「喋る」を二つ重ねて「喋喋(ちょうちょう)」。
希代のおしゃべり・古舘伊知郎さんが
ゲストを迎え、おしゃべりを重ねます。
今回は女性キャスターの先駆者として、
古舘さんと同時代を走り抜けてきた
安藤優子さんをゲストに迎えました。
お2人はお互いをどう見ていたのでしょうか――。
古舘伊知郎さん
ふるたち・いちろう●1954年、東京都生まれ。大学卒業後、テレビ朝日にアナウンサーとして入社。84年に退社後も数々のテレビ番組で活躍。88年からは一人喋りの最高峰と称されるライブ「トーキングブルース」を続けている。
安藤優子さん
あんどう・ゆうこ●1958年、千葉県生まれ。大学在学中からニュース番組でリポーターとして活躍。2020年9月まで「40年にわたる報道生活」を続けた。23年4月から椙山女学園大学客員教授。『ひるまない』(講談社)など著書多数。
- 古舘
- 安藤さんには「同志」という感覚が以前からとても強いんです。
- 安藤
- のっけからそう言っていただくと恐縮しますが、それは報道の現場で私がいつも“闘っていた”からかもしれません。40年間、生放送のニュース番組を担当しましたが、今思うと常にパンパンに力が入っていました。他の人よりも絶対に早く現場に行くんだと必死でしたし、何より仕事、そしてニュースが最優先の生活でした。
- 古舘
- 僕も『報道ステーション』のキャスター時代は、及ばずながら闘っているという気持ちを持っていました。そうじゃないと毎日のニュース番組はやっていけません。放送が終わればご批判もいただく。翌日、そうしたメールもすべて目を通して、スタッフと議論しながらその日のニュースを準備する。しんどかったけど、だからこそ放送後の一杯がおいしかった。
もうひとつ勝手にご縁を感じているのは、僕がテレビ朝日でスポーツ実況をやっていた1980年代、大学生の安藤さんがちょうど同じテレ朝でニュース番組に出ていらしたからかもしれません。 - 安藤
- 古舘さんが7月に出された小説『喋り屋いちろう』(集英社)を読ませていただきましたが、当時の放送局の雰囲気がそのまま描写されていました。テーブルに足をのっけてタバコを吸って、スープが残ったラーメンどんぶりに吸い殻を投げ捨てる光景を見て驚いた記憶があります。
- 古舘
- 本当に男社会の極みのような空間でした。「若いお姉ちゃんは華がないとダメだ」とプロデューサーが平気で言っていましたから。
- 安藤
- 私が最初に番組で与えられた仕事もまさにそうで、ニュースを読む男性司会者の横で、ただ「ハイ、ハイ」とうなずくだけの役割でした。
- 古舘
- 安藤さんがすごいのは、そこから安藤優子という〝個〟を確立されていったことです。女性アナウンサーから「安藤さんのようになりたい」という声を多く聞くのも、そういう存在がほかにいないからでしょう。
- 安藤
- 私は87年に『ニュースステーション』を降板してテレ朝を離れたのですが、キッカケになったのはどれだけ仕事をしても周囲のスタッフから「優子ちゃん」と呼ばれ続けたことでした。テレ朝には海外報道をはじめ多くの経験をさせていただいたし、育ててもらって感謝もしています。ただ、ここにいる限りは一生「優子ちゃん」のままだろう、それは嫌だと思ったんです。
- 古舘
- その後多く仕事をすることになったフジテレビは違いましたか?
