戦後78回目の8月15日──
日本は再び戦争をする国になるのですか。
戦争と平和を考える18人の声
岸田政権は昨年12月、敵基地攻撃能力(反撃能力)を保有することを決めました。攻められないかぎり攻撃をしない「専守防衛」を国是としてきた日本の安全保障政策は、戦後78年のいま大きく変えられようとしています。「戦争と平和を考える」18人の声をお読みください。
私はこう考える
下重暁子さん
作家
敗戦時、「アメリカ兵が来たら、隠れなさい。もし見つかったら、これを飲みなさい」と、母から青酸カリを渡されました。
下重家は代々軍人の家で、父は長男でした。絵がとても上手で画家志望でしたが、戦争への抗し難い強烈な渦に巻き込まれ、陸軍士官学校を卒業して軍人になりました。1945年当時、父は大阪の「大正飛行場」(現・八尾空港)の責任者をしており、母と兄と私は奈良県の信貴山(しぎさん)にあった旅館の離れに疎開していました。そこで唐突に敗戦を迎えたのです。
父は数日後、それは大きなリュックを背負って帰ってきました。そして来る日も来る日も、朱色の罫線のある軍の機密書類をひたすら燃やしていきました。真っ青な空、ぐるぐる飛ぶ赤トンボ、そして切ない父の背中――。これが私の敗戦の風景です。
その頃、母からある物を手渡されました。そのことも今でもはっきりと覚えています。「あなたは軍人の娘だから、アメリカ兵に狙われる。もしアメリカ兵が来たら、まず風呂に隠れなさい。もし見つかったら、これを飲みなさい」と白い薬包を渡されました。後から尋ねると、中身は青酸カリ。辱めを受けるくらいなら自ら命を絶ちなさい、ということだったんです。
私は戦中より、戦後の方がずっとつらかった。父は公職追放で職を追われ、仕事探しは難航しました。住む所も、食べる物も、着る物も、何もない。生活はどん底でした。想像できますか? 今、あなたの身の回りにある物が全てなくなるんですよ。
戦争は始まってしまったら、どちらかが負けるまで戦い続けるんです。誰にも止められません。今、戦争の匂いを感じています。「家族は大切なもの」「子どもは大勢産む方がいい」「軍備は拡張すべき」という風潮は国力を高めようという方を向いており、極端な言い方ですが、国の謀略とも捉えられます。今ここで踏ん張らなければ、支配層の都合のいい方向に引っ張られてしまう。私たち一人ひとりが個人の生活を大切にして、それを意識的に守っていかなければならない。あの戦争を体験した者として、皆さんにお伝えしたいです。
しもじゅう・あきこ●1959年、早稲田大学卒業。NHKでアナウンサーとして活躍後、民放キャスターを経て文筆活動へ。公益財団法人JKA(旧・日本自転車振興会)会長などを歴任。現在、日本旅行作家協会会長。『家族という病』(幻冬舎新書)など著書多数。8月18日に『結婚しても一人』(光文社新書)を刊行予定。
吉田裕さん
歴史学者
戦争の実感が薄れてきた今こそ、戦後の日本社会が戦争の歴史にどう向き合ってきたのか検証すべきです。
アジア・太平洋戦争前夜と今の日本の雰囲気が似ているという指摘があります。もちろん全く同じわけではありませんが、雰囲気が似てきたのではないかという感覚は確かにあるのです。
日本には、戦争放棄をうたう日本国憲法があり、そのうえで戦後の日本社会が長期にわたって戦争に直接は関わらなかったという歴史の重みもあります。しかし一方、マスコミは政府に対して批判的な報道姿勢を失いつつある。さらに、敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有や防衛費の大幅な増額といった、戦後日本が培ってきた専守防衛の原則から外れるような政策が、十分な議論なしに次々と決まっていきます。
歴史を振り返ると、時代には思いもかけぬほど急激に変化する局面があります。1931年の満州事変までは、対外的には英米との協調外交が保たれ、国内では政党政治が機能し、都市部の人たちはアメリカをモデルにした都市文化を謳歌(おうか)するなど、それなりに豊かに暮していました。まさかその10年後に戦争が始まるなんて予想もできなかったはずです。でも戦争は起き、多くの人が犠牲になった。
