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親子の関係が逆転する「交差地点」を
うまく乗り越えるのが大切 【前編】

パワフルな歌声と軽妙なトークでファンを魅了するジャズシンガー、綾戸智恵さん。デビューから6年目の2004年、多忙だった日々に突然降りかかったのは母の介護でした。家族をおろそかにしての音楽は考えられなかったという綾戸さん。介護と向き合った17年間と今をお話しいただきます。

わたしの介護年表

2004年
母78歳

脳梗塞で右半身麻痺となり要介護4(現在の3)に。リハビリ病院に転院後、在宅でのリハビリ効果も上がり要支援2に。

2007年
母81歳

大腿骨骨折で手術、入院。この時から幻影や妄想が現れ、情緒不安定に。

2010年
母84歳

週2、3回のデイサービス、のちにショートステイを利用。

2015年
母89歳

グループホームに入所。

2020年
母94歳

コロナ禍により、面会制限を受ける。

2021年

お正月に合わせて一時帰宅。自宅で穏やかに過ごし、智恵さん、お孫さんに見守られながら永眠(享年94)。

※年号・歳の一部は目安です。

要介護4→要支援2に回復した矢先、
大腿骨骨折で入院

母は音楽や映画が大好きな人で、私の音楽活動もずっと応援してくれてたんやけど、2004年、78歳の時、脳梗塞で右半身麻痺になりました。寝起きや食事、トイレにも助けがいる要介護4(現在の3)。でも、リハビリテーション病院から自宅に戻って、リハビリを頑張ったおかげで、1年半後には一人で歩けるようになりました。

私もね、介護士さんがやることじーっと見て、これは何に効果があるのかいろいろ質問して、母との暮らしに取り入れていきました。

たとえば、階段状の器具で上り下りするリハビリあるでしょう。あんなの老人の誰がやる? でも、「ここのお寿司、おいしいから食べたいねんけど、5段の階段があるねん、どうしましょ?」言うたら、お母ちゃん必死でリハビリやりましたわ。

あと、指の練習。毎日毎日、何も書いてない紙なんてめくられへんで。だから考えた。振り込まれた私の給料をお札に替えて「今月の給料や、お母ちゃん勘定してくれるか」と渡したら、1、2って数えてはった。昔、母は株を銘柄買いするほどやってたから、やっぱりお金にはしっかりしてる。

要支援2にまで回復して、このまま良くなればなあと思っていた矢先に、大きな荷物を抱えた宅配ドライバーとぶつかって転倒、大腿骨を骨折して、また入院です。

この頃から様子がおかしくなって、「布団の上に虫がうじゃうじゃいる」とか「夜中に誰かから文句を言われた」とか妄想が始まり、人が変わったように怒りっぽくなりました。

お医者さんから「認知症です」と言われて、これからどうなるのかと聞いたら「お母さんの場合、できないことがイライラするでしょうな」と。転倒による高次脳機能障害というやつですな。今まではご飯作りながら電話対応し、足でドア蹴るみたいな、3つも4つも同時にできる「スーパー母ちゃん」だったわけやからね、イライラするでしょう。それで泣いてみたり、怒ってみたり……。

当時は認知症のことなんて何も知らなかったから、人格が変わっていく母を見て「なんでやろ」とずいぶん悩みました。

老いは当たり前、死ぬまで
教育してくれるのが「親」

でも、赤ん坊みたいにご飯こぼしても、自分の親やと思うのを外したことは一秒たりともない。トイレもお風呂も一人で行けんようになっても、怒ったり命令するような口のききかたは一切しなかった。親は私より先に生まれた「先生」。あの人がおらんかったら私は生まれてないんやからと。

「親が老いていくのは当たり前や、私がしっかりせないかんねんな。お母ちゃんは死ぬまで私を教育する気やなあ」と思ってました。

ある時、母が「何もできへん。ほんまに生きるもむずかし、死ぬもむずかしになった。もうちょっと早く死んでおけばよかった」と言うたんです。

「そらなあ、お母ちゃんが死んではったら、今ごろもっと仕事たくさんしてたんやろうけど、人間味のない歌を歌ってると思う。生きてはるだけで、音楽のほうもようなったし、ちょっとは人間が厚うなったし。年を取るってどういうことやとか色々見してもらった。さすがもう死ぬまで親ですなあ」

そうしたら「まだ生きててええか?」って聞く。「まだこれからいろいろ聞かないかんのに、そんなすぐ逝かれたらたまりまへんわ」って答えました。

わかっていることでもあえて「どうしたらええの」と頼れば、お母ちゃんも頑張る。

何もできなくなっていく親と、何でもできるようになっていく子供、親子の力関係がちょうど交差して、一方が下り、一方が上がる、このあたりっていうのはお互い辛いんですよ。その交差地点をうまいこと越えなあかんのです。

わかっていることでも、
あえて「どうしたらええの」と
頼れば、お母ちゃんも頑張る

ここに関わってくるのが病院の先生、介護士さん。それから、デイサービスやヘルパーさん、訪問看護師さんにも助けてもらって、いろんな人に頼りました。ご近所さんでも他人さんでも「ヘルプ~ッ!」って周りにずっと言い通しやったね。

介護士さんは「親戚の子」
だから大丈夫と安心させる

最初ね、誰でも他人が家に入ってくるのは嫌じゃないですか。だからヘルパーさんのことも、「あの子は遠い親戚の子や。ぎょうさんお小遣いもあげてるから、なんでも言いや。大丈夫~」って嘘ついてね(笑)。母も気が楽になって、嫌やとは言わなくなりました。

母を連れてコンサートの仕事に行ったりもしてました。開演直前まで母の世話をして。でも、デビュー10周年の2008年、記念コンサートを終えたのを機に活動を休止して、介護に専念することに決めました。私は自分と家族のために生きてきた、音楽のために生きてきたんではない。「まわりの人に助けを借りての音楽活動ってどうなんや?」と思ったからです。

でも、休止している間に介護の知識も身についたし、2010年頃からはショートステイも利用するように。介護士さんから「ショートステイもありますよ」って教えてもらってね。ほんま感謝ですわ。それでツアーを再開できるようになりました。

次回(8月29日公開)に続く

取材・文/小泉まみ イラスト/タムラフキコ 写真協力/有限会社まいど 編集協力/株式会社Miyanse
月刊益軒さん 2023年5月号』(カタログハウス刊)の掲載記事を転載。

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