「通販生活」で連載中の「こんなことを言っても、得することはないんですけども・・・」。気鋭の小説家、中村文則さんが誰に忖度することなく書き記していく時事エッセイです。
第3回
初出:「通販生活」2025年5・6月号
リベラルな考えを、「説教」や「押しつけ」ではなく、人々に寄り添いながら発言していく必要があるのでは、と思う。
僕は小説家なので、今回は、ちょっと文学にからめて(社会について)書いてみたい。
ドストエフスキーという、十九世紀のロシアの作家がいる。大文豪だけど、ルーレット狂で多額の借金をつくり、ズボンやスプーンまで質に入れたような人だった(でも作品は素晴らしい)。
彼はよく「民衆に立ち帰れ」と書いていた。その正確な意味がよくつかめなかったし、今でも完全に理解したとは言えないが、最近また作品を読み返し、感じるものがあった。
いわゆる人権や多様性、格差是正などを重んじる立場をリベラルと呼ぶなら、今、その立場は苦しい。
ドイツの映画監督が「我々欧州のリベラルは急ぎ過ぎた。人々に価値観を押しつけるようにしたことで反発を生み、逆に極右勢力が台頭してしまった」と言っていた。これは本当に難しい問題で、厳し過ぎるリベラリズムは、逆に反感を買ってしまうことがある。リベラルを「正義を振りかざす面倒くさい人」と感じる人も多い。昨年「驚きの」結果が出た東京都知事選、兵庫県知事選、米大統領選で、いずれも敗北したのはリベラルな女性候補だった(編集部注:原稿初出は「通販生活」2025年5・6月号)。様々な理由があるけども、その一つに、社会の保守化もあったろう。
人々の生活の中にいたイエスの姿に、
主人公は感動したのではないだろうか。
で、ここでドストエフスキーの話に戻るけど、彼の思想信条について、その前に一つ書いておかないといけない。
彼の思想は、保守・右派だったと言われる。でもややこしいのは、本当かわからないこと。彼は二十代の時、極左の革命運動に関わり逮捕され、死刑判決を受け(恩赦で)流刑に減刑されている。
刑期を終え作家活動を再開した後も、言論はチェックされ、手紙まで全て開封されていた。なので皇帝を賛美したり、ロシアの戦争を肯定したり、右派の振りをしていたのでは、とも言われている(あと、彼は自分の若い二番目の妻に大変いやらしい手紙を送っていたが、これも当局の手紙開封を見越し「自分は馬鹿なので危険じゃないっすよ」と思わせるカモフラージュだったのでは、とする研究もあるけど、多分これは、本当にいやらしい気持ちで書いてたと思う)。
でも彼の思想で確かなのは、前述通り「民衆に立ち帰れ」だったこと。何度目かの再読で、彼の小説『カラマーゾフの兄弟』のある描写が気になった。
大長編なのでストーリーは省く。この小説の中で、主人公の見習い僧が、絶望に打ちひしがれる出来事が起こる。そして復活するのだが、その復活をさらに後押ししたのが、聖書のシーンだった。でもそれは、深遠な宗教思想や、難しい説教の箇所ではない。イエスが貧しい人達の結婚式で、彼らの水を、葡萄酒に変えてあげる場面だった。
若い頃に読んだ時は、なぜこのシーンが主人公の立ち直りになるのかわからなかった。でも今なら、何となくわかるように思う。
キリスト教の、時に厳しい教えも重要だけど、このような、人々の生活の中にいたイエスの姿に、主人公の見習い僧は感動したのではないだろうか。イエスは水を葡萄酒に変えるために、この世界に来たわけではない。目的は違うけど、でも貧しい人達のために、ちょっとしたサービスをした。この人々に寄り添う姿に改めて触れ、主人公の中に思想のようなものが芽生える。その思想の内容は『カラマーゾフの兄弟』の続編で展開されるはずだったが、作者の死で叶わなかった。
人々の生活と、共にある思想。ではそれを、「リベラル」に置き換えたら。人々と共にあるリベラルとは、何だろう? 僕はよく自問するようになった。
争いや排除に扇動するのはたやすいが、
融和や平等に向かうのは難しい。
そもそも生物は保守的にできていると、様々な生物学者は言う。人も社会的動物だから、生物的情念から逃れるのは難しく、たとえば人を、争いや強者崇拝、集団内排除に扇動するのはたやすい。
その反面、他集団との融和や平等、平和の方向へ向かうのは、難しい。平和に関しては、特に戦争が始まった後、止めるのが難しい。
社会が過度に保守化・右傾化すると、戦争へ向かうのは既に歴史が証明している。人は常に、今も戦争を繰り返している。
格差社会が経済を停滞させるとも、わかっている。日本経済が最も強かったのは、中間層が分厚かった頃。ここが緩く解体され、平等寄りから徐々に両極へ向かったことで、経済はこの有様になっている。逆に格差是正は全体を押し上げ、景気が活性化される。
だから、リベラルな考えが人々を幸福にする可能性は高いけど、でもマスコミや論客が分断と怒りと恐怖を煽れば、人々は争いへ向かう。
富裕層のお蔭で日本が成り立っている、という強者からの虚偽の刷り込みもあり、格差社会も止まらない。
つまり、伝え方が、かなり重要になってくる。リベラルな考えを「説教」や「押しつけ」ではなく、人々に寄り添いながら発言していく必要があるのでは、と思う。
リベラルを嫌う人の考えも考慮し、「優しさ」と「丁寧さ」を意識し、人々を、少しずつリベラルな考えに誘うような伝え方が、いいのではないだろうか(議員の人達も、リベラルな候補者は、そこを意識してくれたらいいな、と思う。リベラルな政治家は優等生風で真面目過ぎるので、もっとユーモアもあった方がいい)。
なんでリベラルばっかりそんな気を遣わないといけないんだ! との意見が聞こえてきそうで、それはそうなんだけど、でも元々社会は保守的にできているから、仕方ないというか、しょうがないというか……。
と、いうようなことを、最近思っている。関係ないけども、少し前に食あたりを起こし、ようやく回復してこれを書いている。皆さんも気をつけてください。