地上波にBS・CS、ネット配信と、観られるドラマの数がどんどん増える昨今、本当に面白いドラマはどれなのか──。ドラマ批評の専門家や各界のドラマ好きの方々が、「これは見るべき!」というイチオシ作品を紹介します。あなたの琴線に触れるドラマがきっと見つかるはず。
※紹介する作品は、コラム公開時点で地上波・BS/CS・ネット配信などで見られるものに限ります。
続・続・最後から二番目の恋
2025/7/25公開
「しゃべり場」が描く、不発感の愛おしさ
加齢をロマンティックに描くことはできる。だが、コロナ以後の世界をロマンティックに描くことはできるだろうか?
11年ぶりのシーズン3となった「続・続・最後から二番目の恋」は、そんな冒険を繰り広げていたかに思える。
3.11の翌年、2012年に「最後から二番目の恋」は始まった。ちょうど震災から1年後のクールに放映されていたことは意義深い。3.11以後、わたしたち日本人の価値観は変容した。このドラマもその変容と共にあった。
45歳女性と50歳男性の隣人関係を大家族的ホームドラマのフォーマットの中で描いた本作。あれから13年が過ぎ、女性の還暦までの1年を刻むかたちで「続・続」はスタートする。一度定年を迎えた男性は再就職。鎌倉市長立候補話まで浮上するが、日常をつぶさに見つめるドラマの筆致は変わらない。女性はこれが最後のつもりのドラマ作りに着手する。無論、そうしたファイナル的なカタルシスよりも、時を重ね、歳を重ねることの豊かさと切実さが浮き彫りになる。知らず知らずのうちに周囲に迷惑をかける「老害」の自覚と、若い頃に憧れていたかもしれない理想の「大人」の像の狭間で、主人公たちは日々を噛み締め、酒で洗い流す。これは想定通り。
驚いたのは初回で「2020年」を回想し、女性がコロナにかかり寝込んだエピソードを挿入したことだ。襖一枚挟んだ場所で、見えぬ彼女を見守り、彼女が寝付くまで、目覚めた時、不安にならないように「そこに居る」男性の姿は、二人がプラトニックな関係で在り続けてきたからこそ、絵空事にならない。(コロナによって無理矢理設定された世界的な「ディスタンス」は、結果的にプラトニックなものではなかったか? なんという批評的視座!)この回のラストで、女性の上司は突然死を遂げ、男性の同期も命を落とし、お互い葬儀帰りに出くわし、一緒に飲む。一頻り和やかに話した後、「(人は)死ぬんですね」と女性は呟く。
最終話、男性は一度断った市長選への出馬を再度打診される。現職の女性市長は何度も頭を下げる。候補者が癌にかかっていたことが判明したからだった。
女性の上司(声だけが聴こえる)、男性の同期、市長候補者。姿をあらわすことのない人々の人生さえ抱擁するように紡がれる暮らしの漣と引き潮。一家には光明がさす。難病と共に生きてきた末っ子の影がとりあえず晴れる。しかし同時に訪れる未知の時間への不安を、きちんと掬いとる。あの細やかな密度に「コロナ以後」へのまなざしがある。
初回をクライマックスのように描き、ラスト直前の第10話でとことん能天気に悪ふざけしてみせた以外、残る9エピソード全てはまるで「人生の最終回」の如く淡々と、酸いも甘いも等価に配置された。起こる出来事に全部同じ価値があると言わんばかりに。
新登場のキャラクターふたりの失恋を大切に扱い、その上で主人公の女性と男性の「これから」を映し出す。
全篇これ「しゃべり場」なトーク中心のドラマだが、おしゃべりという時間に含有される「不発感」がむしろ愛おしく感じられる描写になっている。人生には上手くいかないことが沢山あるが、そこに寄りかからず、耽溺せず、どうにかこうにか、未解決のまま、次の朝を迎えることこそが、大人になることなのかもしれない。
人間にはウザい部分がいっぱいある。他人に期待し、依存する。思うようにならないと落胆し、やるせなくなる。どこまでもだが、そんなウザさもうまく組み合わさると、それこそが人間らしさと肯定したくなる。強者の弱さではなく、凡人のウザさを直視するベテラン脚本家、岡田惠和の勇気ある深化。美化でもなく、自虐でもなく。人と人との「個体差」のある関係をフラットに次に進めた。キャラクター重視の作劇を長年積み重ねてたどり着いた「当たり前」が木漏れ日のように眩しい。
今回ご紹介した作品
続・続・最後から二番目の恋
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情報は2025年7月時点のものです。