親たちの戦争体験

爆撃の下で

いま、私たちがここにいる。その当たり前の事実は、戦争の時代を両親や祖父母たちが必死に生き抜いてくれた証です。今年も読者に呼びかけたところ、109通の、親や祖父母の 「生の記憶」が寄せられました。世界が再び大国による侵略戦争に覆われている現在、こうした記憶を 〝語り継ぐ〟ことの意味は、より大きくなっています。
戦争が人に何をもたらすのか。先人たちの体験を噛みしめてください。

※投稿者の名前にはペンネームが含まれます。

音のない世界で
戦火を生き抜いた。
牧山定義(群馬県・60歳)

 聞こえない! それは戦争において命の差となる。私は前橋空襲を体験した父と、東京で戦災孤児となった母から、戦争の悲惨さと残酷さを繰り返し教えられて育った。わが家は祖父から兄弟まで全員がろうあ者である。祖父と両親は音のない世界で戦火を生き抜いた。
 昭和20年3月10日、東京大空襲。当時10歳の母と祖父は、炎に包まれた街にいた。空襲警報も叫び声も聞こえない中、生死を分けたのは日頃の備えだった。祖父は新聞やニュース映画で情報を集め、近隣の人々に食べ物を分け、「いざというときは叩き起こしてほしい」と頼んでいた。
 深夜、窓を破って投げ込まれた石の衝撃と振動が、危機を知らせる唯一の合図となった。
 逃げ惑う中で二人は離れたが、かねてからの「上野の西郷像の下で会う」との約束により奇跡の再会を果たした。 ところが戦後、親戚から障害を理由に差別され、食事も十分に与えられなかった。祖父は劣悪な環境で病に倒れ、終戦からわずか3ヵ月で亡くなった。
 孤児となった母を支えたのは「一人でも生き抜け」との祖父の言葉だった。母は野宿し、吸い殻を拾いながら必死に生き延びた。晩年まで花火の振動や焦げた匂いに怯え、空襲の記憶に苦しみ続けた。
 戦争は悲惨であり、残酷である。いちばん犠牲となるのは、力の弱い子ども、老人、障害者、そして女性たちだ。この現実を決して忘れてはならない。愚かな指導者ほど生き延びるという理不尽を断ち切るためにも、私は両親から手話で託されたこの記憶を語り継ぐ。

音のない世界で戦火を生き抜いた。 イメージ

母を救った防空壕は、
いま降りてはいけない階段に。
くわこ(北海道・67歳)

 母は大正15年生まれ。実家が原宿2丁目にあり、南青山の陸軍需品本廠に勤めていました。
 昭和20年3月、職場で腹部が痛み、近所の伊藤病院に行ったところ盲腸でした。当時は空襲の被災者が多く入院しておりベッドがなくて手術できず、毎日の通院でしのぎましたが、痛みが増し、伝手を頼って慈恵医大病院に入院。3月9日に手術を受けました。
 その日の夜中から明け方に空襲警報。入院患者、職員は皆、隣の小学校に避難しましたが、手術直後の母は動けず、付き添いの祖母と病院に残りました。数日後、抜糸が済み退院しましたが、帰宅後も空襲が頻繁にありました。
 5月25日の山の手大空襲。その日は家族が皆出かけ、夜になって母だけが家に居たところ、母の叔父が訪ねてきました。そこへ空襲警報が。庭の防空壕に入ろうとする母に、叔父が「そこは小さくてだめだ」と言い、二人で神宮外苑の方へ向かいました。叔父は、神宮球場の前の兵舎に馬も入れる大きい防空壕があることを知っていたのです。
 たどり着くと、壕のなかから馬のいななきが聞こえました。当時、民間人は兵舎に入れなかったはずですが、叔父は薬剤師として出入りしていたためか、特別に入れたのかもしれません。
 空襲が終わり防空壕から出ると一面焼け野原。焼夷弾ですべて焼かれていました。家の方へ向かう途中焼死体があちこちにあり、水を求めて防火用桶に覆いかぶさるように亡くなっている人も見たそうです。
 表参道の石灯籠の辺りには遺体が山のように積まれていました。青山通りも渋谷まで何もなく、東横百貨店が見えたそうです。家族は全員無事でしたが、どこでどう再会したかまったく覚えていないとか。
 母を救った防空壕がある近衛歩兵連隊兵舎は後に國學院高校になり、約30年後、娘の私が入学しました。兵舎の建物がそのまま使われ、下りてはいけない階段があったのを覚えています。

母を救った防空壕は、いま降りてはいけない階段に。 イメージ

私が結婚するまで
被爆者手帳を取得せずにいた父。
毎日が幸せ(神奈川県・62歳)

