出版社を退職し、「これから24時間365日、小説を書くぞ!」と思った矢先、母の死をきっかけに衰えていく父。老健(介護老人保健施設)と自宅での介護を往復する歳月は、息子が父の老いを受け入れていく長い道のりでもありました。
わたしの介護年表
1997年
母、パーキソン病発症。
2002年
父79歳
母がパーキンソン病で死去(享年71)後、元気がなくなり老人性うつが見られる。
2004年
妹、統合失調症で半年間、入院する。
2004年
父81歳
消えたテレビを見ていたり、足腰が急速におとろえる。介護保険を申請し、要介護1。宅配弁当のサービスを依頼。汚れた下着を履き替えない、妹の投薬管理を忘れる。
2005年
父82歳
外出先で転倒、たばこの火の不始末。自分の投薬管理ができなくなる。老健に入所。
2006年
父83歳
妹の入退院に合わせて老健入所と自宅療養を繰り返す。自宅ではデイケアを利用。お金を盗まれる妄想が始まる。
2007~
2010年
盛田さん、介護うつを発症。連載小説を半年ほど中断。盛田さん妻、重度の腰痛となり父、妹、妻の三重介護に。
2010年
父87歳
老健の院内感染で肺炎になり入院。
2012年
父89歳
腸閉塞で緊急入院。要介護5。胃ろうを作る。
2013年
父90歳
老健に戻り寝たきりとなる。誕生日を迎えたのちの3月、永眠(享年91)。
老健(介護老人保健施設)には洗濯のために週2回ほど通いました。気晴らしに父をコインランドリーに連れ出し、待っている間にたばこやビールを勧めると、父は自分の額をピシャっと叩き手刀を切って「ありがてえ」。そんなことをする父ではなかったのでびっくりしました。
思春期の頃は、偉そうにしている父親が大嫌いで反抗的な態度を取っていました。そんな息子が世話をしてくれる。父にすればうれしかったのかもしれません。でもしみじみと「ありがとう」と言うのではなくて、ひょうきんにおどけて見せたのです。
「じゃあ、帰るよ」と言えば、顔をくしゃくしゃにして大粒の涙を流しました。親子の立場が逆転したんだなと分かったとたん、いたたまれないような気持ちになりました。
「やることリスト」を作り
「介護うつ」を脱出。
妹は、被害妄想が悪化する度に入退院を繰り返しました。妹に合わせて父も老健と自宅を行ったり来たり。お互い一人暮らしはできないけれど、二人ならギリギリ支え合っていけたんです。
老健のデイサービスを利用するなかで認知症の検査したところ、軽度・中度・重度のうち「中度」。
入居当時より明らかに進行していました。
ある日、警察から電話があり、「お父さんが、息子にお金を盗まれたと言っています。事情を聞こうとご自宅に伺ったら、そんな電話はしていないと怒っています」
認知症による被害妄想だと説明すると、「大変ですね」と同情されました。
毎日が綱渡りのようなこんな生活を3年も続けていると、ついに私が不眠症、食欲不振、不安障害に悩まされるようになりました。心療内科でストレスによる介護うつと診断され、連載中の小説も休載せざるを得ませんでした。
症状が良くなったり悪くなったりしているうちに、今度は妻が重度の腰痛で動けなくなりました。父、妹に妻の介護までが加わり絶望的な気分でしたが、逆に自分がうつだなんて言っていられなくなりまして、まず「やることリスト」を作り、これらは仕事なんだと割り切りました。自分のことはいったん外に置いて、リストの項目を済むたびに一つずつ消していくうち、小さな達成感が味わえるからか不思議と心が安定してきたのです。ガチガチに固まっていた歯車が急に回り始めたように感じました。
まず「やることリスト」を
作り、これは仕事なんだと
割り切りました
「胃ろう」は正しかったのか
父はどうしたかったのか。
父は87歳の時、老健での院内感染によって肺炎を発症し入院しました。退院すればまた老健へ、父の居場所を確保するのにヘトヘトになりました。
それから2年ほどして、ある日、何も食べなくなり水も飲まなくなりました。病院に救急搬送すると腸閉塞を起こしていたんです。点滴治療を3週間、続けているうちに、閉塞は治ったものの口から食べることがまったくできなくなっていました。身体機能もますます悪くなり介護度は5に。
医者からは胃ろう(腹部に穴を開けてチューブを通して栄養剤を入れる方法)を勧められました。このままでは栄養不足でひと月も持たない。そう聞いたら悩んでいる暇はありません。胃ろうを承諾しました。
でも、今となっては後悔しています。寝たきりになった父はさらに認知症が進み、看護師に暴言を吐いたり暴力を振るうように。ベッドに拘束された父は、もうかつての穏やかな父ではありませんでした。
病院側からは、容体が安定すると退院を促されました。「在宅復帰」を目指す老健が、こんな状態の父を受け入れてくれるのか不安でしたが、年月が経って施設の方針が変わり「看取りケア」まで行うようになっていました。再入所できて心底ほっとしました。
しかし、老健に戻った父は言葉をかけても反応がなくなりました。それから3ヵ月、褥瘡と吸痰の苦痛に耐えながら、2013年3月、91歳で亡くなりました。
胃ろうという最後の選択は正しかったのか、今も答えは出ません。父が元気なうちに、延命治療について希望を聞いておけば良かったと思いますが、そんな機会はなかったですからね。
実は、遺品整理をしていた時、般若心経の写経の束を見つけました。母の死後、父は墨をすることも筆を手に取ることもなくなっていましたが、写経一枚一枚に日付が記してあり、母の病がわかってから写経していたようです。庭に捨てられた硯のことを思い出して、いかに父のことを理解していなかったかがわかりました。
介護の真っ最中は気が休まる暇もなく、毎日辛かったのですが、今となればこの10年は父と初めて心を通わせることができた貴重な時間だったんだなあとしみじみ思うのです。
取材・文/小泉まみ イラスト/タムラフキコ 撮影/島崎信一 編集協力/株式会社Miyanse
『月刊益軒さん 2023年2月号』(カタログハウス刊)の掲載記事を転載。
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もりた・りゅうじ
作家。1954年生まれ。情報誌「ぴあ」編集の傍ら、小説を執筆。90年のデビュー作『ストリート・チルドレン』や『サウダージ』は共に文学賞候補となる。96年に退職し、作家専業に。代表作『夜の果てまで』『二人静』など。
『父よ、ロング・グッドバイ 男の介護日誌』
盛田隆二
(双葉社・税込1,540円)
9つの質問で症状の進行を判定する長谷川式簡易知能評価スケール。
「食と笑いで養生する」をテーマにした月刊誌。「わたしの介護」のほかに、ウェブ通販生活でもおなじみの「老いるショック」や「巻頭インタビュー 今月の益軒さん」などの読み物記事や、脳トレドリルなどを掲載。“健康寿命”に貢献できる養生食品も販売している。雑誌名の「益軒さん」は、江戸の儒学者、貝原益軒の名に由来。