辛淑玉さんのドラマ批評

地上波にBS・CS、ネット配信と、観られるドラマの数がどんどん増える昨今、本当に面白いドラマはどれなのか──。ドラマ批評の専門家や各界のドラマ好きの方々が、「これは見るべき!」というイチオシ作品を紹介します。あなたの琴線に触れるドラマがきっと見つかるはず。

※紹介する作品は、コラム公開時点で地上波・BS/CS・ネット配信などで見られるものに限ります。

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マイ・ディア・ミスター ~私のおじさん

2024/2/22配信

日本の韓ドラファンの心に刻まれた故イ・ソンギュンの名作

 昨年12月27日、俳優イ・ソンギュンさんが自死した。ソウル市内にある臥龍公園の工事現場に車を止めての練炭自殺だった。

 現場には命の電話のステッカーがハート型にちりばめて貼られ、その下には彼が好きだったバスケットのボールなどが置かれた。ボールに書かれていた「末端から頂点まで上り詰めた俳優」という言葉は、まさにイ・ソンギュンの努力の人生そのものだった。

 彼は映画『パラサイト 半地下の家族』の裕福な家の父親役で一躍世界に名を馳せたが、韓ドラファンなら『コーヒープリンス一号店』(2007年)での、あの甘い声でほっと一息つかせる空気を醸し出す彼の存在にしびれたはずだ。そして『マイ・ディア・ミスター ~私のおじさん~』で、イ・ソンギュンという名は日本の韓ドラファンの心にしっかり刻まれたと言っていいだろう。

 IU主演のこのドラマは、社会の底辺にいる少女ジアンが、ほんの少しの支えを得て困難に打ち勝ち、自分の人生を切り開いていく心温まる物語だ。

 ジアン(IU)が非正規で働く会社の中間管理職ドンフン(イ・ソンギュン)は、韓国社会の中のさまざまな重圧に翻弄されながら生きている、ごく平凡な中年男性。その彼が、ひょんなことから事件に巻き込まれたものの、彼に貸しを作って陥れようとしていたジアンに救われる。

 ジアンは、借金取りに追われながら一人で祖母の面倒を見ていた。そんなジアンの境遇を知り、人間としての尊厳をもって接しようとするドンフン。ドンフンを陥れるために彼の携帯を盗聴していたジアンは、録音された会話を聞くたびに少しずつ変化し、社会や他者との信頼関係が修復されていく。

 韓ドラにありがちなヒーローものではない。金も力もないごく平凡な大人の、いたって人間らしい行動が少女を変えていく。恋した相手が御曹司だったというような韓ドラ名物シンデレラ物語とは対極にある物語だ。

 そう、信じてそばにいる。

 少女の生きる力を信じて、傍らにいる。

 それがどれほど大きな力になるか、このドラマは教えてくれた。見終わって、なんだか、とても温かい気持ちになるのだ。そしてこの物語は、弱肉強食が加速するばかりの韓国社会が必要としたメッセージでもあった。

 虐待を受けるIUの壮絶な演技もさることながら、あのほのぼのとした空気感は、イ・ソンギュンでなければ出せなかっただろう。

 その彼が、脅迫されて数千万円を支払っていた。脅した側の女性が薬物捜査の線上に上がり、そこから芋づる式にイ・ソンギュンの名前が出てきた。

 しかし、薬物検査はすべて陰性。通常なら2回で終わる検査が、大物芸能人のスキャンダルに飛びついたマスコミと警察・検察、そしてユーチューバーのセットで、まだ信用できないとして4回も検査をされ、19時間に及ぶ尋問が行われ、さらにその女性に愛を語る録音がKBS(日本のNHKに当たる)のニュースで流された。

 捜査情報はマスコミにだだ洩れになり、視聴率やイイネの数のために彼の話題は盛られ続けた。警察・検察は、尹大統領の麻薬撲滅キャンペーンの成果を上げようと躍起になっていた。

 共に薬物使用の被疑者とされたK-PopスターのG-DRAGONは陰性だったことで嫌疑が晴れたのに、イ・ソンギュンはその女性との関係があるせいで引っ張られ続けた。本来なら恐喝の被害者として扱われるべき存在だったにも関わらずだ。

 収録したドラマはお蔵入りになり、契約違反、賠償金という言葉が踊り、警察署の前に並ぶおびただしいカメラの前で彼は家族に謝罪した。

 10月19日の警察によるリークから約2ヵ月後、遺書を残し、イは一人旅立った。人気商売にもかかわらず、いつまでも続く捜査と次々に降板となる仕事、すさまじいバッシングの中で精神の平衡を保つのは難しい。しかも彼は一家の長だ。誰に泣き言が言えただろうか。

 リストラが盛んだった頃、私の友人は14時間監禁された状態で会社を辞めるように言われた後でうつを発症し、何年も社会生活ができなくなった。警察での19時間の取り調べは、その比ではない。人権侵害そのものだ。

 1月12日、映画『パラサイト』のポン・ジュノ監督をはじめ2000人以上の映画人が、捜査機関による人権侵害防止を骨子とした、通称「イ・ソンギュン防止法」制定のために声を上げた。声明文「故イ・ソンギュンの死と向き合う文化芸術人の要求」は、彼を死に追いやった社会に対する告発であると同時に、信じてお前のそばにいるよというメッセージでもあるのだ。

今回ご紹介した作品

マイ・ディア・ミスター ~私のおじさん

配信
Netflix、U-NEXT、Amazonプライムビデオほか

情報は2024年2月時点のものです。

筆者一覧(五十音順)

相田冬二

映画批評家

池田敏

海外ドラマ評論家

伊藤ハルカ

海外ドラマコラムニスト

今祥枝

映画・海外TV批評家

影山貴彦

同志社女子大学メディア創造学科教授・コラムニスト

小西未来

映画・海外ドラマライター

辛酸なめ子

漫画家・コラムニスト

辛淑玉

人材コンサルタント

田幸和歌子

フリーライター

寺脇研

映画評論家・元文部官僚

成馬零一

ライター・ドラマ評論家

ペリー荻野

コラムニスト

松本侑子

作家・翻訳家

村上淳子

海外ドラマ評論家

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