- 安藤
- 『スーパータイム』を担当することになって最初に言われたのが、コンビを組む逸見政孝さんとは「まったく対等なパートナーとしてやってほしい」ということ。しかも、初日の放送の原稿を見たら「安藤」の名前の下に、赤鉛筆で「(ひと言)」とだけ書いてありました。決められたコメントではなく自由に話せというわけです。ものすごいカルチャーショックでした。
- 古舘
- それは嬉しかったでしょう。
- 安藤
- 嬉しかったし、戸惑いや怖さもありました。フジは報道番組では後発だったし、新しいことをやろうという気風がすごく強かったと思います。
安藤さん、
古舘さんの
これまで
-
1977年
古舘テレビ朝日にアナウンサーとして入社。ほどなくプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』の担当に。
-
1980年
安藤上智大学在学中から、テレビ朝日系の報道番組『TVスクープ』『ニュースステーション』などで取材リポーターを務める。
-
1984年
古舘テレビ朝日を退社しフリーに。「古舘プロジェクト」を設立。
-
1987年
安藤夕方の報道番組『FNNスーパータイム』(フジテレビ系)のキャスターを務める(~94年)。戦争や紛争など危険地帯の取材も精力的に行なう(下写真は湾岸戦争時、クウェートにて)。
-
1988年
古舘現在も続く一人喋りのライブ「トーキングブルース」をスタート。89年からは、F1レース中継番組『F-1グランプリ』(フジテレビ系)の実況を担当(~94年)。
-
1994年
安藤平日夜の報道番組『ニュースJAPAN』(フジテレビ系)のメインキャスターに就任(~2000年)。
古舘民放出身のアナウンサーとしては初めて『NHK紅白歌合戦』の白組司会を務める。96年まで3年連続で担当する。
-
2000年
安藤夕方の報道番組『FNNスーパーニュース』(フジテレビ系)のメインキャスターに。15年からは同時間帯の情報番組『直撃LIVE グッディ!』の総合司会(~20年)を務める。
-
2004年
古舘『報道ステーション』(テレビ朝日系)のメインキャスターに就任。2016年3月まで12年間務める。
-
2005年
安藤キャスターを続けながら上智大学大学院へ入学。
-
2022年
安藤2019年に博士学位を取得した論文を加筆修正し、『自民党の女性認識―「イエ中心主義」の政治指向』(明石書店)を上梓。
-
2023年
古舘初の自伝的小説『喋り屋いちろう』(集英社)を上梓。
- 古舘
- これは僕の勝手な想像ですが、フジでは高峰三枝子さんや森光子さんがメイン司会者を務めた情報番組『3時のあなた』を60年代末から20年間放送していました。それもあって女性キャスターの起用が早かったのではないでしょうか。その後、夕方や夜の報道番組で長く活躍されるわけですが、浴衣も買えないくらいお忙しかったと何かのインタビューで読みました(笑)。
- 安藤
- 25年くらい前ですね。今年閉店した渋谷の東急本店で、たしかトンボ柄の帯を選んでいるときに携帯電話が鳴り、「ビル・クリントン(米大統領)のインタビューに行け」と言われて。あのときは仕事を恨みました。私も乙女だったし、たまには浴衣でも着て彼氏とデートくらいしたいじゃないですか。
- 古舘
- でも結局は自分がトンボになって、すぐさまワシントンに飛んだ。カッコいいエピソードです。
- 安藤
- 「いま私、浴衣買ってるんです」と言ったら「大統領に会えるんだぞ」って怒鳴られました。それで家に帰って10分で荷造りして空港に向かいました。
- 古舘
- 早い!
- 安藤
- 10分あれば海外取材の荷造りができるんです。洋服はスーツ1着と白いTシャツがあればなんとかなるし、日用品は現地で買えばいい。
- 古舘
- 僕なんかは日常を取りまとめたような大荷物じゃないと落ち着かないので、そのフットワークの軽さは憧れるなあ。ただ、暴力団の取材では大変なこともあったようで。
- 安藤
- 神戸で山口組の組長代行のコメントを取ろうと本部前で待ち構えていたんです。でも、取材対象の顔も存じ上げてなくて、名前を呼べば振り向いてくれると考えていました。いざ組長代行の乗った車が止まり、マイクを持って大きな声で呼びかけた瞬間、ふっと意識が途切れました。周りにいた若い衆に殴られたらしく、気がついたらガレージ前に倒れ込んでいたんです。真っ白なコートは埃だらけ、履いていたパンプスも片方どこかへ飛んでいました。別の組員が起こしてくれて、「姉ちゃん、こんなとこで命を落としたらいかん」と。「ここでも姉ちゃんか」と思ったと同時に、どこかで「暴力団でも女の私にまさか手荒なことはしないだろう」と「女であること」に甘えていたことに気づいたんです。あれは本当に内省を促す出来事でした。
撮影/山口規子、安藤さん:ヘアメイク/水落万里子、古舘さん:ヘアメイク/林達朗、スタイリスト/髙見佳明
衣装(金額は税込):ジャケット¥462,000(イザイア/イザイア ナポリ 東京ミッドタウン)、その他すべてスタイリスト私物。
協力/PARK6 powered by bondolfi boncaffe