大量に流される「トリチウム水」に危険性はないのだろうか。 大量に流される「トリチウム水」に危険性はないのだろうか。
解説/黒川眞一
(高エネルギー加速器研究機構名誉教授)

東京電力福島第一原発から海洋放出される「処理汚染水」は、本当に安全なのか──この問題について詳しく解説する本シリーズ、今回は核物理学の最先端で研究を続けてきた大学共同利用機関法人「高エネルギー加速器研究機構」名誉教授の黒川眞一さんにご登場いただきます。「処理汚染水」の代名詞ともなった「トリチウム水」について、そして政府の海洋放出の方針に影響を与えたと言われるIAEA(国際原子力機関)についてお聞きしました。

前編

政府は環境や人体への影響は考えられないと言うけれど……

──黒川先生は長年、核物理学の最先端で研究を続けてきました。まずは、核物質の「トリチウム」についてお伺いします。今回海洋放出する「水」について政府は、「トリチウム以外の放射性物質は安全基準を満たすまでALPS(多核種除去設備)で浄化する」「ALPSで浄化できないトリチウムに関しても国の放出基準の40分の1まで薄めて海に流す」として、環境や人体への影響は考えられないと言います。政府の説明では、トリチウムは「放射線のエネルギーは非常に弱く、紙1枚でさえぎることができます」とされています。トリチウムに危険性はないのでしょうか

黒川
1個のトリチウムを見たときには、確かにそれほど危険ではないと思います。ただし、放射性ストロンチウムや放射性セシウム、放射性ヨウ素などに比べて「極端に危険ではない」という程度の意味です。
トリチウムはベータ線という電子線しか出しません。電子線は、飛んでいくときにDNAを傷つける「電離作用」の大きさが問題になりますが、トリチウムの電離作用はセシウムなど他のベータ線と変わりません。

経済産業省資源エネルギー庁のウェブサイトより(クリックすると拡大します)。

──では何が問題なのでしょうか。

黒川
大きな問題は、トリチウムが水素の同位体(同じ原子なのに質量が異なる物質)だということです。水素原子は、でんぷんやタンパク質などいろいろな有機物に含まれています。この水素原子が、トリチウムに置き換わることがあるのです。これを有機結合型トリチウムと言います。
トリチウムは放射線を出して壊れると、ヘリウムになります。ヘリウムになると、水素結合ができなくなってDNAを傷つけてしまう。つまり、タンパク質などの有機物に含まれている水素原子がトリチウムに置き換わり、そのトリチウム(有機結合型トリチウム)がヘリウムに変化する際にDNAを損傷するリスクがあるわけです。そのリスクには「これくらいなら大丈夫」という値(しきい値)がありません。そこが問題なのです。
また、有機結合型トリチウムは食物連鎖の中で濃縮される可能性があると言われています。ここはまだよく分かっていませんが、どのような「悪さ」をするのか解明されていないという問題があるのです。

福島第一原発の貯蔵タンク。写真提供/共同通信社

DNAの「2本鎖切断」を引き起こす恐れ。

──「DNAは自然界からの外的な要因でも傷つくが、修復される」という意見もあります。

黒川
確かに修復はされますが、ほぼ完全に修復されるのは、二重螺旋構造になっているDNAの鎖を1本だけ切る「1本鎖切断」の場合です。ところがトリチウムには、DNAの2本の鎖を同時に切ってしまう「2本鎖切断」を起こす可能性が高くなるとの指摘があるのです。

──放射線によるDNAの破壊はがんなどの病気につながると言われていますが、DNAの2本鎖切断は修復されないのでしょうか。

黒川
2本鎖切断もある程度は修復されるので、必ずがんになるというわけではありません。しかし、放射線防護に関する学術組織のICRP(国際放射線防護委員会)は、がんが発生する仕組みのスタート地点になると認めています。1本鎖切断よりリスクがはるかに高いことは明らかなのです。
また、DNAの2本鎖切断は、放射線の被ばく量に応じてリスクが高くなっていきます。最新の研究では、影響が出る被ばく量にしきい値はないとされています。つまり、被ばく量が増えていけば、その分だけ健康被害の危険性が高まるということです。処理汚染水の海洋放出のように、30年にわたって大量にトリチウムを含む水を放出したら、人や環境にどのような影響を与えるのか、どのような濃縮が食物連鎖のなかで進むのかは明確ではありません。

