戦後78回目の8月15日──

日本は再び戦争をする国になるのですか。

戦争と平和を考える18人の声

岸田政権は昨年12月、敵基地攻撃能力(反撃能力)を保有することを決めました。攻められないかぎり攻撃をしない「専守防衛」を国是としてきた日本の安全保障政策は、戦後78年のいま大きく変えられようとしています。「戦争と平和を考える」18人の声をお読みください。

古賀誠さん

海老名香葉子さん

福永嫮生さん

私はこう考える

古賀誠さん

自民党元幹事長、日本遺族会元会長

今の政治家は先の大戦の教訓から何を学んでいるのか。政治の貧困によって二度と愚かな戦争を繰り返してはいけない。

 戦後78年になり、戦争世代が政治の舞台から消えました。時の流れは止められないけれども、私のような戦争を少しでも体験している者からすれば、大きな不安が拭えません。確かに今の若い政治家は社会や経済・経営の知識が豊富です。海外留学の経験を持つ者も多く、国際感覚にも優れている。政策立案の力もたいしたものだ。理論と理屈には本当に長けていると思います。
 しかし、そうした能力があるからといって、優れた政治ができるわけではありません。政治にとって最も大切なものは、言うまでもなく、国民の生活を守り、自由と民主主義を守り、平和を守り抜くことです。
 終戦後、日本には戦争で夫を亡くした妻たちがあふれていました。その数、100万人超。私の母もその1人でした。戦線で散った男たちや空襲で息絶えた人たちと同様、残された者たち、とくに戦争で夫を亡くした女性は紛れもなく戦争の犠牲者でした。食料もまともに手に入らない時代、彼女たちは筆舌に尽くしがたい苦労の連続だった。昭和15(1940)年生まれの私が曲がりなりにも社会の一員として育ったのは、母のおかげです。同じような境遇の子どもは日本にたくさんいました。
 先の大戦での勝敗は事実上、1944年6月のマリアナ沖海戦で決しました。大敗北した日本はグアム島、テニアン島、サイパン島を失い、日本は制空権も奪われた。開戦からマリアナ沖海戦までに失われた日本人の尊い命は約100万人、マリアナ沖海戦から終戦までの1年2ヵ月は約210万人です。
 歴史に「イフ」はありませんが、あの海戦後に連合国側の意向を受け入れて「戦争をやめる」という決断ができていれば、あんなにも多くの犠牲者は生まれなかった。原爆投下もなかったし、各都市への無差別爆撃もあそこまで激化しなかったでしょう。でも、政治は「敗北」を受け入れず、戦争の中止を決断できなかった。まさに政治の貧困そのものです。
 平和の尊さ、戦争の愚かさを実感として知る戦争経験者の政治家がいなくなった今、日本はほんのわずかずつ戦争に近づいているように思えます。安保三原則に見る敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有など安保政策の大転換が進んでいますが、憲法9条や専守防衛は単なる安全保障政策の議論ではないのです。あれだけ大勢の先人たちが命を落とすことになった、その政治の過ちを次世代の政治家が常に肝に銘じておくための“教訓”でもあるのです。


こが・まこと●1940年、福岡県生まれ。日本大学商学部卒業。1980年、衆院議員に初当選し、以後10期連続当選。1996年、橋本内閣で運輸大臣。1998年自民党国会対策委員長。2000年、自民党幹事長。2002〜12年、日本遺族会会長。2006年、保守本流の自民党「宏池会」会長に就任(現在は名誉会長)。2012年、政界引退。著書に『憲法九条は世界遺産』(かもがわ出版)など。

