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絶対に一人で抱え込まず
専門家の輪の中で介護を 【前編】

『食堂のおばちゃん』『婚活食堂』などの人気小説を手掛ける、山口さん。認知症のお母さんを20年近くお世話し、自宅で見送りました。脳梗塞を患ったお兄さんの在宅介護も、専門家のサポートを積極的に受けて乗り越えてきました。

わたしの介護年表

母の介護

2000年
母73歳

父が亡くなり、母に異変が見られ始める。恵以子さんにとって「頼りになる人」から「面倒を見る人」へ。

2004年
母77歳

母の衰えは感じられるものの帽子教室と水泳教室に通い始める。一人でバスに乗ることもできていた。

2007年
母80歳

母の症状が悪化する。尿意便意が感じられなくなり、粗相をしてしまうことも。

2010年
母83歳

初めて介護認定を受けて要支援2、翌年、要介護1に。尿とりパッドの支給で、介護がラクに。

2018年
母91歳

寝たり起きたりの生活に。下血して救急車で運ばれる。入退院を繰り返すが、最期は在宅でと決める。

2019年
母91歳

年末28日に退院して、年末年始を自宅で過ごす。1月18日逝去。

兄の介護

2005年
兄58歳

別居していた長兄が母と恵以子さん宅に戻り、同居を始める。

2008年
兄61歳

長兄が家をリフォーム。恵以子さんが更年期鬱に。

2017年
兄70歳

長兄が脳梗塞を2回発症する。短期記憶が怪しくなる。

2018年
兄71歳

長兄が経営していた接骨院を廃業。3回目の脳梗塞を発症する。

※年号・歳の一部は目安です。

頼りにしていた母が
少しずつおかしくなった

母の行動をおかしいなと思ったのは、父が亡くなった73歳の頃でした。私は42歳で、脚本家を目指していたものの、なかなか芽が出ない下請けのプロット(筋書き)ライターで、生活のための派遣店員をしていました。さらに、お見合いは43連敗の独身で、実家で暮していました。

山口さんが小学校2年生の頃、家族で塩原温泉に行ったときにお母さんと。60年間、二人三脚だった。

私が独身のことを不安に思ったのか、母はかつてのお見合い相手に「反省すれば交際を考えてもよい」という手紙を出したらいいと言い、見本まで書いてよこしました。そんな失礼な手紙、書けるわけがありません。「才気煥発だった母がなぜ?」と思う、おかしな行動です。

それから、料理上手だったのに、徐々に料理も怪しくなりました。豚の角煮用にバラ肉ではなくもも肉の塊を買ってきたので、「そんな硬い肉では作れない」と言ったら、今度はラードを買ってきて「一緒に煮れば大丈夫」と言ったことも。そんなことが増え、徐々に、料理をしなくなりました。

私と母はずっと仲が良く、母が私の「書く夢」を応援してくれました。漫画を編集者に見てもらってダメ出しされたことがありますが、母は「そいつはバカだ。あんたの才能をわかっていない」とバッサリ。親バカを通り越してバカ親でしたが、いつも私の味方でした。そんな母をずっと頼りに生きてきたのに、2年ほどで「あららっ」というくらいおかしくなった。ダメな二人がボートに乗せられて太平洋に流されたという感じで、「これからどうしたらいいの?」と不安になりました。

不安を払拭しようと、私は丸の内新聞事業共同組合という新聞販売事業所の食堂で調理補助のパートに応募し、採用されました。パートでも、60 歳の定年まで働けるとのこと。経済的な安定を得て、ようやく気持ちが落ち着きました。

その後、小説を書き始め、食堂の仕事をしながら母の世話をし、執筆を続ける日々でした。この頃の母は括約筋(かつやくきん)が弱くなり、便意や尿意が感じられなくなって大小便を漏らすことも。おしめ代わりに100均のタオルを当てていましたが、洗濯が大変で。特に大の場合は、便器で洗い流し、洗面所で洗ってからでないと洗濯機に入れられず手間がかかりました。

母がおかしいのは
加齢による自然現象だと……

ずっと「母は年相応に衰えているだけで、年寄りの世話は家族でするもの」と思っていたので、介護認定を申請するなんて、考えたこともありませんでした。でも、食堂の同僚で福祉や介護に詳しい方が、「介護認定をとったほうがいいよ。利用できるサービスがあるから、ラクになる」と教えてくれたのです。申請したら、母の介護認定は要支援2。自治体から尿取りパッドを無料(その後1割負担に)で支給してもらえて、おしめの洗濯から解放され、日々の介護が随分ラクになりました。

今思うと、母の症状は認知症ですが、病院で診断を受けたことはありませんでした。当時は認知症よりも「老人性痴呆症」という言葉が一般的だったので、「痴呆症というほどではない」と。だって、時々ふつう以上にしっかりしてるんですから。たとえば、私が書いた脚本を母が読み、「テーマがない」と言うんです。指導の先生からも「この脚本はヘソがないよ。お母さんさすがだよ」と言われて。だから、痴呆じゃない、加齢による自然現象だと考えていたのです。

同僚のアドバイスに従い、
介護申請をしたら、
日々の介護がラクになりました

2013年に、『月下上海』で松本清張賞を受賞しました。「食堂のおばちゃんが受賞!」と話題になり、たくさんのメディアに取材をしてもらいました。受賞の連絡があったとき、大喜びで母に報告したけれど、母は上の空のようだったので、きちんと理解していないのかなと思っていました。でも、後で、母の備忘録から、私が賞のための原稿を送った宅配便の送り状を見つけました。わざわざ取っておいてくれたんですね。次兄からも「『恵以子が松本清張賞を獲った』とお母さんからうれしそうな電話があったよ」と教えてもらいました。母は、ちゃんと喜んでくれていたのです。

母を自宅で看取り、
最期の言葉を聞く

2018年、91歳になると通院が難しくなり、ケアマネージャーさんに相談し、訪問医を紹介してもらいました。母が亡くなるまで、この方に診てもらい、現在は長兄の訪問診療もしてもらっています。

その年の9月、母は下血して救急搬送。一命を取り止めましたが、医師から療養型病院への転院を促されました。そんなとき、在宅での看取りをされた知人の話を聞き、「病院での最期しかない」という固定観念がくつがえされました。さらに、とある療養型病院に見学に行ったら姥捨山みたいで、「ここで母を死なせるわけにはいかない」と、在宅介護を決意します。

山口さんが習っていた日本舞踊の新年会で撮影。お母さんは80代の初めまで、毎年見に来てくれた。

次回(10月2日公開)に続く

取材・文/大橋史子(ペンギン企画室) イラスト/タムラフキコ 撮影/島崎信一 編集協力/株式会社Miyanse
月刊益軒さん 2023年6月号』(カタログハウス刊)の掲載記事を転載。

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