統後の生活
いま、私たちがここにいる。その当たり前の事実は、戦争の時代を両親や祖父母たちが必死に生き抜いてくれた証です。今年も読者に呼びかけたところ、109通の、親や祖父母の 「生の記憶」が寄せられました。世界が再び大国による侵略戦争に覆われている現在、こうした記憶を 〝語り継ぐ〟ことの意味は、より大きくなっています。
戦争が人に何をもたらすのか。先人たちの体験を噛みしめてください。
※投稿者の名前にはペンネームが含まれます。
母は看護学生を連れ、
患者を置き去りにして逃げた。
金澤たき江(愛知県・76歳)
母は80歳になったとき、やっと青春時代の封印した記憶を語りました。
昭和14年、17歳で看護婦免許を取得した母は従軍看護婦に志願しましたが、背が低かったため不合格となり、名古屋の三菱発動機病院に勤務しました。当時三菱発動機の工場では、陸軍の主力戦闘機のエンジンを作っていましたが、動員の学徒の機械操縦は未熟で手指や腕の切断などが多く、とてもまともなエンジンが出来ると思えなかったと言っていました。工場には東條英機首相も「最後まで戦え」と激励に訪れたそうです。
4年後、働きながら産婆養成所に通った母は、教師である医師から生命の尊さを学んだと言います。しかし工場がB-29の標的となって空襲に遭った際、母は看護学生を連れ、患者を置き去りにして逃げました。そしてそのことをずっと封印したまま生きたのです。空襲翌日、悲惨な状況下で手当てをしながら、この戦争は負けると確信したと語っていました。
本土決戦が叫ばれる中、身の危険を感じた母は、ある日荷物をまとめて名古屋駅のチッキ(※)に預け、勤務終了後、そのまま電車に飛び乗って信州にある実家に逃げました。勤め先は実質的に陸軍病院であり、そこに勤める母は「徴用」の身であったため、後日、嘘の婚約証明書を提出し、罰則を逃れたそうです。
故郷の村で結婚した母は、戦後、村の「若妻会」で避妊の講習会を担当させられました。「産めよ殖やせよ」の国策が「受胎調節(家族計画)」に一変したのだ、と苦々しく言っていました。
戦後も心の傷を抱え、貧困の中で3人の子を育てた母。晩年は「私の人生にはなに一つ自由がなかった。だからあなたたちには自由をあげた」と言い、95歳の生涯を終えました。
※乗客が駅で「チッキ(預かり証)」と引き換えに荷物を預け、到着駅で受け取る仕組み。
「おかわり」と言える幸福に
母は酔いしれた。
大石さち子(神奈川県・69歳)
昭和20年の正月から終戦までの8ヵ月、14歳だった母とその妹は、叔母一家とともに、叔母の知人であった栃木の農家に疎開した。そこで母は、それまで嗅いだことのないさまざまな臭いに遭遇した。
東京生まれのお嬢さん育ちだった母が華奢な肩に籠を背負わされ、野菜の肥やしにするために、道に落ちた馬糞を拾わされた。妹が拾った馬糞をどさっと籠に入れる。「そのときの背中の生暖かさと臭いは今でも忘れられない」。
さらに毎日掃除させられた鳥小屋の糞の臭い、口の中まで入ってくる小バエの襲撃、さらに農家の夫婦と12人の子ども、そして叔母一家5人が入ったあとの汗と泥にまみれた風呂の臭いなど、14歳の少女には辛すぎる体験が臭いの記憶とともに刻まれた。
馬糞を与えて母が育てた野菜も、毎日世話してやっと1つ手に入る鶏の卵も、叔母一家に奪われ母とその妹の口に入ることはなかった。
そんな折、たまたま東京の母の実家に出かけた叔母の息子(母の従弟)が、祖父が通勤に使っていた自転車を持ち出して盗まれてしまう。息子を叱った祖父を憎んだ叔母は、腹いせにその娘、母たち姉妹を戦禍のただ中の東京に帰すことにする。ところが汽車に乗せたら、なんとその日に終戦となった。
