大人たちの戦争で満足に治療を受けられない子どもたちに1口2,000円のカンパを。
「ドイツ国際平和村」は、自国で十分な治療を受けられない子どもたちをドイツに連れてきて治療し、
治ったら母国へ帰す「援助飛行」という活動を50年にわたり続けています。
壁と鉄条網に囲まれたガザ地区では病院の施設も乏しく、重症の子どもたちをきちんと治療することはできません。
写真・文/古居みずえ(ジャーナリスト、映画監督)
ガザ地区へのイスラエル軍の攻撃は14年7月8日から始まり、短い停戦をはさみながら8月26日まで、50日間続きました。空爆だけでなく、地上戦になれば戦車からの砲撃も加わります。子どもたちの被害も大きく、今回のガザ攻撃で亡くなった2,254人のほとんどは民間人で、538人が18歳以下の子どもたちでした。 私がガザ地区に入ったのは7月27日。29日には、イスラム教の断食月明けの祭日「イード・アル・フィトル」が始まりました。これは日本のお正月のような感じで、子どもたちはきれいな服を着て、親族からお小遣いをもらう。街には子どもたちのための仮設の遊技場もつくられます。
ムハンマド・アル・アイラ君(10歳・右頁)は、そのお祭りの最中、キャンディを買うために店に入ったところをイスラエル軍の爆撃にあい、腹部と足にやけどを負いました。ムハンマド君はサウジアラビアに行ったことがあるそうで、私に対し「僕たちが何をしたというの? 僕も安全なところに住んで、安全なところで遊びたい」と訴えました。 私が訪れたシェファ病院はガザ地区で最大の医療機関。同じ爆撃で負傷した別の子どもたちも運ばれており、アハマド・アル・デイーク君(9歳・A)は頭部と背中に破片が入っていました。集中治療室にも負傷した子ども(B)がいて、付近では子ども8人を含む46人が負傷したそうです。
ガザ地区中部のヌセイヤラット難民キャンプに住むアブ・ジャベル一族は、空爆で21人のうち18人が一度に亡くなりました(C)。生き残ったのは4歳の女の子と3歳の男の子。0歳の胎児は後日遺体で発見されました。一家全員が亡くなってしまった家族も珍しくなく、ガザ地区だけで80家族に上るといいます。
普通は亡くなった翌日にお葬式をするのですが、空爆は続いていていつ葬れるかわかりません。死体が見つかるとすぐ白い布にくるみ、親族がそのまま墓地に埋葬するという光景がよく見られました(D)。
今回最も激しい攻撃にあった場所のひとつ、ガザ市内のシュジャイヤ地区は、街の一帯がすべて破壊され、廃墟のようになっていました(E)。救急車が出動すると、その救急車すら標的になってしまいます(F)。けが人は数日間放置され、そのまま死んでしまった人も多くいました。
日本でニュースを見ていると、イスラエルとパレスチナ(=イスラム抵抗運動「ハマス」)という2つの国が対等に戦っているように感じますが、力は大人と赤子くらいの差があります。ハマスにできるのは手製のロケット弾を飛ばしたりゲリラ戦をしかけることくらいで、イスラエル軍が一方的に爆撃をしているのです。 空爆は主に夜間に行なわれます。人びとを眠らせないためです。事前に爆撃予告が出ることもあり、私が宿泊したアパートの近くにも爆弾が落とされました。ひと晩中攻撃の音が鳴り止まず、逆にどんどん激しくなっていく。そして朝方5時頃、ドカーンと大きな音がするとビル全体が揺れ、階下では風圧で窓ガラスが割れていました。結局、その晩は一睡もできませんでした。
イスラエルはハマスが潜んでいるからという理由で、民間人が住む場所へも攻撃をしていました。しかしそれは過剰攻撃と言わざるをえません。特に今回は、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の学校さえも何度も攻撃を受けました。 ガザ市ジャバリア地区にある学校にはたくさんの人たちが避難していましたが、爆撃され22人が死亡しました(G)。ガザ地区の人たちにとって、避難する場所は国連の学校くらいしかありません。ここも攻撃されるということは、安全な場所などどこにもないということです。国連側はイスラエル軍に対し、学校の位置や避難している人がいることを何度も通知しています。それでも攻撃は止みませんでした。
別の学校へ行くと、避難している人たちが惨状をまくし立てます(H)。ひと部屋に100人寝ている。寝具が足りない。お風呂に入れない……。国連も救援物資を運んでいますが数が足りません。街でガレキの中から枕などを探し運んでいる子どもを多く見かけたのは、そのためだったのです(I)。
もうひとつ、今回の攻撃で特徴的だったのは、ガザの経済を支える工場が多く爆破されたことです。ビスケットなどをつくるお菓子工場やシャンプー工場など、ハマスと関係がないような工場がいくつも爆破されました。
