- 元山
- あのとき、私は「県民投票の会」代表として、投票実施に向けて署名集めなどを行なったのですが、玉城知事は私たちの活動をどう見ておられたのでしょうか。
- 玉城
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1996年に日米地位協定の見直しと米軍基地の整理・縮小について賛否を問う県民投票が行なわれたとき、その実施を呼びかけたのは労働組合や基地反対のグループなど、既存の団体や政党が中心でした。ところが19年のときは、元山さんをはじめとする学生の方たちなど若い世代が一有権者として動いていた。話を聞いて「すごいな」と非常に感銘を受けたのを覚えています。
当初は「県民投票をやっても意味がないのでは?」という声もありましたが、次第にうねりが広がって、県内41市町村すべての有権者が参加しての投票が実現しました(投票率52.48%)。そして新基地建設のための埋め立てについて、投票者総数60万5385人のうち71.7%、43万4273人が「反対」票を投じた。これは非常に価値のあるものですし、今でも私の気持ちの中ではまったく色あせていません。沖縄県民は二度にわたって県民投票を実施し、はっきりと「ノー」の意思を示した。その事実は絶対に変えられるものではありません。
- 元山
- 政府はその結果を受け入れず工事は止まりませんでしたが、それでも玉城知事がぶれずに「反対」を訴え続ける、そして国との対話を求め続ける「軸」はどこにあるのでしょうか。
- 玉城
- 今回の代執行は明らかにおかしい。であるなら「おかしいよね、このままでいいの?」と言い続けなくてはならないし、その「おかしいこと」を正して正義を実現するための手段は、誠意を持った対話しかあり得ないと考えています。
- 元山
- これまでの経緯からすると、政府との対話はそう簡単に進まないのではないかという不安は正直あります。
- 玉城
- 先ほど、政府が「辺野古が唯一の選択肢」と主張するのは「沖縄県外の反発」が原因との話がありました。つまり「政治的な判断」で辺野古が選ばれたわけですが、政治的判断とは常に覆るものでもあります。
- 元山
- 具体的にはどういうことでしょうか。
- 玉城
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辺野古の新基地建設計画についても、当初示されていたのは海を埋め立てるのではなく海上に浮かべる「フロート案」であり、当時の沖縄県知事と名護市長によって「軍民共用」「使用期限15年」という条件が付されたうえで閣議決定されました。それが紆余曲折の末に覆され、現行の条件なしの「V字型案」が決定されてしまったわけです(コラム参照)。
このように、政治決定、政治的判断がどこかの時点で覆されることは往々にしてある。であれば、「これ以上、沖縄に基地を造ってほしくない」という県民の声を伝えていくことは、「辺野古新基地建設反対」を訴えて当選した知事としての責任だと思っています。
何度も変更された新基地建設計画
普天間飛行場の代替施設案として最初に沖縄県に提示されたのは、辺野古の海を埋め立てず海上に基地を浮かべる「海上ヘリポート案」。大田昌秀沖縄県知事(当時)はこれに反対するが、98年の選挙でそれぞれ当選した稲嶺恵一県知事、岸本建男名護市長は「軍民共用基地に」「使用期限を15年に」などの条件付き案で受け入れを表明。99年、国はこれらの条件を踏まえて「普天間飛行場の移設に係る政府方針」を閣議決定する。
その後、2002年には辺野古の沖合を埋め立てる「辺野古沖案」が正式決定されるが、使用期限などについての定めは設けられなかった。さらに、05年9月には辺野古にある米海兵隊基地キャンプ・シュワブの沿岸部を埋め立てる案が決定されるが、06年に当選した島袋吉和名護市長は、飛行ルートが住宅地上空にかからないよう2本の滑走路をV字型配置する案で受け入れを表明。同年5月、日米安全保障協議員会(2プラス2)で最終合意。これが現行の計画案である。