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母に手を上げてしまったとき、
自宅介護を諦める決心がついた 【後編】

ノンフィクションライターの松浦晋也さんは、認知症を発症した80歳(当時)の母の介護を、2年半にわたってほぼひとりで担いました。6年前にグループホームに入居、でもそれは介護の終わりではなく、「新たな介護の始まり」だったといいます。そんな松浦さんの、9年間にわたる介護体験をお聞きしました。

わたしの介護年表

2014年
母80歳
松浦さん52歳

「預金通帳が見つからない」と言い出し、異変を感じる。引き出したはずの現金が行方不明に。

2015年
母81歳
松浦さん53歳

アルツハイマー型認知症と診断される。介護認定により「要介護1」に。公的介護保険制度で介護する体制が整う。

2016年
母82歳
松浦さん54歳

見直し申請し、「要介護3」に認定された。130万円ほどかけて家の断熱リフォームをする。

2017年
母83歳
松浦さん55歳

グループホームに入居。軽い脳梗塞を発症して1週間の入院。

2018年
母84歳
松浦さん56歳

夜中のトイレ起床で転び、左大腿骨頸部の骨折で入院。退院から3日後、胆管炎のため再び1週間の入院。

2019年
母85歳
松浦さん57歳

要介護3から5へ。大動脈瘤と大動脈解離が見つかり、いつ亡くなってもおかしくない状態に。葬儀の準備をするが、持ち直す。

※年号・歳の一部は目安です。

ほどなく、「過食」も始まりました。アルツハイマー型認知症では、脳細胞の萎縮が満腹中枢まで影響し、満腹感を得られにくくなるうえに、食べたという記憶が残らないことがあるそうです。私の留守中に母は冷凍庫をあさって食品を出し、調理を試みてはあきらめて放置。帰宅すると台所がめちゃくちゃに荒れている、という事態が度々起こるようになりました。

ケアマネさんに相談し、介護認定の見直しをしましたが、結果は、要介護1に据え置き。落胆する私にケアマネさんが「主治医を代えたら」と提案してくれました。当時の主治医は、総合病院の院長も兼務していて超多忙な方。介護認定に重要な主治医の意見書に、きちんと母の状態が記入されていないのかも、と考えたのです。そこで、総合病院から近所の個人病院に、かかりつけ医を変更。再度見直しの申請をしたところ、2段階上がって要介護3と認定されました。

「死ねばいい」とひとり言。
ついには暴力まで……。

介護生活における私の唯一のストレス解消法は、空いた時間にバイクを走らせて、映画を観にいくことでした。2時間ほどでも、現実を忘れることができますから。機動力があって小回りがきくバイクが、すごく役に立ちました。

しかし失禁や過食以外にも母の症状は進み、夜中に転倒してろっ骨を折るなど、身体機能の低下も顕著になっていきました。私の負担は重くなる一方で、ついには「死ねばいいのに」というひとり言が出るように。私は、精神のバランスを失いつつありました。

そんなとき、二日続けて母が台所を荒らしたことで、私の中で何かが壊れました。気がついたら、母の頬を平手で叩いていたんです。母はひるまず打ち返してきましたが、私はさらに母を叩き続けました。「やめねば」という理性と「やったぜ」という開放感が混じり合って、まるで夢の中のよう。あのときの自分は、介護殺人をする人のごく近いところにいたと思います。

このできごとで、「自宅での介護はもう無理」と自覚。きょうだいで話し合い、施設に預けることを決意しました。「ここまでしかできなかったか」という悔悟と、「やっと終わる」という安堵が入り混じった気持ちでしたね。

連日のように台所をめちゃくちゃ
に荒らされ、母への怒りが爆発。
ついに手を出してしまいました

きょうだい3人であちこちの施設を見て回り、母に一番合いそうなグループホームを見つけ、運よく入所できることになりました。入居費用は、介護保険と母の年金に加えて、3人で毎月1万5000円ずつ出せば、継続的に支払えそうな額。さらに専用の口座を決めて、きょうだいで少しずつ積み立てをすることにしました。

母を施設に預けることには最後まで罪悪感がありましたが、家で過ごす最後の晩、母の排便の失敗で家の中が大変なことに……。片付けをしていくうちに、ようやく気持ちが吹っ切れました。ケアマネさんからの「よくここまで頑張られたと思います」という言葉が、心に沁みました。

認知症になる前のお母さんは旅行好きで、語学の勉強や合唱サークル、太極拳なども楽しんでいた。

自分がやるべきことは
スタッフとの信頼関係づくり。

入居して最初のころの母は、わがままでスタッフのこともだいぶ手こずらせたようですが、だんだんと表情が柔らかくなっていきました。家では、息子と衝突して自尊心が傷つくことの連続でしたが、ホームではプロが対応してくれます。家族は母の元気なときを知っているから、何かできなくなった状態を認めづらいのですが、他人にはそういう葛藤がないので、効率よく、よりよい環境で介護をすることができると感じます。

母の世話を任せる代わりに、私はスタッフの方との信頼関係を築くことに尽力しました。スタッフの人とじっくり話をすることで、母をより理解してもらうための助けにもなると思ったからです。

「施設に預けたら介護は終わり」と思っていましたが、違いました。グループホームは介護保険で運用されていますが、入院すると健康保険の適用対象になるので、ホームのサービス対象から外れてしまいます。そうすると介護はまた家族に戻ってくるんです。母は入所5か月後に軽い脳梗塞を発症、翌年は左大腿骨頸部の骨折、胆管炎と、何度も入退院を経験しました。とくに認知症の老人は、トラブルが連鎖発生しやすいそうです。

介護生活が始まって9年。
人はそう簡単には死なない。

母は現在要介護5になり、グループホームの介護ベッドに寝ています。食事は流動食で、話しかければ反応しますが、私のことをわかっているのかどうかも定かではありません。「看取りの段階です」と宣告され、何度も「もうだめか」と思いましたが、その都度生き延びてきました。人はそうそう簡単には死なないものですね。

もう私は61歳。人生の6分の1近くを介護に費やしたことになります。妹は海外に住んでいたし、弟は仕事で激務の日々だったので、私が介護の中心になるしかなかったのです。でも、「母に生きていてほしい」という気持ちも嘘ではないんです。母がいてくれることで、まだ自らの死を直視せずに済んでいる気もします。

介護を経験して実感するのは、「公的介護の制度なくして、高齢者介護はありえない」ということ。平均寿命が延び、核家族化も進み、家族が担うことは難しくなりました。誰しも、いつの日か自分が要介護の高齢者になることを覚悟しながら、生きていくしかない時代になったのだと思います。

〈編集部追記〉松浦さんのお母さまは、このインタビューの取材後、2023年12月にご逝去されました。謹んでお悔やみ申し上げます。

取材・文・編集協力/臼井美伸(ペンギン企画室) イラスト/タムラフキコ 撮影/島崎信一 協力/株式会社Miyanse
月刊益軒さん 2023年8月号』(カタログハウス刊)の掲載記事を転載。

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