また、ガザで唯一の発電所も破壊されてしまい、市民生活は大きな影響を受けました。それまでいいときで1日8時間、悪いと4時間程度だった電気の供給が、4、5日間止まってしまいました。復旧したあとも、1日のうち2〜3時間電気が通るけれど、どの時間帯かはわからないような状況でした。電気がないと井戸水を汲み上げるポンプも止まり、水不足にも悩まされます。家庭用の電気パン焼き器も使えない。病院でも人工透析の機械が止まってしまうなど影響は大きかったといいます。
ガザ地区の大学には医学部がなく医師も不足しています。
ガザ地区には、私が取材したシェファ病院のほかにも赤新月社(赤十字)の病院など130程度の医療機関がありますが、今回の攻撃で約半数の62ヵ所が破壊されました。病院の設備も乏しく、医薬品の不足や電力事情も安定しないため重傷者を根治する治療はできません。これまでも重傷者は初期治療を施したあとイスラエルの病院に運ぶか、エジプトやトルコ、ヨルダンなど隣国で治療していました。今回のように一度に多くの重傷者が出ると、受け入れ人数に限りもあります。
医師も不足しています。ガザ地区にはイスラム大学とエジプト系のアザハル大学などいくつかの大学がありますが、医学部がないんです。医者になるには海外に留学して学ぶしかない。検問所の出入りが緩和されない限り、医師不足が解決することはありません。 ご存知のとおり、ガザ地区は周囲を壁や鉄条網に囲まれていて、出入りも厳しく制限されています。だからドイツで子どもたちが治療を受けられることは、願ってもないことだと思います。
私はこれまで20年以上ガザ地区を取材し、子どもたちの話を聞いてきました。12歳の少女は、イスラエル軍の爆撃も止めてほしいけれど、自分たちが住む場所で何が起こったのかを世界中の人に見てほしい。救援物資よりも知ってもらうことが大切だと私に言いました。しかし日本を含めた国際社会は、ガザ地区の惨状を見過ごしてきました。
イスラエルは、ハマスがガザ地区を支配した07年以降、ガザの住民に対して「集団懲罰」を課すため、燃料や食料、医薬品、建築資材などすべての物資と人の出入りを厳しく制限しています。人権が踏みにじられている状態です。08年末から09年にかけてのイスラエル軍によるガザ攻撃では、子ども300人を含む1400人が死亡しました。国連の調査委員会は600頁もの調査報告書を提出しましたが、民間人の犠牲についてイスラエルの責任を追求しませんでした。
パレスチナ国家が誕生することをイスラエルは恐れています。でも、それが達成されない限り、パレスチナの抵抗運動が終わることもありません。歴史的経緯も含め簡単に解決する話ではありませんが、話し合いで互いに認め合う関係をなんとかつくってほしい。 最初に紹介した少年も言っていましたが、平和な場所に住みたい、ふつうに勉強し遊びたいというのが、ガザ地区に住む子どもたちの正直な気持ちだと思います。でもそれができない状況が、いまもずっと続いているのです。
ガザ地区とは?
イスラエル中西部、地中海に面した東西約10キロ、南北約30キロのパレスチナ自治区。東京23区の約6割の面積(約360km²)に約170万人が住む。そのうち約100万人が難民キャンプに暮している。隔離フェンスが設置されており、外部に出るには地区内にある2ヵ所の検問所を通らなければならない。現在、行政権はパレスチナにあるが、領空・領海はイスラエルが実効支配している。
ふるい・みずえ
1988年よりイスラエル占領地を訪れ、パレスチナ人による抵抗運動を取材。女性や子どもたちに焦点をあて取材活動を続ける。映画作品に『ガーダ
パレスチナの詩』『ぼくたちは見た
ガザ・サムニ家の子どもたち』。
ドイツ平和村にガザの子どもたちがやってきた。
14年9月10日、ガザからエジプトのカイロを経由して、42人の子どもたちがチャーター機でドイツのデュッセルドルフ国際空港に到着しました。
空港から直接病院へ搬送された子どもは20人、平和村の施設にがは22人がやってきました。
取材・文/倉垣千秋(本誌特派員、元カタログハウス社員)
ガザから来た子どもたちは平和村でどんなふうに過ごしているのだろう。昨年10月31日に平和村を訪ねました。
中庭で子どもたちが遊んでいます。でも、いつもとすこし様子が違う。平和村でボランティアをしている日本人スタッフに聞くと、「ガザの子ははじめて来た子ばかり。言葉が通じず不安が大きいようですね」との答え。アフガニスタンやアンゴラのように、同じ国の“先輩”がいないこと。そしてアラビア語が通じないので、どうしてもガザの子どもたちでかたまってしまうようです。
リハビリ室をのぞくと、ナサララ君(13歳・K)がリハビリ中でした。右ひじの下には大きな傷痕があり、お腹にも20センチ以上ある手術痕が。診察した矢倉幸久医師に話を聞きます。
