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痛ましい症例が
あまりに多すぎて、
医療の限界を感じる毎日でした。

中嶋優子
(国境なき医師団日本・会長/救急医・麻酔医)

なかじま・ゆうこ/日本の病院勤務を経てUSMLE(米国医師国家試験)合格。米国救急専門医を取得。2010年からシリアなど7ヵ国・地域で8回の医療・人道援助活動を経験。22年3月から現職。

MSFから「ガザに行ける麻酔科医を募集している」というメールがきたのは、10月13日でした。私はMSFのような活動に参加したくて医師になったこともあり、すぐに「行きます」と。ほとんど直感での決断でした。勤務先である米・アトランタの病院の同僚たちも、勤務を快く代わって送り出してくれました。

当初はすぐにでもガザ入りする予定でしたが許可がなかなか下りず、最終的にエジプトとの境界にあるラファ検問所からガザ地区に入れたのは11月14日。着いたその夜から、「ブーン」というイスラエル軍のドローンの音が耳についたのを覚えています。

11月24日、南部ナセル病院。中嶋さんが持ち込んだ携帯型エコーで検査を行なう。
11月24日、南部ナセル病院。
中嶋さんが持ち込んだ携帯型エコーで検査を行なう。

医療や生活の状況もまったくわからないまま、南部・ハンユニスにあるナセル病院で活動を始めました。医療物資も電力も不足する中、なんとか治療を続けていた現地のスタッフたちは、私たちが運び込んだ物資を見て「これでもう少し治療ができる」と喜んでくれました。私も、麻酔医・救急医として働きつつ物資の運搬を手伝ったり、多くの患者さんを診られるようにできることは何でもやりました。

それでも、激しい空爆のあとは負傷したばかりの患者さんが10人、20人と運び込まれ、それが1日に3回も4回も繰り返されます。衛生状態もよくないし、場所も薬も何もかもが足りない。救急医療でなんとか命をつなぐことができても、その後の治療が継続できない。最大限の力を尽くしても、患者の人生を考えるとすべてが不十分だと、治療のたびに痛感しました。

11月24日、休戦の初日にナセル病院に届いた支援物資。
11月24日、休戦の初日に
ナセル病院に届いた支援物資。

自分以外の家族が全員
亡くなってしまった子どもが
たくさんいたのです。

11月24日に戦闘が一時休止になると空爆やドローンの音がぱたっと止んで、久しぶりに朝から子どもたちの笑い声が聞こえました。でも、新たに受傷して運び込まれる患者さんは減ったものの、今度は北部の病院から治療を中断された患者さんが何人も、複数回にわたり搬送されてきました。

12月1日に戦闘が再開。滞在中、空爆の音はしょっちゅう聞こえていましたが、再開初日の夜は特に激しく、止まることなく続いていました。「じたばたしてもしょうがない」と覚悟を決めてはいましたが、あとで日記を見たら「死ぬかもしれない」と書いていた日がこの日を含めて2回ありました。

11月25日、休戦期間中に避難生活を送る子どもたちと。
11月25日、休戦期間中に
避難生活を送る子どもたちと。

病院まで来られる人はごく一部で、その陰では本当に多くの人が亡くなっています。それを象徴するように、ガザでは「WCNSF(Wounded Child No Surviving Family=家族が誰も生き残っていない負傷した子ども)」という言葉が使われていました。これは、MSFが活動するほかの場所でもめったにない状況だと思います。

ある10歳の女の子は、全身にひどい外傷とやけどを負い、運び込まれたときには呼吸もままならなくて瀕死の状態でした。なんとか気道を確保してICUに入院してもらったのですが、数日経っても容態は改善しません。骨が粉々に砕けた足が壊疽(えそ)してきて、切断しないと細菌感染で死んでしまう。手術をしたかったのですが、その同意を得るべき家族が全員亡くなっていたのです。結局、オペ室も空かず手術ができないまま数日後に彼女は亡くなってしまいました。

こうした痛ましい症例があまりに多すぎて、医療の限界を感じる毎日でした。ナセル病院では10 月7日以降、5166人の負傷者、1468人の到着時死亡の患者さんを受け入れましたが、死者の7割が女性と子どもでした。私自身も活動中に100人ほどの患者さんを看取ったと思います。

11月30日、停電中はスタッフ全員がスマホのライトを照らし手術を継続した。
11月30日、停電中はスタッフ全員が
スマホのライトを照らし手術を継続した。

何度も言われました。
「日本に帰ったら私たちの
ことを話して、忘れないで」と。

戦闘再開後は、前線がどんどん南下して近づいてくるのを感じるようになりました。私たちは病院の近くで寝泊まりしていたのですが、そこも危険だということで、12月3日に西側の海沿いの家へ移動しました。そこで突然「危険だから明日からは移動できない」となり、病院に行けなくなってしまったんです。まさか病院に戻れないとは思わずに出てきてしまったので、心残りもたくさんありました。

最終的に医療活動を続けることは難しくなり、7日にガザを離れました。一緒に活動していた医師たちと「人道支援のために自分たちは医者になったし、ここで死んでも本望だ」という話をしたこともあったけれど、私たちにはまだ「帰る」という選択肢があります。一方で、現地の人たちにはその選択肢がありません。こんなひどい状況の中でもみんなとても明るいんですけど、それは強いからじゃなく、他に選択肢がなくて耐えるしかないからだと彼らに言われました。

12月7日、エジプトへ向かう帰路。同僚はガザ地区・ラファの様子を見つめる。
12月7日、エジプトへ向かう帰路。
同僚はガザ地区・ラファの様子を見つめる。

私が日本から来たと言うと、ガザの人たちは口をそろえて、「日本のような安全で素敵な国から、よくこんなところまで来てくれた」と喜んでくれました。そして「日本に帰ったら私たちのことを話して、忘れないで」と何度も言われました。だから、1人でも多くの人にガザで起こっていることを伝えて、1日も早い停戦を訴えていきたい。それが今ここで、自分に唯一できることだと思っています。

写真提供/国境なき医師団(クレジットないものすべて)