東京に着き、飛ぶように家へと走り、門をくぐって庭に割烹着姿の母親を見つけたときの母の喜び。妹と3人抱き合って泣きに泣いたという。「アメリカ兵が上陸してくるからみんなで竹槍で戦おうってときに、もう帰ってきちゃったの?」と祖母は言いながらもとても嬉しそうだったという。
その日の晩ごはんが生涯で一番おいしい食事であったそうだ。空襲で家が焼けたときに備え、祖父は庭にかまどを作っていた。祖母はなけなしの米を鉄鍋に入れ、そのかまどでご飯を炊いた。米が炊けるふつふついう音とやさしい匂いの中、母は疎開先で機銃掃射を受け土手の陰に逃げたことや、田植えの手伝いで蛭にさんざん血を吸われた恐怖を涙ながらに語ったという。
いろいろ混ぜ物は入っていたけれど、手作りのかまどで炊いたご飯はふっくらとやさしい味で、からからの胃袋に沁みたそうだ。「おかわり」と言える幸福に母は酔いしれた。覆いを取り去った電灯の下で、ご飯を口いっぱい頬張りながら、涙が頬を伝うのを止められなかったという。
塗りつぶされた床の間――
米軍専用娼館の真実。
佐々木せつ子(東京都・77歳)
敗戦後、いわゆる「枕芸者」がたくさんいた地方の温泉町で、祖母の経営していた旅館は、米軍将校専用の娼館として利用された。一般女性を守るための防波堤となったのだ。
そして「客」がやってきた。せいぜい30代の若者が多かったという。初めの二人の将校は祖母の居間に入るなり、箪笥から着物を引きずり出した。長襦袢と赤い腰巻が殊の外気に入った様子で、被ったり振り回したり、叫びながら踊る騒ぎに祖母はすっかりたまげてしまったという。
言葉がわからない。土足で館内を歩き回り、居間の床の間と床柱に白いペンキを塗りたくって満足気な表情から喜んでいるらしいと推測するしかなかった。
お上には逆らうなという教育を受けていた祖母は、理不尽だと思いつつ従うしかなかったという。ほかの旅館の娘たちや若い妻たちは、既に安全な都会へと移っていた。屏風を庭に持ち出してペンキで人型を描き、銃で撃ちぬく将校を見て祖母は「無知無教養な男ども、人殺しだけが得意で偉くなったのだろう。戦争に負けるとこんな目に遭うのか。米国もお天さん(天皇)も大嫌いだ」と心中罵っていた。しかし平然とした顔を作って5年を過ごしたという。
結婚を迫ったり飽きられた芸者たちが何人か殺されたが、すべてなかったことになったそうだ。そのことを大っぴらに口にした人は消え、二度と戻らなかったという。
「戦争に負けたら奴隷さ。日本人はみな奴隷」。祖母は終生、アメリカの映画もドラマも昭和天皇に関するニュースも見なかった。
母が最期に明かした、
青春の「さようなら」。
ぐうちゃん(東京都・67歳)
母は大阪生まれですが、終戦の2年ほど前から親戚を頼って富山県の氷見市に疎開したそうです。
富山湾岸にある氷見から対岸や湾内の別の町にある女学校に通う際、当時は陸路より船を使うのが一般的でした。さまざまな人たちが乗っていましたが、その中に、一人の兵隊さんがいらしたそうです。いつからかその兵隊さんと母は話をするように。女学生の母から見たら、随分年上に感じられたと。学校のことなどを話すうちに、兵隊さんから手旗信号を教えてもらったそうです。旗はなかったけれど、持っているつもりで教えてもらった時間はとても楽しかったそうです。
ある日、下船した母に向かってまだ船に乗っていたその兵隊さんが、手旗信号で「さようなら」と。母は少し驚きながらも、覚えたての手旗信号で「ありがとう」と返しました。それっきりその人と会うことはなかったそう。
私が小さいころ、素手の手旗信号をよく見せてくれましたが、誰から教わったのかそのときは話してくれませんでした。
3年前に母は亡くなりましたが「戦争は、起こしたらあかん」というのが口癖でした。