映像作家の信友直子さんは、広島県呉市に住む両親の老・老介護生活を記録したドキュメンタリー作品で話題を集めました。認知症を発症した85歳の母の介護を主に担い、家事を取り仕切るようになったのは、93歳の父(当時の年齢)でした。
わたしの介護年表
2012年
母83歳
認知症を疑う言動が始まり、検査を受けるが「認知症ではない」という結論に。
2014年
母85歳
再度検査を受けて、アルツハイマー型認知症と診断される。
2015年
母86歳
直子さんが介護サービスを利用することを両親に勧めるが、拒否される。
2016年
母87歳
地域包括支援センターに相談に行く。要介護認定を申請、母は要介護1と認定される。
2018年
母89歳
母が脳梗塞で倒れる。リハビリを始めるが、3ヵ月後に再度脳梗塞を起こし、寝たきりの状態に。
2020年
母91歳
父と直子さんに見守られながら息を引き取る。
明るく楽しい母が
アルツハイマー型認知症に。
母に認知症を疑うような症状が出始めたのは、83歳のころです。同じ話を何度も繰り返す。こちらの話をなかなか理解しないし、すぐ忘れる。同じものを何個も買ってしまう……といった異変が出始めました。それまでは明るくて楽しい母だったのに、「他人にばかにされている」など、被害妄想的な話も増えてきました。
そこで病院に連れて行って認知症の検査(「長谷川式認知症スケール」の問診や脳のMRI検査)をしたのですが、意外にも「認知症ではない」という結論に。後で振り返れば、ちょっとタイミングが早すぎたようなのです。おそらく認知症の一歩手前の「軽度認知障害(MCI)」だったのだと思いますが、当時はその概念がまだ知られていませんでした。結局「アルツハイマー型認知症」と診断が下るまで、ずるずる1年半が経ってしまいました。
それまでの私は、実家への電話は毎日のようにしていましたが、帰省は年末年始だけでした。でも、認知症と診断された母の世話を、93歳(当時)の父に任せていいものか……。父に、「仕事をやめて帰ってきた方がええかね?」と聞いてみましたが、父は「いやいや、あんたは帰らんでもええ。おっかあはわしがみるけん、あんたはあんたの仕事をしんさい」と言うのでした。その言葉に甘えるように、私は東京での生活を続けました。
当時は実家に帰れるのは、時間的にも経済的にもせいぜい2ヵ月に1回が限界。叔母からも、「あんたが帰ってくりゃすむことじゃ」と言われ、母のためにというより世間体のために、帰った方がいいのかなと悩みました。「私はやっぱり親不孝者なんじゃないか」という気持ちに度々苛まれ、時には実家から東京に戻るバスの中や飛行機の中で、恥ずかしいくらい泣いていたことを覚えています。
でも私はフリーランスのディレクターという不安定な立場です。もし介護のために仕事をやめてしまったら、食べていけなくなります。それに、父も母も私が熱意と信念を持ってこの仕事をしていることを理解し、心から応援してくれていると感じていました。
もしあのとき私が実家に帰って介護に専念していたら、仕事ができないイライラを抱えて母に八つ当たりしていたでしょう。母にとっても、娘が自分のせいで仕事ができなくなって暗い顔をしていたら、絶対に辛かったと思います。
社交的だった母が家に閉じこもり、二人は孤立した。
母の認知症は進み、そのうちに料理ができなくなりました。それまで全く家事をしたことのなかった父が、頑張って家事を担うようになったのは嬉しい驚きでした。しかし母が冷蔵庫の中の古くなったものを食べてお腹を壊したりと、心配なことが増えていきました。
そこで両親に、介護認定をしてもらって介護サービスを受けるよう勧めましたが、両親は頑として首を縦に振りません。父は「わしが元気なうちは人の世話になりとうない」と言うし、母も「家に人が来るのはイヤ」と言うのです。こうして、信友家はそれから2年以上も介護サービスを受けることができませんでした。
そんな状況に風穴が空いたのは、奇跡のような偶然からです。あるときテレビの情報番組で、私の認知症の母のことを取り上げたいという依頼がありました。
取材のため、地域包括支援センターの方に両親の様子を私が撮った映像で見てもらいました。「お父様はよく頑張っておられますが、ギリギリの状態ですね」と言われ、さらに思いがけない指摘が。「一番の問題は、お母さまが外に出ていないこと」というのです。「外からの刺激がないと気持ちがふさぐ一方だし、認知症も進んでしまいますよ」。私はガツンと殴られたようなショックを受けました。
たしかに認知症が進むにつれて、もともと社交的だった母が、家に閉じこもって過ごすようになっていました。父が、母の認知症を近所の人や友達に知られたくなくて、人を遠ざけるようになったからです。それに父は耳が遠いから、母が話しかけてもちゃんと受け答えができません。被害妄想が入った母は、「お父さんは私がばかになったから相手にしてくれんようになった」と暗いことばかり考えて、どんどん鬱っぽくなっていました。
『お母さんが外に出て
いないのが一番の問題』と言われ
ショックを受けました
私が帰省したときの母は機嫌よくしていたけれど、いないときはものすごく孤独だったはず。刺激のない毎日が続いたことが、母の認知症の進行を速めてしまったのではないかと、今でも悔やまれます。