戦後しばらく日本にあった「あの悲惨な戦争を繰り返してはならない」という体験に裏打ちされた平和主義。それが崩れつつあるのだと感じています。だとすれば、すでに「変化」は始まっているかもしれず、その兆候を嗅ぎ取る鋭敏な嗅覚を一人ひとりが身に付けるべきです。
日本が近代国家としての歩みを始めた1868(明治元)年からアジア・太平洋戦争の敗戦までが77年、今年2023年は「戦後」78年です。ついに「戦前」より「戦後」が長くなりました。戦争の実感が薄れていくからこそ、より戦争の歴史をしっかりと振り返り、戦争の歴史に戦後の日本社会がどう向き合ってきたのか、あるいは向き合ってこなかったのかについて検証すべきです。そして、平和主義を再構築するために何をしなければならないのか、早急に考える必要があります。
よしだ・ゆたか●1954年、埼玉県生まれ。一橋大学名誉教授。東京大空襲・戦災資料センター館長。著書に『アジア・太平洋戦争』(岩波新書)『兵士たちの戦後史』(岩波書店)など多数。2018年『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)で第30回アジア・太平洋賞特別賞、新書大賞2019を受賞。
樋口恵子さん
評論家
戦争の悲劇は死ぬまで伝えたい……いえ、死んだ後でも伝え続けたい。どんな理由があっても戦争だけは絶対にしてはいけません。
1941年12月8日、日本放送協会のラジオのニュースで太平洋戦争の開戦を知りました。私は小学校(国民学校)3年生、2歳上の物知りな兄は「世界大戦が始まった!」と飛び上がりました。父は、ぼーっとした様子でしたが、しばらくすると「軍部は間違っている。日本は負けてしまう」と言っていました。戦況が悪化してきたころ、「お父様、この戦争は負けるかしら」と尋ねると、「だから恵子はバカなんだ。もう負けているじゃないか」と。そう答える憮然とした表情を忘れられません。
学校というものは大勢の影響を受けやすいところです。1941年に設立された国民学校は、まるで小さな兵営のようでした。国語や算数の授業もあるにはありましたが、暇さえあれば「教練」の授業があり、なぎなたの練習をさせられました。良妻賢母を目指す「裁縫」も始まりました。裁縫室の壁に飾られた写真には、わが子の戦死の報を聞く母親が写っていて、頭(こうべ)を垂れてはいるけれど涙はこぼしていない。単に裁縫の技術を教えるのではなく、「軍国の母」となる心構えを教える授業でした。
兄は結核性の病気で1945年3月に16歳で亡くなりました。軍人・軍属が戦闘中に殉職する「戦死」ではもちろんなく、空襲などで民間人が死亡する「戦災死」でもありませんでしたが、兄は戦争のせいで亡くなったと思っています。戦死者、戦災死者に数えられない大勢の人が戦争のせいで亡くなりました。
私は戦禍を生きながらえ、91歳になりました。そのことに感謝しつつも、「100歳まで生きてしまったらどうしよう。体はあちこち痛くなるし、お金も心もとないし……」と家族や仲間にいつも愚痴ります。その後は必ず、「こんなふうに、くよくよ言っていられるのは日本が平和なおかげよね」と笑うのがお決まりです。
どんな理由があったとしても、戦争は絶対にしてはいけません。凶悪で凄惨な事件もたくさんありますが、私は戦争より悪いものは、そうそうないと思います。この戦争の悲劇は死ぬまで、いえ、死んだ後でも書籍などを通じて伝え続けたいと考えています。
ひぐち・けいこ●1932年、東京生まれ。東京家政大学名誉教授、NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」理事長。東京大学文学部卒業後、時事通信社、学習研究社、キヤノンを経て、評論活動に入る。介護保険制度の導入に尽力。『老〜い、どん!』(婦人之友社)、『老いの福袋』(中央公論新社)、『90歳、老いてますます日々新た』(柏書房)など著書多数。