6月23日は沖縄「慰霊の日」──
沖縄を二度と
戦場にしないために。
沖縄から15人の声
太平洋戦争末期の1945年6月23日、沖縄での日本軍による組織的な戦闘が終結したことから、6月23日が「慰霊の日」に定められました。この日、沖縄では犠牲者を偲ぶ追悼式が行なわれます。今年5月15日(沖縄の本土「復帰」の日)から5日連続で公開した「沖縄から15人の声」を改めてお読みください。
私はこう考える
知念ウシさん
むぬかちゃー(著述家)
基地や敵基地攻撃能力が必要なら、<本土>に置いてください。沖縄から基地を持ち帰ってください。
自衛隊の「南西シフト」など、最近やたらと「南西諸島」という言葉が使われている。(明治政府による)琉球併合後の1887年に日本海軍が名付けた軍事用語なのに。メディアも市民も意識が軍事化しているのではないか。私たちを「南西諸島」と呼ばないで。人が暮らす土地としての歴史ある名前、「琉球諸島」を使ってほしい。
そもそもどこから見た「南西」なのか。誰にとっても自分のいる場所が地球の真ん中で「本土」。私たちを南だとか西だとか、位置付けて利用しているのは誰なのか。
反基地・平和運動をする人も、敵基地攻撃能力は沖縄に置かれ、沖縄が攻撃を受けるという前提で話す。自分たちは絶対安全と思い込んだ上で、「かわいそう」「助けなければ」と。沖縄に戦争が押しつけられる気がする。
中国と戦争になったら、狙われるのは在日米軍司令部がある東京の横田基地ではないか。琉球諸島に日米が敵基地攻撃能力を準備して、なぜそこに都合よく中国が攻めてくることになっているのか。米中日で協定でも結んでいるのか。日中平和友好条約という本物の条約があるのだから、そちらを活かしましょう。
基地や敵基地攻撃能力が必要なら、<本土>に置いてください。沖縄から基地を持って帰ってください。日本の政治が機能しないと言うなら、機能するよう行動してください。
琉球の強制併合以来150年間、沖縄は「蛍の光」の4番にあるように「八州の護り」とされ、戦争と基地を押し付けられ、人々の生命、尊厳、暮らしが奪われてきた。沖縄は今も日米の軍事植民地にされ、日本人の経済、観光、文化、癒し、移住のための植民地とされている。今回さらによく分かった。今後、「有事」云々にかかわらず、このことはしっかり覚えておきます。
ちにん・うしぃ●1966年、琉球列島米国民政府(USCAR)下の沖縄島首里に生まれた琉球人。津田塾大学学芸学部・東京大学法学部卒。沖縄国際大学大学院修了。沖縄国際大学・沖縄キリスト教学院大学非常勤講師。著書に『ウシがゆく―植民地主義を探検し、私をさがす旅』(沖縄タイムス社)、『シランフーナー(知らんふり)の暴力ー知念ウシ政治発言集』(未来社)など。
まーちゃんさん
芸人、「基地を笑え!お笑い米軍基地」主宰
「戦争にならないために」と言って戦争の準備をする人間の間抜けさ、ダメさ加減……もはやコメディです。
(敵基地攻撃能力の保有などで)沖縄をまた戦場にするってネタ、もう古くない? 昔いっぺんやって、ダメだったやつでしょ? 芸人でも失敗したネタは繰り返さないよ。この島を使うなら、上の人にはもっと、誰も考えんようなすごいアイディア出してほしいさぁね。
僕ならアニメ映画『スラムダンク(THE FIRST SLAM DUNK)』だね。この4月に中国で公開されると、大人気になり、史上最高の興行成績だと報道されている。あれを使わない手はないよ。映画版の主人公は宮城リョータで、舞台は沖縄なわけ。コロナが終わってそのうち中国から台湾から、みんな“聖地巡礼”で沖縄来るから、ミサイルを配備するより宮城リョータの銅像を配備したらいい。ワールドカップ開催してバスケの聖地にして、全ての基地はバスケコートに。全ての武器はボールに。今あちこちで、そう言ってるわけ。みんなハッピーで抑止力にもなる。これ、すごくない?