 父は20年ほど前に病気で亡くなりました。その父から戦争の話を聞いたのは、たった一度、私が成人となる誕生日の夜のことです。
 父とはよく話をする娘でしたが、その夜、二人になったとき、「これからの話は一度しかしない」と、見たこともない顔と声音で始めました。「広島に原爆が落とされたとき、学徒動員で広島市にいた。朝礼に行こうとしたとき爆風で飛ばされ、倒れた校舎の一番下になったことで助かった」
 それだけでした。驚き、年の離れた兄の部屋へ行くと、「聞いたのか?」と。兄も成人したとき聞いたそうです。
 兄にはもう少し長く話したそうです。実家に帰るため電車に乗ろうとしたところ軍人しか乗れず、そのため軍服を用意して電車に乗り、終点から1日歩いて実家に帰ったこと。帰り着いたときには、すでに自分の葬式が終わっていたこと。そのときその場に倒れ、次の春までほぼ意識がなく髪も抜けて生死をさまよったこと。祖母が医師に密造したどぶろくを渡して診てもらったことなど……。
 亡くなって初めて、父は私が結婚するまで「被爆者手帳」を取得せずにいたことを知りました。私の結婚後に申請しようとしたところ、被爆を証明すると約束してくれていた友人が拒否し、取得できなかったことも残っていた実家とのやり取りの手紙でわかりました。
 父は、被爆者の娘ということが私の結婚に影響するのではと心配していたのです。証言を拒否した友人も、自身が差別されることを恐れたからだと聞きました。
 当時14歳の子どもが、一人どうやって焦土から生きて帰ろうとしたのか。被爆の差別についてどう思い、私を、家族を守ろうとしてくれたのか。
 父とは2度、広島の原爆ドームに行ったことがありますが、2度とも記念館への入場は「また次に」と断られました。もっと話をしたかったと思う今日このごろです。

私が結婚するまで被爆者手帳を取得せずにいた父。 イメージ

「私を殺してください」と
うめき声が聞こえてきた。
吉永浩子(熊本県・65歳)

 母は昭和2年に熊本で生まれた。94歳で亡くなるまで、私が実家を訪れるたびに戦争の話ばかりしていた。
 母は昭和19年の一時期、長崎市に住む叔父の家で家事手伝いをしていた。戦禍が激しくなると、叔父一家は母も連れて島原へと疎開した。ちょうど長崎に原爆が投下される一週間前のことだった。当時住んでいた長崎の家は、爆心地まで数キロメートルといった場所だったそうだ。母はほんとうに命拾いをした。
 原爆が投下された3日後くらいに、母が怪我をした甥を連れて島原の病院に行くと、そこには長崎市で収容しきれなかった被爆者が次々と運び込まれてきていた。皮膚は赤黒くなって剝げ落ち、目を背けたくなるその有り様に、母は茫然と立ちすくんでいたという。被爆者の方々の中から「殺してください。私を殺してください」とうめき声が聞こえてきて、その方へ目を向けると、生身の体にたくさんの蛆虫がわいていたそうだ。「まさに生き地獄だった。いまでもその光景だけは忘れることができないね」と母は何度もこの話をした。
 母はまた、戦時中熊本で小学校の教師をしていたこともある。当時、沖縄から疎開してきた子どもたちもいた。彼らは特産の黒砂糖を持ってきており、疎開したばかりのころはその黒砂糖を食糧と交換していたが、それがなくなると食べ物を得ることができなくなった。昼ごはんの時間には、彼らはそっと教室を出ていき、校庭にぽつんと居て、母はとてもかわいそうに思ったそうだ。母自身も食べるのに窮す状況で為す術もなかったが、「あの子たちが無事に大人になっただろうかと、いまも思い出すよ」とよく話していた。
「いまの平和な日本があるのは、戦争を戦った人々の犠牲があってこそなんだよ。決してそのことを忘れてはいけない」というのが母の口癖だった。生涯戦争を忘れることがなかった母の、戦争に対する思い、その体験を、私、子、孫世代へと引き継いでいくことが、私の責務だと思っている。

「私を殺してください」とうめき声が聞こえてきた。 イメージ

21歳の無念――
届かなかった婚約者への遺言。
KUMA(埼玉県・68歳)

 母は14歳のとき広島市内で被爆しました。軍の施設に学徒動員中に原子爆弾が炸裂、建物の下敷きになりましたが軍人に救助され、命からがら近くの山に避難しました。女学校の同級生で、建物疎開(空襲の際、延焼を防ぐため密集した建物を壊しておく)に学徒動員されていた友人たちは全員亡くなりました。
 原爆投下の翌々日に中島本町(現在の平和記念公園)にある実家が心配で入市した母。そのとき何を見て何を体験したのか、私に話してくれることは一切ありませんでした。
 その母が7年前、88歳で他界したあと、遺品の中に数冊のノートや書簡が見つかりました。原爆で行方不明になった母の姉(被爆当時21歳)が書いた日記や歌集、手紙でした。母はそれを74年間大切に持っていたのです。
 母の姉は日銀広島支店に勤めていました。通勤中に被爆したものと思われ、遺体も見つかっていません。日記の表紙裏には自分の母親に向け、こう書かれていました。
「お母様 私の身にもし万一のことがあったらこれを読まれてKさんに差し上げてください」
 いまも存命の叔母(母の妹)によれば、Kさんは母の姉の婚約者だったそうです。原爆投下時は出征中でしたが、その後戦地で亡くなったことが報告され、ご家族とも縁が切れたようです。
 母も含めて家族全員が、いつ死んでもおかしくない覚悟を持って日常を過ごしていたことを、改めて思い知らされました。
 叔母とも相談の上、これらの遺品を広島平和記念資料館に寄贈しました。戦時中の若者の想いが記録された肉筆の日記は、貴重な教訓として永代受け継がれなくてはならないと思ったからです。冊子の中には、女学校卒業時に級友たちから寄せられたお別れの寄せ書きもありました。
 もしKさんのご遺族の目に留まるようなことがあれば、21歳の若さで一瞬にして未来を奪われた母の姉の無念な思いも、少しは救われるかもしれません。

21歳の無念――届かなかった婚約者への遺言。 イメージ

もくじ

最近1週間の人気ランキング