戦後78回目の8月15日──
日本は再び戦争をする国になるのですか。
戦争と平和を考える18人の声
岸田政権は昨年12月、敵基地攻撃能力(反撃能力)を保有することを決めました。攻められないかぎり攻撃をしない「専守防衛」を国是としてきた日本の安全保障政策は、戦後78年のいま大きく変えられようとしています。「戦争と平和を考える」18人の声をお読みください。
私はこう考える
堀尾眞誠さん
『はだしのゲン』編集者
戦争は人間を歪め、残酷にする。『はだしのゲン』にはその真実が描かれています。
今年5月、広島でG7サミット(主要7カ国首脳会議)が開かれました。ところが、核軍縮に関する共同文書「広島ビジョン」では、広島県出身の岸田文雄首相が議長であるにもかかわらず、核兵器廃絶のための具体的な言葉が一言も入らなかった。『はだしのゲン』を描いた漫画家・中沢啓治さんが生きていたら、怒り心頭だったと思います。
広島市の教育委員会が、2023年度から小学生向けの平和教育の教材から『はだしのゲン』を外すという出来事もあった。『はだしのゲン』には、中沢さんの経験をもとにした事実が描かれている。その事実を隠したい大人がたくさんいるということなのでしょう。
中沢さんが漫画を描いているときは、誰も話しかけることができません。その背中は「こんちくしょう、こんちくしょう」と言っているようでした。原爆で父と姉、弟を亡くし、原爆投下の当日に生まれた妹も4カ月半後に失っています。作品を描く原動力は「日本が悪い、米国が悪い」といったものではなく、「原爆投下につながったものすべて」への怒りでした。
私と『はだしのゲン』との出合いは偶然でした。1975年、中沢さんが赤旗日曜版に連載していた『チンチン電車の歌』を単行本にさせてもらおうと、江東区にある都営住宅に伺った時です。単行本のお願いをすると、押し入れから『はだしのゲン』を取り出し、「これも出版してほしい」と言われました。集英社の『週刊少年ジャンプ』に連載されていた作品ですが、ギャグ漫画主体の同誌では異色の作品だったからか、単行本にならないまま原稿が中沢さんの自宅に保管されていたのです。
中沢さんは6歳の時に被爆されました。数千人の遺体を見た経験を思い出して描くことを「とてもつらい」と話していた。それでも、被爆の経験を漫画にして、全世界に伝えることに人生を捧げました。戦争は人を歪め、残酷にします。『はだしのゲン』に衝撃を受ける人が多いのは、それが戦争の真実だからです。
ほりお・まこと●1950年、愛知県生まれ。大学時代に週刊少年ジャンプで『はだしのゲン』を読み、衝撃を受ける。大学卒業後、汐文社に入社。75年に漫画家・中沢啓治氏の担当編集者になり、単行本での『はだしのゲン』刊行に尽力した。この作品は絵本なども含めると1000万部を超えるロングセラーになり、世界各国で翻訳されている。
馬場あき子さん
歌人
開戦の日、地球儀を見た私は、ミミズほどに小さな日本と広大なアメリカを見比べて、「勝てるはずない」と思いました。
太平洋戦争の記憶というと、開戦と敗戦の日のことをありありと覚えています。
1941年12月8日、私は東京にある高等女学校の2年生で数学の試験を受けていました。突然、試験が中止になり、全員が集められて、校長先生を通じて開戦の詔勅(しょうちょく)を聞きました。その後、当番だった私は友だちと2人で大きな地球儀を教材室へ運びました。「アメリカってどこにあるんだろう?」って地球儀を回したら、ものすごく広大な国土が広がっている。日本は大陸の縁に引っ付いたミミズほどに小さくて頼りなく見えて。「勝てるはずない」と思ってゾッとしました。
そんな予感は当たってしまい、開戦後たった4ヵ月でドーリットル空襲(注)が東京を直撃。高田馬場の自宅にいた母によると、自宅に近い早稲田の辺りで大きな爆弾の音がしたそうです。「でも、絶対に人に言っちゃダメよ」と。かん口令が敷かれていたようです。