海老名香葉子さん

エッセイスト

戦争で家族がみんな死んでしまったんです。世界中のどこにも、二度と私みたいなかわいそうな子をつくらないでほしい。

 78年前、1945年3月の東京大空襲で家族がみんな死んでしまったんです。祖母と両親、2人の兄、弟の合わせて6人。生き残ったのはすぐ上の兄と私だけ。みんな、さぞ苦しい苦しい思いをしたんだろうと思うと本当に切ないです。
 私は一人だけ縁故疎開していました。そこへただ一人生き残った兄が訪ねてきて、家族の最期を知らせてくれました。翌日、兄は東京に戻り、それから何年も音信不通に。私は戦災孤児となり、人に言えないような苦労を重ねてきました。でこぼこの鍋を拾ってきて、火を分けてもらって、雑草を茹でて飢えをしのぎました。塩も砂糖も手に入らず、なんの味もしませんが、ぜいたくは言えません。私はたった11歳でした。本当によく頑張りました。
 子どもですから、よそさまが羨ましくなることもありました。今は皇室が大好きですが、当時は天皇ご一家の仲むつまじい様子の写真を見て、「私にも父ちゃん、母ちゃんがいて一緒に暮らしていた。同じ人間なのに、なんでこんなに違うの」といじけました。そんなときは、母ちゃんの「香葉子、道をそれちゃだめよ。まっすぐ歩いていきなさい」という言葉を思い出し、歯を食いしばりました。このことは何度お話ししても涙が出てきますが、「私みたいなかわいそうな子どもを二度とつくらないでほしい」という思いで、今も全身全霊で話しています。
 2005年から東京大空襲の犠牲者を悼む「時忘れじの集い」を開いて、遺族や地元の台東初音幼稚園の園児たちが参加して共に平和を願ってくれています。今年は私が作詞した「ババちゃまたちは伝えます」という楽曲を台東初音幼稚園の園児たちが歌ってくれました。ウクライナ侵攻の報道を見て、やるせなさが募り一気に詩を書き上げたところ、知人の勧めで曲をつけることになったものです。歌詞には「地球上に戦争がなきように」という願いを込めました。この願いが世界中の一人でも多くの人に届いたらうれしいです。


えびな・かよこ●1933年、東京生まれ。東京大空襲により両親をはじめ家族6人と死別。18歳で落語家・林家三平氏と結婚。三平氏の死後はコメンテーター、エッセイスト、講師など幅広く活躍し一門を支える。2005年から東京大空襲の犠牲者を悼む「時忘れじの集い」を主催する一方、東京・上野に私財で慰霊碑と平和母子像を建立し、慰霊を続ける。『うしろの正面だあれ』(金の星社)など著書多数。

福永嫮生さん

満州国皇帝「溥儀」姪

「ラストエンペラー」の弟だった父は戦争に翻弄されましたが、戦後は日中友好に尽くしました。両国はもう二度と戦争してはいけません。

 中国で長く続いた清朝のラストエンペラーで、満州国皇帝だった愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)の実弟・溥傑が私の父です。父は、天皇家の縁戚にあたる嵯峨浩(さが・ひろ)と結婚し、私が生まれました。2人の結婚は、満州国を操る日本の関東軍が考えた政略結婚でしたが、2人は心から愛し合い、本当に仲が良かった。戦争に引き裂かれて歴史に翻弄されながらも終生、日中友好に尽くしました。
 1945年8月に満州国が崩壊すると、父はソ連軍に拘束されます。私は5歳でしたが、1年5ヵ月もの間、母と一緒に中国大陸を流浪することになりました。共産党と国民党による「国共内戦」のさなかのことです。
 46年2月、以前は満州国だった通化市で日本人が蜂起した「通化事件」のことはよく覚えています。共産党軍に軟禁されていた皇后さま(婉容=えんよう)や私たちを助け出そうと、日本の方たちが(公安局の)部屋に来られて、銃撃戦になりました。皇后さまの乳母は手首が飛んで、その手で顔をなで回し、顔面が血だらけになって……。恐怖でした。日本人の遺体がたくさん道端や川にあったことも忘れられません。でも、中国の人も私や母の上に伏せて守ってくれた。
 私と母はその後、国民党軍にも監禁されましたが、何とか引き揚げ船に乗ることができました。でも、父の消息はなかなか分からなかった。ソ連や中国で収容所生活を送っていて、私たちと文通を許されたのが終戦から9年後、北京で再会できたのはさらに7年後でした。
 北京にあった父の自宅には、日中友好に関わる両国の人たちが毎日のように訪ねて来ていました。初対面の人にもすごく親しげにしていたことを覚えています。
 父が好きだった言葉は相依為命(あいよっていのちをなす)です。「相手を自分のことのように思いやって生きよう」という意味だそうです。日中両国は「兄弟のように仲良くしてほしい」と父は願っていました。父と母が亡くなってからも、2人を知る両国の人たちと私との交流は続いています。日本と中国はいろいろな問題がありますが、二度と戦争してはいけません。そのために心と心の付き合いをしてほしい。日中友好は、父と母が残してくれたもの。私も生きている間は貢献したいと思っています。


ふくなが・こせい●1940年、東京都生まれ。愛新覚羅溥傑・浩の間に生まれた2人姉妹の次女で、満州国「最後の皇女」。62年、日本国籍を取得。実業家の福永健治と結婚し、5人の子どもに恵まれた。著書に『流転の王妃 愛新覚羅溥傑・浩 愛の書簡』(文藝春秋)。兵庫県西宮市在住。