僕が企画・脚本・演出をつとめている舞台は「お笑い米軍基地」。なんで基地をネタにするのってよく聞かれるけど、やるのが当たり前と思う。沖縄で起きていることはコメディだから。「戦争にならないために」って一生懸命考えて、戦争の準備をする人間の間抜けさ、ダメさ加減にはもはや哀愁が漂ってる。そのどうしょうもなさを観客の感情に刻み込む舞台を、僕は作りたい。観客は自分たちの悲劇を俯瞰するから笑える。渦中にいたら気付かないことに気づける。
エンタメの力はすごいよ。文化芸能は国境も超えて民衆を結びつけるからね。祖父母や先生たちからずっと聞かされてきた沖縄戦の話は、ウチナーンチュの身体に染み込んでる。でも,反骨だけじゃダメ。軟骨の方がいいよ。嫌なボールが来てもハネ返しちゃダメ。受け止めて、また丁寧に返すわけ。なんならオマケにオスプレイも付けるからどうぞって。「あらお得ね!」って思わず受け取ってくれたりしてね。
まーちゃん●本名・小波津正光。1974年、沖縄県那覇市生まれ。漫才コンビを組んで東京で活動していたが、沖縄の芸人であることにこだわろうと、拠点を沖縄に戻す。企画・脚本・演出を担当する「お笑い米軍基地」は基地問題を笑い飛ばす大人気のコント。この舞台のファンは全国に広がる。沖縄のテレビ・ラジオ・CMに多数出演。沖縄のエンタメ界のリーダー的存在。
内村千尋さん
「不屈館」館長
「沖縄の大地は再び戦場となることを拒否する!」と首相に迫った父・瀬長亀次郎が生きていたら、再び同じことをするでしょう。
私の父で政治家だった瀬長亀次郎は、沖縄の日本復帰前に那覇市長を務め、復帰後は衆議院議員を6期務めました。しかし、1995年、沖縄県で米兵による少女暴行事件が起きた時、父は政界を引退し、病気療養中。米軍統治時代の圧政と戦い、那覇市長当選後に公職追放されても抵抗を続けた父も、すでに88歳になっていました。それでも、事件に抗議する県民総決起集会で女子高校生が「静かな沖縄を返してください」と訴える様子を、テレビで熱心に観ていました。そこで母が詠んだ句が「デモ隊をテレビに見る目輝きて 胸中燃えしか病床の夫」です。
「もし父が生きていたら」と考えることがあります。晩年の父は「やり残したこと」を聞かれると、基地の撤去を真っ先に挙げていました。岸田政権が決定した敵基地攻撃能力の保有は、沖縄へのさらなる基地負担でしかありません。米軍基地の縮小は遅々として進まないのに、これまで基地がなかった離島にも自衛隊基地が増えています。父なら運動の先頭に立ち、理路整然と政府に反論したでしょう。1971年の国会で佐藤栄作首相(当時)に向かって「この沖縄の大地は再び戦場となることを拒否する!」と迫った時と同じことをしたはずです。
父の足跡を展示する「不屈館」は私費だけで運営され、公的な支援はありません。10年間続けてこられたのは、ここが沖縄の民衆の力と歴史を知ってもらえる場所だからです。沖縄の人は、自分たちの力で民主主義を勝ち取りました。そのことを若い人にも知ってほしい。長距離ミサイルが配備されても、沖縄が良くなるはずがありません。ここで負けるわけにはいかないのです。
うちむら・ちひろ●1945年生まれ、沖縄県那覇市生まれ。政治家・瀬長亀次郎(1907~2001年)の二女。1963年に信号無視をしたアメリカ兵が中学1年生の男子生徒をはねて即死させた「國場君事件」をきっかけに、自身も政治活動に関わる。2013年、父が残した資料を元に設立された「不屈館」の館長に就任。瀬長亀次郎の足跡を示したドキュメンタリー映画に『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』(配給:彩プロ)ある。