大人たちの戦争で満足に治療を受けられない子どもたちに1口2,000円のカンパを。
「ドイツ国際平和村」は、自国で十分な治療を受けられない子どもたちをドイツに連れてきて治療し、
治ったら母国へ帰す「援助飛行」という活動を50年にわたり続けています。

現在、アフガニスタンの自爆テロや戦闘による子どもの死傷者数は、過去最悪の状態になっています。
乗京真知(のりきょうまさとも)さん
「退避勧告」が出され入国が困難な中、隣国・パキスタンを拠点に現地の取材を続ける乗京真知さんに、アフガニスタンの実情をレポートしていただきました。
すり鉢状にえぐれた道路には、遺体や車の残骸が転がり、周囲の壁や街路樹はなぎ倒されていた――。アフガニスタンの首都カブールに爆音が響いたのは、2017年5月11日午前8時半(日本時間午後1時)ごろ。 所用でカブール出張を取りやめていた私は、朝日新聞の現地助手が電話で伝えてくる惨状を聞きながら、背筋に悪寒が走るのを感じました。 爆発があったのは、各国大使館やアフガン政府機関が集まる首都の「心臓部」。監視カメラの映像の解析などから、この地区の南部にあるドイツ大使館に接近した大型トラックが、大使館脇の検問所で進行を止められた次の瞬間、 自爆したことが判明しました。 大型トラックには汚物運搬用の巨大なタンクが載っていましたが、中に入っていたのは汚物ではなく、約1.5トンに上る爆発物だったということです。地区は市内でも警備が厳しい一角ですが、汚物運搬を装う手口は治安当局の盲点を突いたものでした。 各大使館は高さ約3メートルのコンクリート塀や土のうで敷地を囲み、二重三重の防護策を講じてきました。それでも、じかに衝撃を受けたドイツ大使館では建物が大きな被害を受け、アフガン人警備員が死亡、ドイツ人職員も数人負傷しました。 隣の日本大使館では窓ガラスが割れ、日本人職員ら2人が軽いけがを負いました。 朝の通勤時間と重なったことから市民の被害も拡大し、アフガン政府によると、爆発の死者は子どもや女性を含む150人以上、負傷者は400人以上に上り、首都を狙った過去最悪のテロとなりました。
そういう子どもにまず必要なのは、家以外の居場所をもつことです。
居場所があれば、自分の気持ちを吐き出せたり、辛い思いをしているのが自分だけではないことに気づいたりします。また、周りの大人たちが子どものSOSを受け止めたり、気づいたりすることで、必要な支援につながりやすくなります。
大事なのは、ともかくここに来てもらうこと。そのためには、勉強をすべきだ、カリキュラムはこれだと押しつけるのではなく、本人がやりたいことをやってもらうことを大切にしています。
各国の大使館や援助機関の活動は制限を強いられている。
市内の公立病院や診療所は負傷者やその家族であふれかえりました。医師の1人は「昨日から108人を診たが、残念ながら7人は治療前に息絶えていた」と悔しがり、「いま20人が危篤状態にある。どうにか助けたい」と語りました。 爆発から約5ヵ月がたった10月時点でも、現場周辺にはねじ曲がった鉄骨やがれきが残っています。付近は重要施設が集中しており、路上で自爆テロが起こったり、ロケット弾が撃ち込まれたりと緊張状態は変わっていません。 各国の大使館や援助機関は職員を減らし、移動も極力制限するなど、制約の厳しい活動を強いられています。 警備が厳しいはずの首都で、なぜテロが続くのでしょうか。 背景には、反政府勢力タリバーンや過激派組織「イスラム国」(IS)の浸透を防ぎきれないアフガン情勢の課題が横たわっています。 アフガンでは2001年、米軍主導の空爆でイスラム勢力のタリバーンが政権を追われました。米同時多発テロを首謀した国際テロ組織「アルカイダ」のビンラディン容疑者をかくまっているというのが空爆の理由でした。 ところがタリバーンはその後も武装勢力として戦闘を続け、05年ごろからは自爆テロを戦術に採り入れて息を吹き返します。14年末に国際治安支援部隊の大半が撤退した後は、 力の空白を突いて勢いを増し、今では本拠のアフガン南部だけでなく全34州のうち20州以上に戦線を広げています。 また15年5月ごろからは、ISの支部がアフガン東部を拠点として活動を始めました。タリバーンに比べて活動域は狭く、戦闘員も千人以下といわれていますが、都市部を中心にテロを仕掛けています。 国連アフガン支援ミッション(UNAMA)によると、自爆テロや戦闘による16年中の民間人死傷者は1万1418人で、記録が残る09年以降で最多となりました。17歳以下の子どもに限ってみると、死者は923人、負傷者は2589人に上り、前年から24%増えています。

