各界で活躍する方たちに「これがないと困る!」という
「こだわり道具」をご紹介いただきます。
高野秀行さん
ノンフィクション作家
辺境地帯で風変わりな“探検的活動”を行う僕にとって欠かせないのがこの肩掛けカバンです
カリマー VTショルダーR
僕は「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」をポリシーに掲げて、アジアやアフリカ、南米などの辺境地帯に行き、そこで風変わりな“探検的活動”を行ってきました。僕の愛用品としてご紹介したいのは、取材に行くときに欠かせないカバンです。何年も前からカリマーというイギリスのアウトドアブランドの「VTショルダーR」というショルダーバッグ一択です。今年7月に出版した『イラク水滸伝』(文藝春秋)では、準備期間も含めて取材に6年もかかったのですが、現地でも、もちろんこのバッグを使っていました。
まさに「イラク版 水滸伝」、これは行くしかない!と即決。
この本は、イラクのチグリス川とユーフラテス川の合流地点に存在する、謎の巨大湿地帯をめぐる旅をまとめたものです。この湿地帯は「アフワール」と呼ばれ、馬やラクダ、戦車などが侵入できないことから、かつてから迫害されたマイノリティや、権力に抗うアウトロー、犯罪者などが逃げ込むアジール(避難所)となっていました。1990年代までは反フセイン勢力の拠点だったため、フセインはチグリス川とユーフラテス川に堰を築いて湿地帯に流れ込む水を堰き止めてしまいました。そのため、ここで暮す人は他の土地への移動を余儀なくされました。
僕はこの湿地帯の存在は本で読んで知っていたものの、過去の存在だと思い込んでいました。ところが、2017年に「砂漠の国 文明育んだ湿地」という新聞記事を目にします。記事によると、フセイン政権崩壊後に住民が堰を壊して水が再び流れ込むようになり、湿地帯は半分くらい復元されているとのこと。中国四大奇書の一つ、『水滸伝』は、悪徳役人に陥れられたり、暴れん坊すぎて街に住めなくなった豪傑が湿地帯に集まり、山賊的な行為を働いたり、政府軍と闘ったりする物語なのですが、まさにこのイラクの「アフワール」は、まさに「イラク版 水滸伝」。これは行くしかない!と即決しました。
イラク水滸伝
文藝春秋
税込2420円
今回、取材期間が長期にわたってしまったのですが、新型コロナウィルスの感染拡大があっただけではありません。何もかもがカオスすぎて、予想だにしないことの連続だったからです。そもそも、湿地帯に行くこと自体が初めての経験。目的地が集落や山であれば、そこを目指せばいいのですが、湿地帯は川も道も集落もない。しかも、流入する水量によって湿地帯自体の範囲も変わってしまうのですから、想像以上に大変でした。でも、湿地帯のわけのわからなさが、権力に抗うアウトローたちを長年守ってきたということにも気づきました。
僕がどのようにして「アフワール」を目指し、そこでどんな経験や発見をしたかはぜひ『イラク水滸伝』をお読みいただくとして、とにかく自分の無力さを痛感する旅でもありました。旅の相棒として声をかけた、世界中の川を旅してきた探検家にして環境活動家の山田隊長(山田高司さん)をはじめ、現地での協力者なしでは成し得なかったことです。
湿地帯を探検するために、現地で「タラーデ」という舟を作ることにしたのですが、職人たちの舟の作り方はすべてにおいて無頓着。設計図はないし、材料を正確に測ることもない。僕はそれを見て、「行き当たりばったりすぎる!」と思っていたのですが、これこそが「ブリコラージュ」であることに気づきました。フランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースが提唱した概念で、「ありあわせの材料を用いて自分でものを作ること」という意味なのですが、彼らの舟作りも、いい加減そうだったのに、結果的には美しいものに仕上がったんです。
僕は辺境に取材に行く時は、まずは日本在住の現地人を探して、その国の言葉を徹底的に学びますが、それ以外は、小さな手がかりを見つけるべく、行き当たりばったりで現地に向かいます。僕がやっている探検活動も、まさにブリコラージュだったのです。日本だとすぐに「計画性」や「安全性」が重視され、段取りが求められがちですが、それよりも、とりあえずやってみないことには何も始まらないんです。
仕事で使うバッグはA4サイズが入るかどうかが重要なポイント。
今回も、カオス極まりない湿地帯に、まずは行ってみたわけですが、欠かさず身につけていたのが、この「VTショルダーR」。もともと、同じくノンフィクション作家で妻の片野ゆかが使っていたバッグでした。
これを斜めがけにして、カメラや取材に必要なものを入れています。仕事で使う時、A4サイズのプリントが基本ですし、海外取材で必要な関連書類のサイズもだいたいA4サイズなので、これが入るかどうかは重要なポイント。バッグのファスナーは開けっ放しで、一眼レフのカメラをすぐに出し入れできるようにしています。このバッグはポケットが多いのもよくて、重宝しています。イラク取材では、このバッグに長袖シャツも入れていました。夏は暑いのですが、地元の人のお宅を訪問すると、とにかく冷房が強い! そのため、上着は必須でした。
このバッグに出合う前は、ミャンマーで日常的に使われている、斜めがけの「シャンバッグ」を愛用していました。でも、派手な色合いの幾何学模様なので、東南アジアで使う分にはいいのですが、それ以外の地域に行くと悪目立ちするんです。その点、カリマーのバッグは馴染みやすいので大丈夫。
ところで、『イラク水滸伝』の取材は、新型コロナウィルスの影響で2年くらい中断せざるを得ませんでした。探検ものの取材は、「勢いで行って書く!」というところがあったのですが、2年も中断すると勢いは当然なくなるし、調べたこともどんどん忘れていきます。一方で、日本にいる間に、一つひとつを検証したり、頭の中を整理したりすることができました。かつて湿地帯で暮していた「マーシュアラブ」という人たちが作った布も、海外に出られない時に偶然インターネットで見つけ、それが現地取材での大きな手がかりになりました。
誰も行かないところに行って、誰も知らないことを知りたいというのは、僕の欲望。頭の中には、行ってみたいことや気になることがいくつかありますが、次に書くなら、イラクの湿地帯を一緒に旅した山田隊長(山田高司さん)と、チグリス・ユーフラテス川の上流を川下りした時の話にしようと決めています。
取材・構成/𠮷川明子
写真/山本倫子
高野秀行(たかの・ひでゆき)
ノンフィクション作家。1966年、東京都生まれ。ポリシーは「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」。2003年、『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)でデビュー。『ワセダ三畳青春記』(集英社文庫)で酒飲み書店員大賞、『謎の独立王国ソマリランド』(集英社文庫)で講談社ノンフィクション賞等を受賞。他の著書に、『辺境メシ』(文春文庫)、『幻のアフリカ納豆を追え!』(新潮社)、『語学の天才まで1億光年』(集英社インターナショナル)など。