

辛酸なめ子

漫画家・コラムニスト

辛淑玉

人材コンサルタント

田幸和歌子

フリーライター

寺脇研

映画評論家・元文部官僚

成馬零一

ライター・ドラマ評論家

ペリー荻野

コラムニスト

松本侑子

作家・翻訳家

村上淳子

海外ドラマ評論家

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