はじめに
敵味方の区別なく、目の前にいる患者のために全力を尽くす。そんな「医の倫理」と「中立」を掲げて医療支援活動を展開しているのが、国境なき医師団(1971年設立)です。ロシアの侵攻以来、緊急医療支援を続けているウクライナの現場では、いま何が起きているのか。国境なき医師団の活動をよく知るいとうせいこうさんとともに、日本の事務局長、村田慎二郎さんにお話をうかがいました。
- いとう
- いや、本当にひどい戦争になりました。国境なき医師団は、以前から世界へ向けて「いかなる戦争でも病院を攻撃するな」という主張を続けていますけど、ニュースで何度も目にするように、ウクライナでは病院への攻撃があとを絶たない。人道が絶たれていると言っていい状況です。
- 村田
- 4月の時点でウクライナでは164の病院が破壊されています。他の紛争地域でも病院への攻撃は起きていますが、今年に入ってから世界全体の病院被害数の合計は200件ちょっとですから、8割以上がウクライナで起きている。しかも、侵攻からたった2ヵ月の間にです。
- いとう
- 僕は2016年から国境なき医師団の支援現場を取材させてもらっていて、3年前にはガザの紛争地域へもうかがいました。国境なき医師団が運営しているクリニックは壁に銃の絵が描いてあって、上にバッテンがついているでしょ。ここには武器を持ち込むなと。銃は置いてこいと。
- 村田
- 私も紛争地域で10年ほど活動しましたが、どの地域でもそこは徹底していました。外に傘立てのような銃置き場をつくって、敷地にすら持ち込ませない。病院の中へ入ってくる人は軍人、民間人の区別なく、みんな同じ患者さんとして来てもらう。
住民が避難するウクライナ国内の地下鉄の駅で子どもの診療を行う国境なき医師団の医師。
©Morten Rostrup/MSF
- いとう
- だから攻撃するなと。ここは人道的に守られた場所だと宣言しているから、どんな患者であってもおびえずに医療を受けに来られる。本来は、病院すべてが同じように人道的に守られた場所だったはずなんですよね。それが「関係ない、攻撃する」となると、人道そのものが攻撃されているのに等しい。すごく大きな暴力です。
- 村田
- 数十年くらい前だと、赤十字の車両はぜったい攻撃しないという医療に対するリスペクトが残っていたと思うんですけど、僕がシリアで2012年に活動を始めたときにはもうなかったですね。いまのウクライナとシリアって、状況がよく似ているんです。シリアでは、政府が反政府側をテロ組織と言ったものだから、反政府側で医療支援をしていた国境なき医師団も「テロリストの支援組織」と名指しで非難されました。でも、交渉をしても政府側地域で活動させてもらえなかっただけで、僕たちはあくまで中立。普遍的な「医の倫理」の下(もと)での中立です。
- いとう
- 国境なき医師団の憲章(※1)ですよね。
- 村田
- 日本でよく聞くのが、紛争地域の片側でしか活動できなかったら中立とは言えないんじゃないか? という意見で、「だったら、何もしないほうが中立だ」とされがちなんですけど、現場ではそういうわけにはいかない。
- いとう
- 目の前に死にそうになっている人がいるんだから、どちらの勢力の人であれ助けるに決まっているだろうということですもんね。手術が必要な人には手術するし、飢えている人がいたらご飯を食べてもらう。栄養が足りない赤ちゃんを前に、きみは何派の赤ん坊だ? なんて聞くことはないわけで、危機に瀕している命があったらとにかく救って、あとのことはそれから考えようよという共通認識が、いま通用しなくなっているということですね。
- 村田
- 命を救うのに理由なんか要らないと僕らは考えているんですけど、現場にいるとそれがなかなか通用しない。国際社会の変化を強く感じます。
ベルギーの倉庫からウクライナに向けて出荷した医薬品などの物資。
©MSF
(※1)国境なき医師団 憲章
- 国境なき医師団は苦境にある人びと、天災、人災、武力紛争の被災者に対し人種、宗教、信条、政治的な関わりを超えて差別することなく援助を提供する。
- 国境なき医師団は普遍的な「医の倫理」と人道援助の名の下に、中立性と不偏性を遵守し完全かつ妨げられることのない自由をもって任務を遂行する。
- 国境なき医師団のボランティアはその職業倫理を尊び、すべての政治的、経済的、宗教的権力から完全な独立性を保つ。
- 国境なき医師団のボランティアはその任務の危険を認識し国境なき医師団が提供できる以外には自らに対していかなる補償も求めない。
いつ包囲されるかわからない状況で、できる限り医療物資を送り続ける。
- いとう
- ウクライナでは、いまどのように医療支援活動を進めているのですか?