──つまり、トリチウムの危険性を考える際、放出される電子線による電離作用の大きさだけを考えていえてはダメということですね? それは、リスクの過小評価になってしまう、と。

黒川
そうです。トリチウムの電離作用は他の放射性物質に比べて特別に危険なわけではありませんが、水素の同位体であることがどのくらいリスクを高めるかは不明な部分もある。これが事実です。こうした事実と予防原則を考えれば、このくらいなら海に流しても大丈夫、と安易に言えないと思います。

取材・構成:木野龍逸/協力:フロントラインプレス

後編

IAEAの「報告書」には何が書いてある?

──福島第一原発からの海洋放出について、安全性を確保できている大きな根拠として日本政府が示したのが、IAEA(国際原子力機関)の報告書です。政府は海洋放出するに際してIAEAに検証を要請し、IAEAは2023年7月4日に報告書を公表しました。報告書について経済産業省は、IAEAは第三者としてレビュー(検証)を実施し、検証の結果、処理汚染水は国際安全基準に合致した、と言っています。こうした説明は妥当なのでしょうか。

2023年7月4日、岸田首相(右)に安全審査報告書を手渡すIAEAのラファエル・グロッシ事務局長。写真提供/共同通信社

黒川
いちばんの問題は、IAEAは東電、政府、原子力規制委員会の資料しか見ていないことです。日本政府と東電の説明をコピーしただけで、IAEAが自分で福島第一原発の調査をしたわけではありません。これで透明性があると考えるのはおかしい。検証と言えるものでもありません。
IAEAの報告書には、日本政府がこう言っている、あるいは規制委員会が大丈夫だと言っている、だから大丈夫、と書いている部分がとても多い。IAEAでなくても、東電と政府の資料だけ読めば、みんな同じ結論になるでしょう。

──問題があるのは、具体的にどの部分でしょうか。

黒川
例えば、報告書2ページの「図1.1」では、山側からの地下水の流れを説明しているのですが、ここでは原子炉建屋から海に地下水が出ていないことになっています。遮水壁で完全に止まっている、と。でも、止まっていないと指摘する研究者は少なくありません。IAEAの報告書は、そうした疑念を払拭するためのものでもありませんし、IAEAはこの報告書のために独自の検証をしたわけでもありません。

──確かに報告書には、疑問を感じる箇所がたくさんあります。私が気になったのは、18ページからの「2.4. 正当化」の部分です。それによると、IAEAが処理汚染水の放出について日本政府から検証の要請を受けたのは、日本政府による放出の決定後。だから、放出が正当かどうかについては評価しないと説明しています。また、まとめでは「放出を正当化する責任は日本政府にある」と明示しているのです。この部分を改めて説明していただけますか。

黒川
放射性物質による被ばくにはリスクが伴います。そのため、被ばくによるリスクを超えるメリットが存在することが、環境中に放射性物質を出すことを正当化する条件とされています。放射性物質の放出が正当化できるかどうかは国際基準の大事な項目であり、今回の報告書の18ページでも、正当化のためには「放射線防護以外の要素(経済的、社会的など)がより重要」と指摘されています。
それにもかかわらず、IAEAは正当化できているかどうかについて独自の検証を実施しませんでした。そのうえで、処理汚染水の海洋放出は日本政府の判断によるものなので、IAEAとしての意見は表明しないと説明しているわけです。これでは、IAEAは何もしていないのと同じです。