米軍が病院を「誤爆」し、地域医療体制を破壊する。
アフガンは歳入の約7割を世界からの援助に頼っていますが、各国が中東・アフリカ地域での過激派対策に資金を振り向けるなか、アフガンへの援助総額は最大でも年38億ドル(約4300億円)程度。ピークだった2011年の約6割に減っています。
なかでも民生分野の対応が後手に回っています。国家予算の多くが治安維持(61%)に費やされる一方、教育(13%)や医療福祉(1%)にあてる資金が不足しています。
世界銀行の報告によると、アフガン全土にある医療施設は約2400ヵ所。タリバーン政権崩壊直後の02年に比べて5倍近くに増えてはいるものの、幼児の栄養失調率は依然として約4割に上っています。
医師や病床は十分ではありません。テロが多いカブールでは、事件が起こるたびに市内の病院や診療所に患者が殺到。被害が大きい場合には病室に入りきらない患者が庭や路上で治療を受けることもあります。
さらに恐ろしいのは、アフガンでは医療機関も攻撃の対象になっていることです。例えば、北部クンドゥズでは15年10月、米軍が国際NGO「国境なき医師団」(MSF)の病院を空爆し、患者や医師ら42人が犠牲になりました。 クンドゥズでは数日前からタリバーンの激しい攻勢が続いていて、米軍はタリバーンを押し返すために空爆を始め、その過程で病院を「誤爆」したと釈明しました。
空爆時、着弾地点から約15メートルの位置にいた医師のマスード・ナシームさん(37歳)は「真夜中に心臓を破るような大きな衝撃に続いて、爆弾が雨のように降り注いだ。私は部屋にうずくまって難を逃れたが、別の部屋からは悲鳴が聞こえてきた」と振り返りました。 病院には医師や看護師ら約100人と患者106人、看病に訪れた家族たちがいて、爆発のたびに崩れる壁に身をもたせながら携帯電話で家族に別れのメッセージを送ったそうです。
病院は同国北部に残る数少ない先進医療機関でしたので、空爆は病院だけでなく地域医療体制にも致命的な被害をもたらしました。
国連人道問題調整事務所(OCHA)によると、アフガンで17年1~10月、医療施設や活動が巻き込まれた事件は305件あり、医療従事者17人が死亡、43人が誘拐されました。16年12月以降に職員ら7人が死亡し、3人が誘拐されるなど事件が相次いだ赤十字国際委員会(ICRC)は、アフガン国内の複数の事務所閉鎖を決めました。
30年以上にわたってアフガンを支え、年13万人を超える患者を支援した同委員会の活動縮小は、治安の混迷ぶりとそれに伴う国際援助機関やNGOの撤退の流れを象徴する現象として、医療関係者に衝撃を持って受け止められました。
それでも首都カブールには、国の将来を思って医師や教員を目指す学生たちが集まっています。
女子学生のソーリア・アズィズィさん(20歳・上写真)は16年8月、授業中にタリバーンの襲撃を受けました。襲撃犯の足音と銃撃音が間近に迫り、逃げるために校舎2階から飛び降りて背中の骨を折りましたが、海外に留学する夢をかなえるため、 リハビリを続けて自力で通学できるまでに回復しました。
ソーリアさんは「どうかアフガンを忘れないで。タリバーン時代に逆戻りさせないで」と訴えます。アフガン政府が治安を立て直すことで、国際支援がこれ以上先細らないようにと願っています。
本来なら、17年8月の「援助飛行」で50〜60人の治療を必要としている子どもたちがアフガニスタンから平和村へやってくるはずでした。しかし、5月にカブールで起きた大規模な爆破テロによって、ドイツ大使館が閉鎖されてしまい、 ドイツへ来る子どもたちのビザを発給できなくなってしまいました。1987年から30年間、毎年アフガニスタンへの援助飛行を行なってきましたが、今回のような事態は初めてです。
ドイツで治療が終わった子どもは8月にアフガニスタンへ帰国することができました。帰国便に同行したスタッフによると、ドイツ大使館がテロの被害でビザ発給業務ができないため、今回はドイツへ子どもたちを連れて行けないと伝えていたにもかかわらず、 平和村に行きたいと200人近い子どもと親族がカブールに集まっていたそうです。
現地の病院を紹介するなどの対応をしましたが、カブールでは医療物資も不足しています。早急に治療が必要な20人ほどは、次の援助飛行まで生きていられるのか……本当に心配です。
アフガニスタンの医療事情は危機的状況にあり、今こそ支援が必要なのです。一刻も早く援助飛行を再開しなければなりませんが、ドイツ外務省からは、「当分、ビザの発給業務はできない」と言われています。そこで2月はチャーター便を手配して、 できるだけ多くの援助物資をアフガニスタンに運ぶ予定です。
治療費の一部負担や手術室の建設に、平和村は多くの資金を必要としています。
ドイツ国内では、現在170ヵ所の病院が平和村の子どもたちを受け入れ、無償で治療や手術をしてくれています。健康保険もないため、その治療費は莫大な金額です。協力してくれる病院には本当に感謝しかありません。
しかし、昨年もお伝えしましたが、近年は病院の財政状況も厳しく、14年からは治療費の一部を平和村が負担するケースが増えてきました。17年もすでに約1000万円(8万ユーロ、1ユーロ=120円換算)を支払いましたが、ほぼ同額の未払い分が残っています。 平和村の子どもたちを治療してくださる病院は、一般の病院ではできない難しい治療をしてくれており、本来ならこの2〜3倍の請求額があっても当然なので、いくら感謝してもしきれません。
もう一つ、ここ数年の変化として、一刻を争う緊急性のない手術の場合、1年以上受け入れ先が見つからず、平和村で長期間待機する子どもが増えてきました。今も20人ほどの受け入れ先が見つかりません。そこで、せめてかんたんな手術は医師に来ていただいてできるように、 「平和村手術室」を建設する計画を進めています。
病院への支払いや手術室建設といった大きな目標のためには、より多くの資金が必要となってきます。『通販生活』読者のみなさんからはいつも多くのカンパをいただき、最大級の感謝をしています。引き続きのご支援を、心からお願いいたします。
17年10月、ドイツ平和村にて。
ドイツ平和村の子どもたち
17年はアフガニスタンの子どもが来られなかったため、いま平和村でいちばん多いのは、02年まで約30年にわたり内戦が続いたアンゴラの子どもたちです。
17年6月