- 村田
- もともとウクライナは医療レベルが高くて、医師も優秀です。医療人たちの多くは、いまも戦禍の中で医療活動を踏ん張って続けています。ですから、われわれが力を入れているのは医療物資の輸送です。さいわいなことに、国境なき医師団はこの戦争が始まる前からHIVや結核の患者さんの支援活動などをウクライナで行っていたので、活動の基盤がありました。いまはウクライナ人スタッフが約200人、日本を含む海外から派遣したスタッフも約130人と大幅に増員して、医療物資をバンバン送り込んでいます。
- いとう
- なにせ国境なき「医師団」だからお医者さん集団と思いがちだけど、実際には医療物資を確保して届けたり、医療環境を整える「非医療系」のスタッフが半分以上を占めている。得意分野でもありますよね。
- 村田
- ただ、ウクライナ国内の物流は2月24日を境に滞っていて、医療物資も不足しています。首都のキーウや、とくに東部や南部のあたり。空爆とか砲撃による負傷者の外科手術に欠かせない麻酔薬であったり、医療機器が足りていない病院が多くて、緊急援助の開始から2ヵ月間に約225トンの物資を送っています。それはもう、あの手この手で。
- いとう
- やはり、西側から運び入れることが多いんですか?
- 村田
- ですね。列車を使ってウクライナ西部のリヴィウから物資を入れてキーウへ運び、さらにキーウを経由して東へ送ったり。東部のマリウポリにもロシア軍に包囲される前に何とか1回は物資を入れることができましたけど。つねに時間との闘いというか、いつどこの街がマリウポリのように包囲されてしまうかわからないですから。
- いとう
- ウクライナ国内に残っている人はまだ多いから、負傷する人だけじゃなくて、ふつうに病気になる人もいるわけでしょ? その薬だって必要ですよね。
- 村田
- とくに戦闘が激しいウクライナ東部や南東部はお年寄りの比率が高くて、糖尿病とか慢性疾患を抱えている人も多いんです。糖尿病ならインスリンの注射を定期的に打たなきゃいけない。さらに食料やきれいな水の供給がままならないと、抵抗力の弱い子どもがどんどん体調を崩し始める。たとえ単純な脱水症状であっても、適切な治療ができないと危険です。
- いとう
- さっき、病院が次々に破壊されているとうかがいましたけど、もともと重い病気を抱えている人なんかは、体調が悪化したときにかかりつけの病院がなくなっていたら、命の問題になってきますよね。
- 村田
- そこが、病院を攻撃の対象にするいちばん卑劣なところです。ウクライナ南部のミコライウという都市の住宅地に、われわれが入って負傷者の治療を行っていたがん専門病院があったんですけど、4月4日、現地のスタッフから病院が攻撃されたという報告が入りました。そこから300メートルほど離れた小児科病院も破壊されたそうで、爆撃跡を見ると、どうやらクラスター爆弾の跡に似ていると。
- いとう
- 被害を拡大させるために、大きい爆弾の中から小さい爆弾が飛び散るやつですよね。オスロ条約で禁止されている残虐な爆弾じゃないですか。小児科病院を狙ったというのがまったくもってひどい。悪意的なメッセージを含んだ、暴力以上のものを感じますね。
- 村田
- 1つの病院には、そこを命綱に暮している人たちが大勢いるんです。その病院を破壊することで、何千人、何万人という民間の人たちの医療へのアクセスを絶って、結果として助かるはずの命が助からなくなっていく。シリアなどと同じことがウクライナでもくり返されていることに、抑えきれないほどの憤りを覚えます。
- いとう
- いまの戦争は、そういう形にもなっているんですね。現場で何人殺したぞ、だけじゃなくて、命につながる拠点を壊すことによって、より多くの相手の国民を減らしていく、疲弊させていく。こういう事態に対して、われわれはもっと敏感に抗議しなければいけないですね。
ガザの診療所で診察を待つ男性たちを取材するいとうせいこうさん。
©Toru Yokota
世界中の人たちから預かったお金だから、薬ひと粒だってムダにできない。
- いとう
- 医療支援と合せて、いまお聞きしたような「現場で何が起きているのか」を世界へ向けて公正に証言することも、国境なき医師団の活動の特長ですよね。
- 村田
- そもそもわれわれ国境なき医師団は、50年前にフランス人の医師とジャーナリストたちが立ち上げた団体なんです。その3年前、1967年にナイジェリアでビアフラ戦争が起きたとき、赤十字の医師たちが派遣されたのですが、彼らはナイジェリア国軍が一般市民へ人道に対する罪を重ねていると知りながら、それを国際社会へ伝えられないことにとても葛藤しました。
- いとう
- 当時の赤十字には「沈黙の原則」があって、戦地で見たことを外部へ伝えることを禁じていたからですね。それで赤十字から分派して、国境なき医師団を立ち上げた。以前に本(講談社『「国境なき医師団」を見に行く』シリーズ)を書いたときに、スタッフの方から教えてもらいました。
- 村田
