地上波にBS・CS、ネット配信と、観られるドラマの数がどんどん増える昨今、本当に面白いドラマはどれなのか──。ドラマ批評の専門家や各界のドラマ好きの方々が、「これは見るべき!」というイチオシ作品を紹介します。あなたの琴線に触れるドラマがきっと見つかるはず。
※紹介する作品は、コラム公開時点で地上波・BS/CS・ネット配信などで見られるものに限ります。
御上先生
2025/3/7公開
学校という「道場」が大きく変貌する只中の「現代」
2024年秋クールの「宙わたる教室」(NHK)は、この年を代表するドラマだった。いや、映画を含めた映像フィクションという大きな枠組みで捉えても断トツのベストワンと言える完成度だった。革新性と普遍性が必然的に結びついていた。教室/教師ものに漫然と横たわる怠惰で硬直化した理念を置き去りにして、一歩も二歩も三歩も先に進んだ。
あの番組には何よりもテレビドラマに対する危機感があった。テレビはこのままでいいのか。従来通りのジャンルものに、静かに疑問を呈していた。その高い志が、スタッフ・キャストの尽力によって現代にふさわしい作品を生み出した。NHKは「宙わたる教室」を作った。では民放はどうするのか。志はあるのか。危機感はあるのか。
かつて「ドラマのTBS」と言われたTBS。優れた作品もあるにはあるが、全体的には低調だ。とりわけ看板だったはずの日曜劇場の試行錯誤はなかなか終わらない。ホームラン狙いの大振りが空振りに終わることも少なくなく、往年と比較しても仕方がないとは言え、目に見えて低迷している。
その日曜劇場が、教室/教師ものを刷新するエナジーに満ちあふれた「御上先生」を打ち出した。時期的に「宙わたる教室」の向こうを張ったわけではないだろう(準備などを鑑みれば1クール直後に対抗も影響もありえない)が、これが実に対照的。「宙」の舞台が定時制高校なのに対し、「御上」のそれはエリート校。「宙」には定時制をやや見下している日中の生徒も登場したが、そちらを生徒のメインに据えたのが「御上」である。
エリート(この言葉がテーマとなる回もあった)やエリート校は、通常の学園ものでは悪役だ。偏差値の高い大学を目指して努力するものは青春を謳歌していない「犠牲者」のように扱われ、また性格的にも問題がある人間として(あるいは単に嫌な奴のように)描かれる。グループの一員である場合はその「頭の良さ」だけが道具のように便利に使われる。ドラマにしろ映画にしろ、エリートには「居場所」がなかった。「御上先生」はエリート校のエリートたちを真正面から描く。あくまでも一人の高校生として。これは画期的だ。
官僚からは初。という触れ込みで一人の教師が転任してくる。自身もエリートの自負が強固な彼、御上先生は、それぞれに頭が良く弁も立ちスキあらばツッコミと挑発を仕掛けてくる生徒たちに一歩も引かず、その都度論理である程度ねじ伏せながら、授業を進めていく。ツッコミに対してボケるのではなく、挑発に応戦するシャープで骨太な教師は、授業とホームルームの境い目を取り外しながら、全てお互い臨戦態勢で居ようじゃないかと濃密な論戦を繰り広げ、それが通常運転となる。
手加減なしでいきますよ。そんな硬質な気持ち良さが「御上先生」にはある。平等公平の意識に囚われるあまり、教室/教師ものの多くは柔なマンネリズムに陥っていたが、エリート校のエリートを俎上に載せれば、ここまで面白さは鋭く喚起するのだ。新世代のお笑いを目撃するかのような丁々発止のやりとりを牽引する松坂桃李の緩急は絶妙だ。芸達者ではあるが、モロはまりな安心感よりは、適度な新鮮さ(新境地というものはそれはそれで面倒くさい圧が生じる)が零れ落ちるあたりが、ナイス。
前半は、ディスカッションドラマの趣を強く印象づけ、学校という「道場」が大きく変貌している只中の「現代」を見せつけた。生徒たちもそれぞれ個性派揃いで粒だっている。エリートにも多様性はある、という当たり前を手を抜かず体現する若手たちは男女問わず眩しい。キャラクターのポイントは絞られているが、単なるポジションワークにはしない映像演出の的確さ。だから、いわゆるポジショントークのつまらなさが乗り越えられる。