2023年8月28日、日本外国特派員協会で海洋放出について記者会見する黒川さん。写真提供/共同通信社

「廃炉」の定義が曖昧なまま「廃炉のために海洋放出が必要」と日本政府。

──報告書の最後では、IAEAとしては、日本政府の意思決定プロセスに「留意する」とだけ書かれています。これはどういう意味でしょうか。

黒川
「留意する」の原文は「note」です。英語の論文ではよく使う言葉で、日本政府による意思決定のプロセスを「記録しておく」とか、「気に留めておく」という程度の意味です。意思決定プロセスの妥当性を確認したという意味ではありません。もし、海洋放出に至るプロセスの妥当性を本当に強調するのなら、「notice」や「mention」などを使います。
もう一点、問題だと思う部分があります。日本政府は、この時期に海洋放出をする根拠として廃炉を実行するためとしていますが、報告書は廃炉の意味について何も評価していないのです。

──日本政府は、常に福島第一原発の廃炉を目指すと言っています。でも、原発のあった場所を更地にすることを目指すのか、あるいは放射能汚染のある建物や放射性廃棄物を残したままにするのかなど、どういう状態にすることを「廃炉」と言うのかについて、政府は説明を避けています。つまり「廃炉の定義」を決めずに海洋放出を続けています。

黒川
報告書は、原子炉の廃止措置に向けた活動全体が正当化されたら海洋放出も正当化されていくとしていますが、廃炉の定義がない以上、この論理は成り立たちません。何より、廃炉の正当化は日本政府の責任だと言い切っています。だから、先ほども言ったとおり、IAEAとしての検証をしていないのです。
「ALPS処理水の放出を正当化する責任は日本政府にある」という結論には、海洋放出するかどうかは日本政府が決めればいいことだ、という以上の意味はありません。かといって、日本政府の批判もしない。だから、玉虫色の書き方になるのです。日本政府に気を遣っているな、という印象です。

2023年9月8日、海洋放出の差し止めを求めて提訴に向かう原告団。写真提供/共同通信社

「ALPS処理水」という言葉の意味。

──ところで、政府や東電は「ALPS処理水」という言葉を定着させて、それ以外の表現を使うと風評被害を招くなどとして排除しようとしています。言葉狩りのようですが、どう見ていますか。

黒川
哲学者の鶴見俊輔氏(故人)は、1946年の『思想の科学』創刊号で「言葉のお守り的使用法について」という論稿を発表しています。簡単に言うと、真偽が明確に見えるけれども、実際は言葉を使う人が他人にある特定の行動を働きかけるような言葉を「お守り言葉」と呼んだのです。鶴見氏は、お守り言葉の例として「鬼畜米英」を挙げています。米英との戦争に向かわせる言葉です。
加えて、お守り言葉とは、意味は良く分からないけれども権力によって正当性が認められている、あるいはその言葉を使うことで自分の社会的な立場を守ることができるものだと指摘しました。この分析から考えると、私は「ALPS処理水」はお守り言葉だと思うんです。

──と、言いますと?

黒川
「ALPS処理水」と呼べば、その人は政府という権力と一体になって、自分の立場を守ることができます。だから平気で使う。「ALPS処理水だから海に出してもいい」という、政府の方針に従わせることもできます。ALPS処理水という言葉を使わない人を攻撃することもできます。ALPS処理水という言葉には、そういう機能があると思います。

取材・構成:木野龍逸/協力:フロントラインプレス

くろかわ・しんいち

高エネルギー加速器研究機構名誉教授
1945年、中華人民共和国黒竜江省チチハル生まれ。1968年、東京大学物理学科卒業、73年、東京大学理学系研究科物理学専攻、単位取得退学。1974年理学博士。高エネルギー物理学研究所(現・高エネルギー加速器研究機構=KEK)入所。1998年度に完成したKEKB加速器の建設責任者を務めた。2009年にKEK定年退職。2011年、加速器分野において顕著な業績を上げた個人に欧州物理学会より贈られるロルフ・ヴィデレー賞を受賞。