「右前腕は弾丸で肉がえぐられ粉砕骨折もしていました。現地の病院で手術を受け、骨はワイヤーで固定されています。お腹は広範囲の開腹手術を受けており、大きな内臓の損傷があったようです。外からはわかりませんが、左頬の骨も骨折しています。口の中から手術をして、プレートで骨を固定してありました。平和村では右手のリハビリを行なっていきます」
ドイツの病院で検査したところ、頬の骨のプレートは約2ヵ月後に取り除けそうです。顔には爆弾の破片も残っており、プレート除去手術の時に同時に取り除く予定だということです。
ナサララ君は少し英語がわかり、爆撃を受けた時の様子を話してくれました。「8月頃、外で友だちと遊んでいたら2回続けて爆撃があり、一緒にいた14人はみんな死んでしまい、僕1人だけ助かった」。涙も見せず話してくれましたが、どんなに怖く悲しい思いをしたのか、身体だけでなく心にも大きな傷を負ったのだと思います。
言葉は通じなくても、子どもたちは助け合いながら生活していく。
ヴァゼーム君(15歳・L)も爆撃により両脚を骨折、現地で手術を受け、右のすねにフィクサトゥア(創外固定器)を装着しています。渡独後は病院へ搬送されましたが、感染などは起きていなかったため退院しました。「右下腿は皮膚も損傷して骨が見える状態だったのでしょう。開放骨折といい、感染して骨髄炎を起こしやすいのですが、現地ですぐに適切な処置を受けられ幸いでした」(矢倉医師)
足を動かしていないと血流が悪くなるため、診察のあとはリハビリです。手順が載っている写真を見ながら自分でさまざまな運動をしますが、途中でわからないところが。すると、隣でリハビリをしていたアンゴラ出身のジョエルくん(11歳)が自らやってみせ、やり方を教えてあげていました。言葉は通じなくても、平和村の子どもたちはみんなが助け合いながら生活しているのです。
11月5日には、レバークーゼンの病院を退院するアヤちゃん(8歳・M)を迎えに行きました。担当医のデッキング先生が病状を説明してくれます。 「右足指を切断していますね。4年ほど前の負傷で下肢の骨が成長せず右足が約4センチ短くなったのでしょう。足首の関節も曲がったままです。左足にも傷が多く、皮膚移植のあとも見られました。両足の傷からみると爆撃の被害を受けたものと思われます」
3日後、平和村の庭ではアヤちゃんが女の子の輪に入り一生懸命絵を描いていました。まだドイツ語も話せませんが、ジェスチャーでコミュニケーションをとっているようです。
ドイツへ来た42人の子どもたちのうち、11月8日現在で16人が帰国しています。アフガニスタンなどに比べると初期治療ができている分、ドイツでの治療が短期間ですむ子どもが多いのです。「子どもたちをできる限り早く母国に返す」ことは、平和村の大切な使命です。あとはガザ地区に平和が訪れることを願うばかりです。
ガザにはドイツ平和村へ行くのを待っている子どもたちがまだ150人います。
トーマス・ヤコブスさん(「ドイツ国際平和村」代表)
昨年の夏、パレスチナ人の医師や薬剤師が組織しているベルリンのNGO団体からガザの子どもを支援してほしいと要請がありました。イスラエルとの紛争により多くの子どもたちが傷つき、現地の病院の多くは爆撃で破壊され、機能していないと言うのです。ガザ地区に近いトルコやヨルダンでも子どもを受け入れていますが、これ以上は困難であることがわかり平和村が支援をすることに決めました。
本来なら平和村のスタッフが子どもの親と面談し、現地の医師と共にドイツへ連れて行く子どもを決めるのですが、ガザ周辺の治安が悪く近づくこともできません。NGO団体から子どもの情報を得て、ドイツへ行く47人を決めました。
しかし、ガザを出ることなく1人の女の子が亡くなり、長距離移動に耐えられないと判断され、現地へ残った子どもも3人います。飛行機をチャーターしたカイロに入ったあとにも1人が亡くなり、ドイツへ向かう飛行機に乗りこんだのは42人となりました。
NGO団体からは、新たに150人の受け入れを要請されています。緊急性の高い子どもは少ないのですが、早期の治療が必要であることに変わりはありません。今後もガザ支援は継続していく予定ですが、ガザ近辺の治安状況もあり、現時点で次回の援助飛行はまだ決まっていません。
今回のガザ支援では、飛行機のチャーター代など費用が約1800万円かかりました。もちろん今年度の当初予算には含まれていませんが、必要性があることには早急な対応が必要です。今回はなんとか賄えましたが、今後の支援が平和村の財政をひっ迫することは目に見えています。
平和村は日本からの支援なくして活動が成り立たないと言っていいでしょう。温かいご支援、心から感謝しています。毎年寄付をお願いすることは心苦しいのですが、1人でも多くの傷ついた子どもたちを救うため、これからもご支援をよろしくお願いいたします。