親たちの戦争体験

軍隊の悪夢

いま、私たちがここにいる。その当たり前の事実は、戦争の時代を両親や祖父母たちが必死に生き抜いてくれた証です。今年も読者に呼びかけたところ、109通の、親や祖父母の 「生の記憶」が寄せられました。世界が再び大国による侵略戦争に覆われている現在、こうした記憶を 〝語り継ぐ〟ことの意味は、より大きくなっています。
戦争が人に何をもたらすのか。先人たちの体験を噛みしめてください。

※投稿者の名前にはペンネームが含まれます。

やらされた残虐行為を
胸に秘めたまま死んでいく。
下元康子(大阪府・76歳)

 60年前、高校生だったころのある夜、私は父の戦争犯罪を知ることになりました。
 戦争のドキュメンタリー番組を見て泣いていた私に父は、「戦争なんてこんなものなんや」と話し始めたのです。
 人を殺せる兵士となる訓練として捕虜の若者を殺したこと。いまでもはっきりとその顔を覚えていること。逃げ出したかったけれど、やらなければ自分が殺されると思い、怖くてやってしまったこと。そのような戦犯行為が、何ら特別なことでなく当たり前に行なわれていたことなどを泣きながら話しました。何度も何度も、ほんとうに申し訳ないことをしてしまったと泣き続けました。
 この夜の父の言葉とその姿は、一生忘れることはありません。そのとき私は自分の命を罪深いものと感じ、侵略国の子どもである現実を突きつけられ、悲しみと憤りで震えました。それも忘れることはないでしょう。
 翌朝から父が93歳で亡くなるまで、私たち親子は何もなかったように過ごしました。いま思います。どれだけ多くの人たちが、狂気の世界でやらされた残虐行為を胸に秘めたまま死んでいくしかなかったか、その無念を!
 娘が大学生になったとき、この話を伝えましたが、もっと多くの人に戦争の現実を伝えていく責任があると思うようになりました。

やらされた残虐行為を胸に秘めたまま死んでいく。 イメージ

父が見たマニラ湾の夕日は、
血のように赤かった。
桜木杏介(兵庫県・76歳)

「新兵! 整列!」下士官の号令に急ぎ足で整列した新兵の十数メートル先に、丸太にくくりつけられ目隠しをされた、痩せたフィリピン人の男がいる。
「これはわが皇軍に刃向かうフィリピンゲリラである!」「これを目標に新兵突撃訓練を行なう!」「全員着剣!」
「用意!」「突撃!」
 下士官の命令は畏れ多くも天皇陛下の御命令であり、反抗や躊躇は許されない。新兵たちは目を見合わせ、戸惑いながらも命令を実行した。
 父も命令どおりフィリピンゲリラと称される貧相な男の体を銃剣で刺した。「俺は前から5番目くらいだったので、俺が刺したときはもう死んでいたがな」と視線を落として言い訳がましく父は付け加えた。マニラ上陸直後の出来事であった。
 昭和18年、父は35歳で召集され、結婚6年目の妻、4歳と2歳の息子を日本に残して敗色濃いフィリピン戦線に派遣された。輸送部隊に所属した父は前線と後方を軍用トラックで行き来する毎日で、その突撃訓練以外に人を殺したことはないと言っていたが、日本軍がフィリピン人に対して行なった、さまざまな残虐行為を目撃することはしばしばあったという。
「だいたい現地人がゲリラかどうかもわからないので、ちょっとでも反抗的な態度をとる者は男でも女でも片っ端からゲリラとして拷問して、最後は殺してしまうのだから滅茶苦茶だ。フィリピン人から恨まれるのも無理はない」
「今から思えば、軍紀もくそもなかった。前線は食料にも銃弾にも事欠く有り様だったのに、後方の参謀ら将校連中は自分の食い物はまず確保して残りを前線に送るんだ」
「自分は輸送部隊にいたから生き延びられたようなもんだ」
 それまで従軍中のことには一切口を閉ざしていた父が初めて重い口を開いたのは、ベトナム戦争での米軍による無差別爆撃や住民への残虐行為が、新聞やテレビで大々的に報道されるようになった昭和43年ごろのことである。
「帰還船上から見たマニラ湾の夕陽は見事なもんだった。あれは忘れられない。気のせいか血のような朱色だった」と、父は遠い記憶を辿るように呟いた。
 後年、フィリピン出張の機会を得た私はマニラ湾の夕景の絵葉書を父に送り、「むかし親父が見たマニラ湾の夕陽を見ました。いまは平和そのものです」と書き添えた。父がその葉書を読んで涙していたと母から聞いたのは、父の葬儀の席上であった。

父が見たマニラ湾の夕日は、血のように赤かった。 イメージ

「アッ、日本が見える」
親父の遅い終戦。
おっちち(埼玉県・74歳)