骨髄炎で足が変形した
ダーニッシュくん(アフガニスタン・9歳)
骨折した左足が骨髄炎になり、ひどく変形してしまったダーニッシュくん。14年2月の渡独から、すでに3年8ヵ月が経っています。手術やリハビリを重ねていますがまだ固定器具のフィクサトゥアが取れず、歩くには松葉杖が必要です。 目標としていた17年8月の帰国はかないませんでしたが、友だちと仲良くリハビリに励んでいます。

熱帯特有の潰瘍に侵された
ガルシアくん(アンゴラ・7歳)
熱帯地方特有の感染症で、手足に潰瘍が広がるブルーリ潰瘍のガルシアくん。右腕全体が潰瘍に侵され、そのままの状態で放置すれば壊死していたそうです。16年11月にドイツに来てから3回入院し、6回手術を受けました。 肘や手首は硬直して曲がったままですが、皮膚移植した手は驚くほどきれいになりました。

骨折して重度の骨髄炎になった
ペドロくん(アンゴラ・13歳)
16年7月に交通事故で左膝と脚を骨折し、重度の骨髄炎となったペドロくん。11月に渡独してから、骨や皮膚の移植手術を11回も受けました。現在は松葉杖を使って歩けるようになりリハビリに励んでいますが、膝や足首の関節は硬直化。 筋肉も硬くなり、一時はフィクサトゥアに食い込むほど腫れ上がっていました。