センターの方には、母の気分転換のためにデイサービスの利用を強く勧められました。「両親が素直に介護サービスを受け入れるだろうか」と弱気な私でしたが、センターの方は、「任せてください。私たちにつないでいただければ、なんとしても入っていきます」という心強い言葉をくださり、私は安堵のあまり泣いてしまいました。
次回(6月28日公開)に続く
取材・文・編集協力/臼井美伸(ペンギン企画室) イラスト/タムラフキコ 撮影/鈴木亜希子 編集協力/株式会社Miyanse
『月刊益軒さん 2023年3月号』(カタログハウス刊)の掲載記事を転載。
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第1回
介護者も自分の健康を気にかける時間が必要です
篠田節子さん【前編】1月29日公開
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第2回
介護者も自分の健康を気にかける時間が必要です
篠田節子さん【後編】2月5日公開
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第3回
精神論では無理。介護が始まる前に家族で話し合っておきたい
ハリー杉山さん【前編】3月11日公開
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第4回
精神論では無理。介護が始まる前に家族で話し合っておきたい
ハリー杉山さん【後編】3月18日公開
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第5回
後ろめたさを感じずに介護はプロを頼っていい
安藤優子さん【前編】3月25日公開
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第6回
後ろめたさを感じずに介護はプロを頼っていい
安藤優子さん【後編】4月1日公開
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第7回
無理のない役割分担で『きょうだいチーム介護』を実践
岸本葉子さん【前編】4月15日公開
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第8回
無理のない役割分担で『きょうだいチーム介護』を実践
岸本葉子さん【後編】4月22日公開
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第9回
元気なうちに延命治療について希望を聞いておくべきです
盛田隆二さん【前編】5月21日公開
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第10回
元気なうちに延命治療について希望を聞いておくべきです
盛田隆二さん【後編】5月29日公開
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第11回
「介護はプロとシェアして」という言葉で、罪悪感から解放された
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第12回
「介護はプロとシェアして」という言葉で、罪悪感から解放された
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第13回
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親子の関係が逆転する「交差地点」をうまく乗り越えるのが大切
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第17回
絶対に一人で抱え込まず専門家の輪の中で介護を
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第18回
絶対に一人で抱え込まず専門家の輪の中で介護を
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のぶとも・なおこ
1961年広島県呉市生まれ。84年、東京大学文学部卒業。同年、森永製菓に入社し広告部で社内コピーライターに。その後、映像制作に興味を持ちテレビ番組制作の道へ。フリーディレクターとしてドキュメンタリー番組を多く手掛け、2016・17年に「娘が撮った母の認知症」がフジテレビで放送され大きな反響を呼ぶ。18年に『ぼけますから、よろしくお願いします。』で長編監督デビュー。全国で20万人以上を動員する大ヒットとなり、令和元年の文化庁映画賞・文化記録映画大賞などを受賞。現在、くれ観光特使と、呉市総合計画審議会委員も務める。
「食と笑いで養生する」をテーマにした月刊誌。「わたしの介護」のほかに、ウェブ通販生活でもおなじみの「老いるショック」や「巻頭インタビュー 今月の益軒さん」などの読み物記事や、脳トレドリルなどを掲載。“健康寿命”に貢献できる養生食品も販売している。雑誌名の「益軒さん」は、江戸の儒学者、貝原益軒の名に由来。