- 情報の発信を「証言活動」と呼んでいるのですが、これは、われわれの活動の2本目の柱とも言えます。1999年のノーベル平和賞の受賞式(※2)で、当時の会長だったジェイムズ・オルビンスキがロシア南部のチェチェン共和国で目撃した市民の惨状を証言し、「言葉が常に人命を救えるわけではありませんが、沈黙は確かに人を殺し得ます」とスピーチしました。中立であるために沈黙を守る、という従来の医療支援に強く異議を唱えてきたのが国境なき医師団なんです。
- いとう
- 実際、現場に行かせていただくと、この「証言活動」と医療支援の両立がいかに困難かよくわかります。先ほど村田さんがおっしゃっていたシリアにしても、政府側が証言活動を嫌ってかおそれてか、自分たちの支配地域での医療活動を拒絶したわけですよね。僕が取材した南スーダンなどでも、何とか紛争エリアの奥まで医療を届けられないか繊細な交渉を重ねていて、プロジェクトの責任者が1日がかりで出かけていっては交渉が成立しないまま戻る様子も目にしました。
- 村田
- この「証言活動」と医療支援活動を両立できるのは、ひとえにわれわれの活動資金の97%ものお金が、民間の方々からの寄附で賄われているからです。企業からもいただいていますが、やはり個人。お一人お一人の応援がどれほど心強いか。自分の父親がそうですが、少ないお給料の中から少しずつ国境なき医師団に寄附をしてくださる方もいる。そういう人たちが日本だけで40万人近く、世界では700万人以上もいらっしゃいます。この皆さんの後押しがあるから、われわれは独立・中立・公平を原則に活動し、すべての人へ向けて医療を提供できるんです。
- いとう
- スタッフも「みんなのお金を預かっているんだ」ということをつねに意識していますよね。南スーダンの取材のときでしたが、休日にスタッフの薬剤師がクリニックへ来ていて、冷蔵庫の温度計をチェックしているんですよ。休みがなくなるじゃないって言ったら、「この薬は保管温度が1度でも上がったら効果が弱くなるから、私がしっかり管理するんです」って。ジーンときました。
- 村田
- 薬ひと粒、絆創膏1枚、カルテに文字を書き込むボールペン1本だって寄附から出ていますから、ムダにできません。最善の方法で、効率よく使い切る責任がわれわれにはあります。
- いとう
- 僕、寄附をしている人たちには、その活動を支えているんだというプライドをもっと持ってほしいと思っているんです。国境なき医師団の本を書いてから、「私も寄附しました、ささやかですが」ってよく言われるんだけど、効果でいえば全然ささやかなんかじゃないですよ。錠剤1錠、栄養剤1本だってぜんぶあなたたちが出したお金ですよって。その1000円でどれだけの子どもたちにワクチンが打てると思います? 鼻水垂れているのが止まるんですよ、って言いたい。
- 村田
- おっしゃる通りです。後方支援がなければ、われわれは何もできません。じつはいま、今年予定していた予算では活動費が間に合わなくなってきていて、もう10%ほど多く寄附を集める努力をしないといけないんです。
- いとう
- ウクライナの影響ですか?
- 村田
- それもありますが、カメルーンとかナイジェリアとか、この21世紀に栄養失調で子どもが死んでいる地域もまだまだありますので。ウクライナで戦争が起きたから、ミャンマーやイエメンの内戦がおさまるわけではないですし、アフガニスタンでも栄養失調は深刻です。難民・国内避難民の数は世界で8240万人と言われています。どこの現場でも、命は待ったなしです。
- いとう
- それを伝える後方支援が、僕や通販生活さんの役割だものね。コロナが明けたら僕もまた取材へ行きます。じつはコロナ前は「次は寒い地域に行きましょうか。ロシアにします?」ってスタッフの人と話していたんですよ。
- 村田
- 取材は難しいかもしれませんが、もちろんロシアやベラルーシでも医療支援活動は続けています。ウクライナから避難した難民の人もいますし、病気を抱えて困っているロシアの人もいる。それこそ、独立・中立・公平の精神。ウクライナ語を話そうが、ロシア語を話そうが、私たちにとってはみな等しく患者さんです。 (了)
アフガニスタンのブースト病院・はしか隔離病棟の様子。
2022年1月から2月にかけて、440人以上のはしか患者がこの病棟に収容された。
©Tom Casey/MSF
(※2)ノーベル平和賞受賞
国境なき医師団は1999年にノーベル平和賞を受賞している。独立・中立・公平の原則に基づく人道援助活動とともに、人間の尊厳を脅かすことには拒否の態度を貫くこと、それを証言することなどが評価された。
国境なき医師団日本・事務局長 村田慎二郎さん
むらた・しんじろう●1977年、三重県生まれ。大学卒業後、外資系IT 企業で営業として働く。2005年に国境なき医師団に加わり、南スーダン、イエメン、イラク、シリアなど紛争地で活動。20年8月から現職。
作家・クリエイター いとうせいこうさん
いとう・せいこう●1961年、東京都生まれ。編集者を経て、活字・映像・音楽・舞台など多方面で活躍。2016年から、アフリカ、中東パレスチナなどで6回にわたって国境なき医師団の活動を取材する。
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