辛酸なめ子さんのドラマ批評

地上波にBS・CS、ネット配信と、観られるドラマの数がどんどん増える昨今、本当に面白いドラマはどれなのか──。ドラマ批評の専門家や各界のドラマ好きの方々が、「これは見るべき!」というイチオシ作品を紹介します。あなたの琴線に触れるドラマがきっと見つかるはず。

※紹介する作品は、コラム公開時点で地上波・BS/CS・ネット配信などで見られるものに限ります。

>プロフィールを見る

リクエスト

私のトナカイちゃん

2024/7/16公開

実話を元に描かれたストーカーの恐怖と複雑な人間感情

 話題のネットフリックスのドラマ「私のトナカイちゃん」。チャートの上位にランキングして評判も高いです。ストーカーのドラマだそうでおそるおそる拝見してみました。

Netflixシリーズ「私のトナカイちゃん」独占配信中

 最初の数話を観て、これは人間関係への注意を喚起する作品だと感じました。主人公の売れない芸人、ドニーを演じるのはスコットランドの作家でコメディアンのリチャード・ガッド。このドラマは実話で、なんとリチャードは自身の恐怖のストーカー体験を元にドラマを制作し、主人公を演じているのです。ストーカー体験をドラマの中でまた味わうのは、リアルなフラッシュバックをずっと体験しているようなもので、メンタル的に負担が大きそうです。

 はじまりは一杯の紅茶からでした。「一杯のかけそば」は心暖まる物語でしたが、「一杯の紅茶」はゾクゾクして心が寒くなります。売れない芸人ドニーはバーテンダーとして働いていて、ある日、店に訪れたマーサという、淋しげな中年女性に同情のような感情を抱き、お金がないという彼女に紅茶をおごります。自称弁護士のマーサは勢いづいて、自分が有名人と仕事をして日々忙しく華やかな生活を送っているとアピール。それなのになぜ紅茶代が出せないのかドニーは疑問を抱きますが、売れない芸人という立場の弱さから、マーサの押しの強さに気圧され、店に通われるうちに執心されるように……。バーでの軽妙な下ネタも本気にされて、大量の下ネタまじりのメールが届き、困惑するドニー。彼のように運気が下がっているときは判断力が落ちているので、やばい人に連絡先を教えてしまったり、一瞬気を許してしまったりして、あとあとまで執着されることになりがちです。自分を含め、そんな実体験を持つ人は、モニターを観ながら、ドニーがドツボにハマっていくのをなす術もなく眺めるしかありません。

Netflixシリーズ「私のトナカイちゃん」独占配信中

 マーサの佇まいもそうですが、会話の端々からも関わってはいけない感が漂います。急に変なタイミングでけたたましく笑い出すところも危険です。「同じところに住ませて」とか言ってみたり、「得意料理はビーフカーテン(性器の暗喩)」とアプローチしたり、「ファスナーがあれば顎からお腹まで開けてその中に入りたい」とドニーの体内に入りたいキモい願望まで。ドニーはそんなマーサに対し気をもたせるようなことを言って、当初は拒絶していませんでした。「笑い声に魅了された」と語っていましたが、ネタがすべりまくりのドニーはマーサの笑い声さえも心地よかったのかもしれません。

Netflixシリーズ「私のトナカイちゃん」独占配信中

 ピクニックに一緒に行きたいと迫られたドニーは「ビクニックは恋人同士が行くもの」と断り、コーヒーを一緒に飲むことで納得してもらいます。カフェで「私のこと真剣に考えてる?」とマーサに聞かれ「真剣に考えてるよ。友人としてだ」とドニーが答えると「ホーホホホーヒャッヒャー!!」と唐突に大声で笑い出すマーサ。マーサ役を演じるジェシカ・ガニングの演技力もすごいです。ドニーが恋人になりたいというアプローチを何度か受け流すうちに、マーサの言動が愛憎入り交じるように。

「あなたの動画はクソだった」と芸人の才能をなじったと思ったら「あなたは傷を負ってる」と理解者のように言ってきたり。急に上から目線でアドバイスしてくるのはストーカーあるあるです。プライドと自己愛が強く、ホメたりけなしたりの話術で相手を自分のマインドコントロール下に置こうとします。マーサはドニーのコントのイベントにも現れて客席からヤジを飛ばすように。しかしマーサに対し「ママやめて!」「君の宇宙船は外に停まってるのか」といじると、客席は微妙に受けました。天然というかガチのやばいキャラが現れると、それなりに場が盛り上がる……そんないびつな成功体験で、ドニーはマーサに強く出られなくなってしまったのでしょうか。

Netflixシリーズ「私のトナカイちゃん」独占配信中

 ドニーはマッチングアプリで出会ったテリーという知的でクールなトランスジェンダーの女性に夢中になります。デートを重ねる日々ですが、その間もマーサからの執拗なメールが届いて、素敵な女性との交際に集中できません。マーサの存在が日常を侵蝕していきます。ストーカーと被害者の関係は、ねじれた両思いになってしまっているのだと思います。偏愛と恐怖が同じ強さで結びついてしまっているようです。相手のことを考えない、無視することで、ストーカーの熱量やエネルギーは軽減されるのですが、ドニーはマーサのことがどうも気になってしかたがありません。やめれば良いのにマーサのメールや録音メッセージをチェックしたり、人物像をプロファイリングしたり。こうなったらストーカーの思うつぼです。ドニーがストーカーをシャットアウトできないのは、自己肯定感が低いドニーにとって、少しは心の支えになっていたからかもしれません。ドラマの後半では、そんなドニーの心の闇やトラウマが描かれています。とはいえ、ストーカーを引き寄せてしまったのは決して自己責任ではありません。不運な事故のようなもので、しかるべきところや信用できる人に助けを求めて、平穏な日常に戻る必要があります。

Netflixシリーズ「私のトナカイちゃん」独占配信中

 ドラマは7話で終わりですが、現実はまだ続いていました。やはり関わってはいけない人を刺激してしまったのでしょうか。マーサのモデルになったと思われる弁護士の女性が名誉毀損でネットフリックスを訴えると言い出し、トーク番組にも出演。さらに、動画のアクセス数がかなり良かったとのことで、トーク番組の司会者に対し100万ポンドの支払を要求したそうです。

 一杯の紅茶からはじまった実話が注目のドラマになって、大変な思いをした売れない芸人の主人公も有名になれて良かった、というところで終わればハッピーエンドだったのですが……。リアルのドラマはさらにこじれそうで、法律を熟知したプロのストーカーほどおそろしいものはないと戦慄しました。

今回ご紹介した作品

Netflixシリーズ「私のトナカイちゃん」

配信
Netflixで独占配信中

情報は2024年7月時点のものです。

筆者一覧(五十音順)

相田冬二

映画批評家

池田敏

海外ドラマ評論家

伊藤ハルカ

海外ドラマコラムニスト

今祥枝

映画・海外TV批評家

影山貴彦

同志社女子大学メディア創造学科教授・コラムニスト

小西未来

映画・海外ドラマライター

辛酸なめ子

漫画家・コラムニスト

辛淑玉

人材コンサルタント

田幸和歌子

フリーライター

寺脇研

映画評論家・元文部官僚

成馬零一

ライター・ドラマ評論家

ペリー荻野

コラムニスト

松本侑子

作家・翻訳家

村上淳子

海外ドラマ評論家

週刊テレビドラマTOPへ