辛淑玉さんのドラマ批評

地上波にBS・CS、ネット配信と、観られるドラマの数がどんどん増える昨今、本当に面白いドラマはどれなのか──。ドラマ批評の専門家や各界のドラマ好きの方々が、「これは見るべき!」というイチオシ作品を紹介します。あなたの琴線に触れるドラマがきっと見つかるはず。

※紹介する作品は、コラム公開時点で地上波・BS/CS・ネット配信などで見られるものに限ります。

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私の解放日誌

2022/08/05公開

競争社会の「負け組」たち。それぞれの「解放」を淡々とした筆致で描く

Netflixシリーズ『私の解放日誌』独占配信中

『私の解放日誌』を読み解くのは本当に難しい。私の周囲では、ただただソン・ソックに魅了されたという韓ドラファンが多かった。

 都市から離れた郊外で暮らす一家は、その時点ですでに「負け組」であり、競争社会からははじき出されていた。一家の両親は小さなシンク店の経営と農業で働きづくめ。長男はコンビニ運営会社の万年平社員。長女はリサーチ会社、二女は契約社員。三人は1時間半かけて都心の会社に通勤している。

 心に描いていた理想の生活と現実とのギャップに苦悩し、生きることの虚しさや劣等感に悩む彼らの家に、ある日、身元不明で無口な男性ク氏(ソン・ソック)が働きにくる。

Netflixシリーズ『私の解放日誌』独占配信中

 展開の早い普通の韓ドラに慣れたファンの中には、最終話を見終えて「え、これで終わりなの?」と消化不良を起こした人もいたが、これは、きょうだい三人がそれぞれ抱えていた葛藤が時間をかけて解きほぐされて行く過程を見事に描いた作品だと私は思う。

 そして私の目から見れば、このドラマは、韓国社会の民俗文化をベースにした見事な「サルプリ」の物語でもあった。

「サル」とは災難、不運、不浄などのことで、「プリ」には、放たれる、ほどく、解く、といった意味がある。サルプリは、もともと村の行事の儀式の最後にムーダン(シャーマン)が踊るもので、お酒を飲みながら、歌いながら、悪魔や悪神を追い払い、祖先の霊を呼び出し、家族や村の安寧を祈るものだ。(その様式は地方ごとに違う)

 そしてこれは、朝鮮半島の悲劇的な歴史をベースにした「ハン」の踊りでもある。作家李良枝によると、「ハン(恨)」は、日本語の「恨み」とはまったく意味が異なる。言葉にならない嗚咽、慟哭、哀しみ、体全身に沁みついた深い傷みなどの総称である。ムーダンがこのサルプリを踊り始めると、そうした「ハン」が、一つ一つ、解けていくのだ。哀しみが音楽に溶け、胸が詰まりそうな痛みは吐く息で溶け、震える思いは流れる踊りで溶けていく、というように。そしてあの世の人々と交霊しあうのだ。ムーダンが手にする長く白いスカーフはこの世とあの世をつなぐ回路で、その場に交霊のための時間と空間を作り出していく。そのような状況のことを韓国語では「モッシイッタ(粋である)」とも言う。

 大事なのは、サルプリの場では日常世界の逆転劇が始まることだ。たとえば不浄とされた女性だからこそ高貴である、というように。そこでは即物的で即自的な救いをすべて認め、今を肯定して生きる力に転換する。どんなに悲惨な歴史であろうと、どんなに辛い人生であろうとも、積もり積もったハンを解き放ちながら今を生きる。矛盾も葛藤も、目の前にある現実をすべて受け止めていくこと。それこそが、この国の歴史の中で、民衆が生きていくために必要不可欠だったからだ。 男に騙されて大金を貢いでしまった末っ子は、どうあがいても回収できないという現実の中、最低な男を最低として見下し続けることで、自身を被害者から優位な立場に転換する。これも一種のサルプリなのだ。

『私の解放日誌』には、何でもない時間がダラダラと続くシーンがよくあるが、それは「個としての自分を見つめ続けることの大切さ」を問いかけている。そして、一家に転がり込んできた謎の男(ソン・ソック)が醸し出す、無言の表情や息づかい。それはハンの感情を解き放つ「モッ(粋)」そのものだった。

予告編

今回ご紹介した作品

私の解放日誌

Netflixで独占配信中

情報は2022年8月時点のものです。

筆者一覧(五十音順)

相田冬二

映画批評家

池田敏

海外ドラマ評論家

伊藤ハルカ

海外ドラマコラムニスト

今祥枝

映画・海外TV批評家

影山貴彦

同志社女子大学メディア創造学科教授・コラムニスト

小西未来

映画・海外ドラマライター

辛酸なめ子

漫画家・コラムニスト

辛淑玉

人材コンサルタント

田幸和歌子

フリーライター

寺脇研

映画評論家・元文部官僚

成馬零一

ライター・ドラマ評論家

ペリー荻野

コラムニスト

松本侑子

作家・翻訳家

村上淳子

海外ドラマ評論家

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