地上波にBS・CS、ネット配信と、観られるドラマの数がどんどん増える昨今、本当に面白いドラマはどれなのか──。ドラマ批評の専門家や各界のドラマ好きの方々が、「これは見るべき!」というイチオシ作品を紹介します。あなたの琴線に触れるドラマがきっと見つかるはず。
※紹介する作品は、コラム公開時点で地上波・BS/CS・ネット配信などで見られるものに限ります。
もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう
2025/11/10公開
三谷幸喜が25年ぶりに民放で連ドラの脚本を手がける
三谷幸喜が民放の連ドラを手がけるのは四半世紀ぶりのことなのだという。
だからなのか、なんなのか。いまのところ「もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう」は現世とは隔絶された、異様な作品と言っていいだろう。
とりわけ初回は頭を抱えた。
登場人物の名前とその惹句が、初登場ごとに示されるが、文言がことごとくダサい。ことによると、そのダサさは舞台である1984年へのオマージュかもしれないが、批評性(つまり現代から過去を捉え直す感覚)が薄いため、ピントのズレた言い回しにしか思えない。
三谷はエッセイなどで、宮藤官九郎への羨望を隠そうともしていないが、それにしてもクドカンの近作への目くばせが過ぎる。渋谷、というよりほとんど新宿な場の情景も、クドカンの先輩、松尾スズキならどう処理したのか、別なことを考えてしまう。三谷には、松尾のようなワイルドな猥雑さもなければ、クドカンのような闊達なビートもない。なのに「踊ってみた」ショート動画のような無邪気な模倣は見ていて痛々しい。
多彩な登場人物群の交通整理にかけては随一のはずの脚本家だが、どうも初回に関してはまるで捌ききれていない印象すらあった。自身の若い頃の渋谷体験から発想した企画の「郷愁」が技術を阻む圧と化しているのか。
無論、毎作大成功をおさめてきたわけではない。とりわけ、映画監督としてはアップダウンが激しい。だが、第2話、3話と観ていくうちに、これは単なる失敗作とは言い切れないと思うようになった。
1984年、渋谷。独りよがりな演出で、劇団員たちにそっぽを向かれ、半ば追い出されるように、劇団を飛び出した元・劇団主宰者。まだ若い彼は、渋谷の裏町を地獄めぐりのように渡り歩いた挙句、あるストリップ劇場に辿り着く。風営法の改正もあり、ストリップは風前の灯。遂に閉店が決まり、残り1ヶ月となったことから、主人公は個性豊かな劇場の表方・裏方を巻き込み、シェイクスピア「真夏の夜の夢」の舞台を打つことにする。
踊り子への賛美、昭和の気分が色濃い面々の群像など、2025年のリテラシーから完全にズレているのは間違いない。また、菅田将暉扮する若者は終始、独りよがりであり、その自信満々な態度に鼻持ちならないと感じる向きも多いだろう。だが……これはおそらく、集団でのものづくりに関する一つの考察なのだ。それが一種、過剰・過激に映るのは、絶望と期待が差し違える覚悟でそこにあるからに他ならない。
昔は良かった。でもなければ、昔はヘンだった。でもない。従来型の昭和ノスタルジーでも、クドカンがやった愛憎半ばする昭和ディスりでもない。
昭和であろうと、令和であろうと、集団的クリエーションの途方もなさは何も変わらない。そもそも、それは無謀で痛ましいことなのだ。演技経験のないストリップ関係者たちと演劇を立ち上げる主人公の、野心を超えた野心は、ありとあらゆる偏見と自己満足が支えているが、しかし、無謀で痛ましい振る舞いからしか、何も生まれない。三谷幸喜は、そう開き直っているかに思える。
初回のスベリから、どんどんピントが合ってきた。あたかもドラマそのものがツンデレのよう。昭和も、渋谷も、シェイクスピアも、噛ませ犬なのではないか。真の狙いはきっと別なところにある。
視聴者がドラマを育てていくこと。クールが終わる時、このドラマはどんなふうに成長しているのか。どんどん楽しみになってきた。
今回ご紹介した作品
もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう
- 放送
- フジテレビ系にて毎週水曜22時~放送中
- 配信
- FOD、Netflixなどで配信中
情報は2025年11月時点のものです。