1944年になると、(現在の東京都武蔵野市にあった)中島飛行機の大きな、お城のような工場に動員されて飛行機の発動機の台座を造っていました。8時間ずつ3交代で、夜12時からの組が一番つらかった。白々と夜が明けていくと虚無的な思いがして、ずっと灰色の時代が続いていくような気がしたものです。
1945年、うちの近くに焼夷弾が落ちて自宅が燃えて、焼け出されました。焼け残った家に間借りさせてもらい、結局、そこで家族そろって玉音放送を聞いたんです。父は「戦争に負けた」と言いました。夜になって「電気をつけてみよう」「いや、どこもつけていない」「あ、あそこはつけている」と一大決心をして電灯の遮蔽幕を取ると、部屋が煌々と照らされました。60ワットの電球だからそんなに明るいはずはなかったのに「うわーっ、明るいね」って大騒ぎ。そんななんでもない日常の一コマを妙によく覚えています。
敗戦の年は1日に4回も空襲があって、「とにかくすぐに逃げる」ことしか考えず、友だちと遊んだ記憶はゼロです。そんな鬱屈したエネルギーが爆発して敗戦後、一気に数十首の短歌を作りました。17歳で詠んだ「焼けはててのこるものなき家のあとに炭を拾ふと我は立ちたり」はその1つ。その後、「昭和とは何であつたか国家とは何を強(し)ひたか焼けた桜よ」と詠みました。ある意味、戦争が私を歌人にしてくれたのかもしれません。
(注)1942年4月18日、ジミー・ドーリットル中佐指揮の米爆撃隊による日本本土への初の空襲。
ばば・あきこ●1928年、東京生まれ。朝日歌壇選者。日本藝術院会員。文化功労者。夫の岩田正(故人)と共に歌誌「かりん」を創刊、現在は発行人を務める。歌集『葡萄唐草』(立風書房)で迢空賞を受賞。その後も数多くの賞を受賞する。2021年、『馬場あき子全歌集』(角川文化振興財団)を刊行。馬場さんを追ったドキュメンタリー映画『幾春かけて老いゆかん』が公開中。
岩崎加根子さん
劇団俳優座・代表
『戦争とは…』は今年で29回目。戦争をどう捉えるかは人によって違いますが、戦争の不幸は伝え続けねばなりません。
中国残留女性を扱った演劇『とりあえずの死』の公演をしたことがあります。今から31年前の1992年のことですが、あのとき、戦争にはまだ私たちが知らないこと、後になってわかることがいっぱいある、と気づいた。それで、出演していた俳優のうち数人が集まって「戦争とはどんなものかを継続して考えていこう」ということになり、『戦争とは…』として公演しました。
『戦争とは…』は、劇団の中の有志一人ひとりが本などから探してきた戦争の体験談などを題材にした朗読でした。最初は1回だけと思っていたのです。だって、戦争がなければやらなくてもいいものじゃないですか。だけど観客の方々から「もっともっと上演してほしい」という要望があり、2回目、3回目と続けるうちに、じゃあ、やれるまでやりましょう、と。
29回目の今年は、ウクライナ生まれでベラルーシ人のノーベル賞作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんの『ボタン穴から見た戦争』を原作に、初めて演劇として公演しました。第二次世界大戦を子どもの時に経験した人たちの証言を集めたものです。
この本には、ウクライナのことがたくさん出てきます。80年も前のことですが、読んでいると、「これが今、現実になってないか」と、ぎょっとしました。子どもたちをあんな目に遭わせたのと同じように、現実が再びそこに向かっているのはとても恐ろしい。「歴史は繰り返す」などと簡単に言ってほしくありません。
「こういうものが戦争だ」とは簡単には言えない。私たちは演劇を通してお客様と一緒に考えたいですし、演題『戦争とは…』のテンテンテンにはその思いを込めています。
平和を願う気持ちや不穏な社会になってほしくないという思いがあるからこそ、続けているのです。
いわさき・かねこ●1932年、北海道生まれ。1949年に俳優座養成所1期生になり、卒業後の1952年に劇団俳優座入団。舞台を中心に、映画、テレビで幅広く活躍。主な出演作に舞台『桜の園』、映画『ひめゆりの塔』『人間の條件』など。読売演劇大賞最優秀女優賞などを受賞。