 右手を天向けて「アッ、日本が見える」。癌を発症して2年余り、親父の最後の言葉だった。
 大正11年生まれの親父は、東京の下町の材木屋の長男として生まれた。職人の父親から学問なんかいらないと言われながらも母親の援助により、念願の大学生になっていた。戦時下でも浅草に映画を見に行ったり、コーヒーなども楽しんだ、その当時としてはオシャレな学生生活だったようだ。
 読書好きの穏やかな親父だったが、その母親、僕の祖母はよく「あんたのお父さんは戦争に行って性格が変わってしまったよ。昔は優しい子だったのに」 と言っていた。確かに僕が小学生のころ悪さをすると「股を開け」と立たされビンタを食らったものだ。
 テレビに昭和天皇が映ると背筋がピーンと伸びるのを何度も見かけた。戦後何十年も戦争の呪縛が解けなかったのかもしれない。
 親父は昭和18年に大学を繰り上げ卒業し、第13期海軍飛行予備学生に志願した。同期に特攻隊での死者が多かったことからも、戦況が悪化していた時期だったのがわかる。戦闘そのものについては、片目を失ったことなども含めてあまり話さなかったが、台湾沖の海戦の話はおもしろく聞いた。そのときは。
「一式陸攻」という大型機で夜間の索敵(さくてき)に従事し、任務を終え基地に戻ろうとしたら、電波管制(※)の下、空の星も出ていない漆黒の闇で海の波も見えず、帰投する基地の方向がわからなくなったという。
「それでどうしたと思う? 鉛筆を立てて倒れた方に機首を向けたんだ」。当時は冗談としか思えなかったのだが、最後の言葉「アッ、日本が見える」を聞いたとき理解できた。仲間の命を預かる機長としての責任感や、想像を絶する緊張感がずっと続いていたのだろう。この死の瞬間が親父の遅い終戦だったのだ。

※自機の位置を探知されないよう、無線機やレーダーの使用を禁じること。

「アッ、日本が見える」親父の遅い終戦。 イメージ

カンナ見ると思い出す、
捕虜になった父の話。
ゆっこちゃん(神奈川県・71歳)

 父は大正14年生まれで、尋常小学校のあと、習志野の方の兵隊学校を出て志願兵となり、終戦は満州で迎えたという。
 戦車に乗っていたそうで、戦車の横で、軍服を着て涼やかな目で立っている写真を見たことがある。素敵だった。
 私が小学生だったころ、カンナが咲く庭先で話してくれたことを夏が来るたびに思い出す。
 父の胸には傷があった。ろっ骨が2本ないそうだ。戦闘中に敵の弾に当たって気絶したそうだ。このときのことをよく話してくれた。戦友が「小林が死んだ。遺族に髪と骨を送らなければ」と、父の髪を切り、手の小指を切り取ろうとした。すると父が「いてっ」と言い、「生きてる!」と助けられたのだそうだ。
 終戦後、捕虜となり厳寒の中で働かされたそうだが、父は笑える話ばかりした。「飯は芋ばかりだったから、野原で用を足すとき量がすごくて、 どんどん盛り上がってきて 腰を上げないと 尻についてしまいそうだった」などと私を笑わせた。
 盲腸になった父は、仲間たちより早く病院船で日本に戻った。治癒してからは、まだ帰れない戦友の実家を、住所を頼りにあちこち訪ね歩き、「◯◯君は生きていますよ」と話して回ったという。戦友の親たちは泣いて喜び、 ご馳走で歓待されたという話だ。
 明るい父だったが、帰還後すぐ結婚した母の話では、何年間かマラリアに苦しんだそうだ。寝ているときにうなされて、 「おおい、おおい」と大声で叫ぶことがよくあった。戦争のころの夢を見てるんだよ、と母は言った。父のその声は家中に響いて、 別の部屋にいる私たち姉妹にも聞こえた。怖かったんだろうな、辛かったんだろうな、と子ども心に重く響いた。

カンナ見ると思い出す、捕虜になった父の話。 イメージ

息絶えた収容者は、
朝、ボロ布に包まれて外へ。
古矢エミ子(北海道・80歳)

 5年前に100歳で亡くなった友人、Mさんから聞いた話です。
「21歳のとき、現役兵として旭川第七師団へ入隊、満州のチャムスへ行った。そして迎えた昭和20年8月15日。終戦が末端の兵士に知らされることがないままにロシア兵がやって来て『トウキョウ、ダモイ、ハラショー!』。貨車に乗せられ着いたのはシベリア。鉄条網が張り巡らされた丸太小屋だった。周囲の草刈をして風呂に入り、出て来たら私物はすべて没収されていた。
 命じられた強制労働は森林伐採。身体検査があり、医師の前に立たされ脇腹を引っ張られる。一級は伐採、二級は枝払い、三級は収容所内の仕事。黒パン中心の貧しい配給。飲み水もないところで、ビストラビストラ(早く早く)! と働かされ、それはもう過酷の一言。収容所に戻れば疲れ果てて言葉もなく眠るだけ。着たきりの服は汚れで黒く光り、それが寝具であり労働着でもあった。
 冬を迎えた。零下40度での作業に耐えられず夜のうちに息絶える収容者たち。朝になればボロ布に包まれて外に出される。愕然と俺もこうなるのだと思った。しかし幾度も続くとそんなことも思わなくなり、ボロを被せて出される遺体はもう物にしか見えず、黙って零下40度の仕事場に出て行く。ロシア人の女性が『ヤポンスキー、マーレンケ、ハラショー(ちょっと話して)』と寄ってきて、子どもの話をすると笑って黒パンのかけらをくれたりした。ダモイ(帰郷)、それだけが望みだった。
 ついにそのときが来た。わかったのは二日ほど前のこと。本当に帰れるのか、また別の収容所ではないのかと最後まで半信半疑だった。しかし帰国した自分たちを待っていたのは差別。『シベリア帰りはアカだ』。岩手に帰ったが、いくら採用試験を受けても採用はされない。何もかも失った。いったい誰のための戦争だったのか。なぜ誰も責任を取らないのか。自分にはこの体験があるから、いまの自由な世の中がずっと続いてほしいと思う。そのために誰もが、絶対に戦争をしないという意識で生きてほしいと思う」
 辛い前半生があるからこそいまを楽しく生きたいと、Mさんはいろいろな方とお付き合いされ、庭に花を育て音楽を楽しんでいました。明るく優しい方でした。

息絶えた収容者は、朝、ボロ布に包まれて外へ。 イメージ

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