松本侑子さんのドラマ批評

地上波にBS・CS、ネット配信と、観られるドラマの数がどんどん増える昨今、本当に面白いドラマはどれなのか──。ドラマ批評の専門家や各界のドラマ好きの方々が、「これは見るべき!」というイチオシ作品を紹介します。あなたの琴線に触れるドラマがきっと見つかるはず。

※紹介する作品は、コラム公開時点で地上波・BS/CS・ネット配信などで見られるものに限ります。

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悪魔がお前の名前を呼ぶ時

2023/4/13配信

ゲーテ『ファウスト』にちなむ悪魔と神と人間の音楽ファンタジー

 韓流ドラマの優れたジャンルの一つに、ファンタジーがあります。
 たとえば、男女の心が入れ替わるロマンス『シークレット・ガーデン』、死人を生き返らせる不思議な玉のサスペンス『アビス』、不滅の命をもつ男の恋『トッケビ』、古代神話にちなんだ時代劇『太王四神記』など。

 『悪魔がお前の名前を呼ぶ時』はホラーではなく、ひと味変わったファンタジーです。

 主人公は、中年のシンガー・ソング・ライター(チョン・ギョンホ)。彼は悪魔に魂をわたす代わりに、若さと富と成功を受けとります。

 そう、これはゲーテの戯曲『ファウスト』にちなんでいるのです。

 『ファウスト』は、もともとは中世ドイツの伝説で、錬金術師のファウストが、悪魔と契約をかわし、若さと享楽を手にするものの、契約の期限がきて、悲劇的な最期をとげます。

 この伝説に基づいてゲーテが書いた戯曲では、悪魔が「自分は人間を悪に引きずり込むことができる」と言って、神に対して賭けをもちかけます。そして悪魔はファウストに、恋の悦楽と悲哀をやるから死後の魂をよこせと取引をするのです。後半はさらに様々な展開がありますが、死後のファウストの魂は救済されます。

 私はこの戯曲を読んだものの、文体が古いのか、今一つ消化不良で、次に芝居で見たものの、不思議な演出でますます意味がわからず、気になる作品でした。

 そこでドイツへ8回行き、フランクフルトにあるゲーテ生家の記念館、ワイマールにある亡くなった家の記念館など、生涯の場所をほとんど訪れ、ゲーテが大学時代に暮らしたライプチヒでは、『ファウスト』に出てくるアウアーバッハの酒場で食事をして、壁に飾られる色々な展示を見て、悪魔とファウストの銅像も見学。

 それから手塚富雄訳で読み直して、ようやく『ファウスト』が少し理解できたものの、もっと知りたいと思い、このドラマを見たのです。

 するとこのドラマも、途中から神と悪魔が、人間を操ることができるかどうか対決し、天の使いも出てきて、やはり『ファウスト』と同じキリスト教の世界でした。

 思えば、韓国はキリスト教徒が人口のおよそ30%を占め(日本は約1%)、仏教よりも信徒数は多いそうです。そういう意味で、これは韓国らしいドラマと言えるかもしれません。

 本作は、こうした神と悪魔の二項対立の世界観を使いながらも、舞台は、華やかな音楽業界であり、そこに生きる人々を描いた人間ドラマです。

 冒頭の主人公は、30代の若き天才音楽家ハ・リプ。
 しかし彼には秘密があり、本当は白髪頭の中年男ソ・ドンチョンです。
 彼は、1970年代はフォーク・ソングで話題になった歌手でしたが、人気は凋落、老いと貧困と孤独に絶望して、悪魔と契約を結び、若さ、大成功、富を勝ち得たのです。

 ところが、10年の契約期限が近づき、魂を悪魔にわたすことになります。
 魂をなくすと、人間らしい感情を失い、創作ができなくなります。

 すると悪魔から、邪悪な取引をもちかけられます。つまり自分の魂の代わりに、他人の美しい魂を差しだすこともできると……。

 ハ・リプは、身近にいる心のきれいな人を犠牲にして、自分の願いを叶えようか……と考えます。しかし彼には、良心もあり、苦悩するのです。さらに、その心のきれいな女性には、過去に、取り返しのつかない迷惑をかけたことも思い出し、ますます葛藤があります。

 つまり、神と悪魔の対決とは、私たちの中にある善良な心と、利己心や狭量さや嫌悪や嫉妬といった弱い心との葛藤の喩えでもあるのです。

 その葛藤の末に、ハ・リプは、悲惨な結末を迎えるのか、それとも救われるのか……。
 このドラマは、なかなかに奥深い哲学的で文学的なドラマです。

 1970年代のフォーク音楽を懐かしく思いながら、年老いていく中年の淡い悲しみに共感する私のような世代も、むずかしい今の世の中を迷いながら生きている若い世代も、結末に描かれる人間の『希望』と『意志』に心が洗われ、励まされるでしょう。

 歌手を演じた主役のチョン・ギョンホは、1年間のボイス・トレーニングと8か月のギターの猛特訓を受けたそうで、アコースティック・ギターの弾き語りも、エレキ・ギターのロック演奏も惚れ惚れする見事さです。『君のいない道』(The Street You Left)『釜山へ行ったら』(When I am in Busan)など名曲揃いで、YouTubeで何度も聞きました。

 悪魔がとりついたトップスター役は、名優パク・ソンウンが、時にコミカルに魅力的に演じています。主人公の同居人は、『イルタ・スキャンダル』で惣菜店主の自閉症の弟を好演したオ・ウィシク。そして美貌のソン・ガンが歌手志望の若者として出演し、重厚なドラマに、爽やかな風を吹き込んでいます。


松本侑子さん企画・同行解説の文学ツアー第2回『イタリア旅物語』10月11日~10月18日
詳細はホームページにて(カタログハウスのサイトの外に移動します)

今回ご紹介した作品

悪魔がお前の名前を呼ぶ時

以下の配信サービスで視聴できます。
Amazonプライムビデオ/U-NEXT/hulu/FOD/dTV

情報は2023年4月時点のものです。

筆者一覧(五十音順)

相田冬二

映画批評家

池田敏

海外ドラマ評論家

伊藤ハルカ

海外ドラマコラムニスト

今祥枝

映画・海外TV批評家

影山貴彦

同志社女子大学メディア創造学科教授・コラムニスト

小西未来

映画・海外ドラマライター

辛酸なめ子

漫画家・コラムニスト

辛淑玉

人材コンサルタント

田幸和歌子

フリーライター

寺脇研

映画評論家・元文部官僚

成馬零一

ライター・ドラマ評論家

ペリー荻野

コラムニスト

松本侑子

作家・翻訳家

村上淳子

海外ドラマ評論家

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