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避難中、失われていく命を前に、
ただ黙って見ていることしか
できずにいました。

白根麻衣子
(国境なき医師団海外派遣スタッフ)

しらね・まいこ/銀行やインターナショナルスクール勤務を経て、2016年に国境なき医師団日本事務局の人事・総務担当として入職。17年からウクライナ、アフガニスタンなどの海外プロジェクトで活動する。

2023年5月から、国境なき医師団(以下、MSF)の非医療スタッフとしてガザ地区に派遣されていました。主な役割は人事マネージャー。
MSFが支援するガザの6つの医療施設で、現地スタッフの採用や研修、支援先への人材配置などを担っていました。ガザ地区にいる外国人スタッフは20人ほど。私たちは約300人の現地スタッフと一緒に活動していました。

ガザの国境なき医師団オフィス。2019年、最初のガザ派遣時に撮影。
ガザの国境なき医師団オフィス。
2019年、最初のガザ派遣時に撮影。

私は18年から19年にかけてもガザに派遣されていたのですが、その時に比べてかなり町が賑やかになったのが、今回の派遣で印象的でした。オシャレなお店が増えていたし、韓国製の新しい車がたくさん走っていたんです。

ガザの人たちが夕方や休日に海辺のカフェでくつろいだり、バーベキューを楽しんだりしている姿もよく見かけました。もちろん、イスラエルによって人や物資の出入りが厳しく制限され、失業率が45%を超えるなど経済的には苦しいままでしたが、その中でも人々は毎日のささやかな暮しを楽しもうとしていたのです。

それを打ち砕いたのが、10月7日に始まった軍事衝突でした。

空爆中は地下室にいても
爆発音がしょっちゅう聞こえ、
衝撃で建物が揺れるのです。

私たちの宿舎は北部のガザ市にあったのですが、朝6時半ごろ、ミサイルの発射音と爆発音が聞こえました。窓の外を見ると何本ものミサイルが打ち上げられていて、前回の滞在時に経験した空爆よりも規模がはるかに大きい。「これはただごとではない」と感じ、同僚たちと急いで地下室に降りました。ここから、26日間に及ぶ避難生活が始まったのです。

エルサレムにいるMSFスタッフの指示を受けながら、地下室で数日を過ごしました。地下にいても爆発音はしょっちゅう聞こえ、衝撃で建物が揺れるのです。窓がないので何が起きているかはわからないのですが、空爆が収まった時に外に出ると、建物の窓ガラスが全部割れ、20メートルほどしか離れていないビルが倒壊していました。

10月13日以降、南部への避難中に懐中電灯の下で夜の打合せ(右が白根さん)。
10月13日以降、
南部への避難中に懐中電灯の下で
夜の打合せ(右が白根さん)。
車で南部へと避難する国境なき医師団のスタッフたち。
車で南部へと避難する
国境なき医師団のスタッフたち。

10月13日にイスラエル政府から「ガザ北部の住民は全員南部に退避しろ」という通告が出たのを受けて、ガザ南部へと移動することになりました。MSFスタッフ25人で3台の車に乗り込んだのですが、そんなに長い避難生活になると思っていなかったので、水や食料はそれほど積みませんでした。

南部に着き、体育館のような避難所に入りましたが、どこも逃げてきた人たちであふれ返っていました。何度か移動を重ね、最終的には国連施設の駐車場での野宿生活になりました。

夜は15度くらい。一方、昼間は30度を超える暑さなので、廃材を利用して日よけを作りしのぎました。水や食べ物も限られており、ぎりぎり必要な栄養を計算しながら、毎日ツナや豆の缶詰、卵を食べていました。とにかく自分たちが病気にならないよう気をつけていましたが、ずっと同じものを食べ続けるのがつらかった。日本に帰ってきた今もゆで卵は見たくないほどです。

湿度が高く、日中は30℃を超える中、屋外で過ごすため廃材で日よけをつくる。
湿度が高く、日中は30℃を超える中、
屋外で過ごすため廃材で日よけをつくる。

長期停戦が結ばれたとしても、
ガザの街が元に戻るには
これまで以上の支援が必要。

南部でも、空爆は昼夜の区別なく続いていました。中でも命の危機を感じたのは10月末、一時通信が遮断されて携帯電話が使えなくなった時でした。エルサレムのMSF事務所や家族とも連絡が取れず、誰かが怪我をしたとしても知らせられない。水も食料もどんどんなくなっていくし、「私たちはここで誰にも知られないまま死んでいくのかな」と思いました。これまでの活動の中で、そんなことを感じたのは初めてでした。

MSFを知っている避難民に「怪我を診てほしい」と言われても、痛み止めやガーゼすらない状況ですから、何の治療もできません。私たちは人道支援のためにここに来ているのに、何もできない。破壊されていく街、傷ついて失われていく命を目の前にしながら、ただ黙って見ていることしかできないもどかしさにも苦しみました。

野宿生活が2週間以上続いた後、11月1日の早朝に「ラファの検問所が開く」という情報が入り、車で向かいました。対象は外国人のみとされていたものの、検問所の前は何百人もの人だかり。現地スタッフは、自分は出られないと知りながら、私たちの動線を確保して現地の警察と交渉してくれたんです。おかげで検問に14時間かかったものの、私たち外国人スタッフはガザ地区から出ることができました。

約2週間、屋外で寝泊まりした場所。避難した人が多く、トイレの衛生状態は非常に悪かった。
約2週間、屋外で寝泊まりした場所。
避難した人が多く、
トイレの衛生状態は非常に悪かった。

現地スタッフは喜んでくれたけれど、彼らを残していくのは本当につらかったし、後ろめたさもありました。だからこそ、私は自分が体験したことや、「戦争は愚かで間違っている」という思いを、多くの人に伝えていきたい。今この瞬間にもガザでは人々が命を落とし、苦しんでいるのです。

この戦闘が終わったら、またガザに戻って働きたいと思っています。長期停戦が結ばれたとしても、すでにガザの街は壊滅状態で、元に戻るにもきっと何十年かかる。これまで以上に支援が必要になるはずです。現地でやり残したこともたくさんあるし、状況が落ち着いたら絶対に戻って、ガザの人たちのために働きたいです。

写真提供/国境なき医師団(クレジットないものすべて)