ある一つの殺人事件に端を発し、学校の闇、官僚の闇などを匂わせ、謎解きの伏線を張るルーティンは「連ドラあるある」で、もはや見飽きた感もある。だが、御上(読みは「ミカミ」だが、生徒たちからは侮蔑と敬愛をこめて「オカミ」と呼ばれている)のモチベーションである過去が明かされた第6話は、その構成自体はありきたりではあるものの、緊張感を持続する演出に創意工夫が見られた。
自分の頭で考え、言語化し、ディスカッションし、全ての人やものと対等になる。御上先生が、生徒を挑発し返し、促す自発性は主に、このような理念に支えられている。それは一見、スパルタに見えるし、劇のフォーマットもまあまあ体育会系、登場し描かれる生徒たちも(それぞれに傷は抱えているとはいえ)本質的にはコミュ力を有しており、極端にシリアスにはならないへこたれなさがある。つまりは前向き。ポジティブすぎると感じる視聴者もいるかもしれない。考えてみれば「宙わたる教室」は虐げられた者たちを、明るくもなく暗くもないフラットな光で包み込んでいた。窪田正孝がキャリア最高の演技を見せた主人公は「灯台」としての教師像だった。それに較べて「御上先生」には弱者への労りに欠けているのではないか。そんな批判も成り立つと言えば成り立つ。
確かに「宙」は優しさのあるドラマだった。何よりも緊迫感が身上の「御上」は息が詰まる現実にメッセージ性の高い主題を投げかけ問うことが優先されており、一見「余白」がないようにも映る。さらに言ってしまえば、教師も生徒も「いっぱいいっぱい」で余裕がないのだ。しかし、これこそが「やるべきこと」だったのではないか。この点にこそ本作の誠実と切実を見る。
本気で考えろ。本気で言え。熱血のその先にある知性に御上先生は訴えかける。松坂桃李と生徒役のキャスト陣は演技の上でも対等に渡り合い、その本気(マジ)っぷりが大きな見どころであるのは間違いない。だが、御上が尊敬していた兄が学校への抗議のため自殺ーー20年前の「急所」が露呈した第6話は、意外な「余白」を垣間見せる。窪塚愛流扮するパソコンに長けた情報通の生徒が、御上から自殺の背景にあったものの事情説明を命じられた時、窪塚はゆっくり立ち上がり、なかなか話し出さなかった。一連のアクションそのものが「沈黙」しており、カメラはそれを後ろ姿で捉える。「余白」だった。この「余白」が、死んだ兄が教室の一番後ろで弟を見ているという光景を導き出し、誰かに「見られている」御上を生徒の一人が気づく(が、誰が見ているかはわからない)というシークエンスへと至る。
この「余白」に満ちた演出は、本気を問うてきた御上が実のところ、人間は本気になりすぎると死んでしまうこともあるのだと実体験を通して知っているがゆえに誠実で切実な問いなのだと気づかせてくれる。そして、そこには危うさもある。
教師は完全無欠ではない。生徒がフォローすることもある。「御上先生」第6話は、教室という密室の中でそれを真摯に繰り広げた。「いっぱいいっぱい」にも見えたドラマがふっと垣間見せた「余白」。自局の「3年B組金八先生」や「半沢直樹」をディスり揶揄することにも躊躇のない戦闘モードの作品が、ツンデレなチャームを開陳した。官僚の同僚が嫌味のように口にする「あいつはツンデレだから、生徒とも上手くやっているのだろう」の「ツンデレ」が大きな予告となったのである。
あえて「宙わたる教室」と「御上先生」の比較を続けるならば、「教室」をタイトルにしていながら、実は静かな「灯台」である教師こそが存在感を放った前者と。「先生」の固有名詞を冠しながらも、徐々に生徒の側にバトンを渡していくかに思える後者と。その対称の妙も味わい深い。
生徒の数だけ個性があるように、ドラマにもそれぞれの特色がある。いよいよ後半戦に突入した「御上先生」がどこに辿り着くのか、刮目したい。
今回ご紹介した作品
御上先生
- 放送
- TBS系にて毎週日曜21時~放送中
- 配信
- U-NEXTにて配信中
情報は2025年3月時点のものです。