大人たちの戦争で満足に治療を受けられない子どもたちに1口2,000円のカンパを。

「ドイツ国際平和村」は、自国で十分な治療を受けられない子どもたちをドイツに連れてきて治療し、
治ったら母国へ帰す「援助飛行」という活動を50年にわたり続けています。

カンパのお申し込み

ドイツ国際平和村ツアーのお申し込み

ドイツ平和村の子どもたちにカンパを

アフガニスタンの現在
「貧困の病」である骨髄炎の子どもたちを救うには、
いまのところ「援助飛行」しかないのです。


写真・文/安井浩美

やすい・ひろみ● 1963年、大阪府生まれ。2001年のアメリカ同時多発テロを機にアフガニスタンに渡る。現在、共同通信社のカブール支局で働きながら、アフガンの女性や難民の子どもたちの支援にも携わる。著書に『私の大好きな国 アフガニスタン』(あかね書房)。


1993年からアフガニスタンの取材を始め、現在は首都のカブールで暮らすジャーナリストの安井浩美さんに、アフガニスタンの現状を伝えていただきます。

 アフガニスタンの首都カブールには、戦闘や干ばつなどの理由で故郷を捨てた人々が、約300万人暮らしています。これは国の総人口(約3000万人)の1割になります。
 2018年5月に政府の専門機関が発表した調査結果によると、アフガニスタンの貧困率は54%。およそ1600万人の人びとは、1世帯あたり1日200円以下の生活を強いられています。失業率は24%で、4人に1人は仕事がありません。アフガン人女性は平均して子どもを5人産み、これは世界的な平均値の約2倍です。その結果、アフガニスタンの人口のおよそ半分が18歳以下の子どもたちです。

 美しい大きな瞳を持ったウメイド(ダリー語で希望の意味)くんは、カブール市内の公園で倒れているところを、麻薬中毒患者のケアをするNGO代表のライラさんに発見されました。
 ウメイドくんは脳性マヒで言葉が話せず、歩くこともできません。本名も年齢もわかりません。推測ですが年齢は12、3歳くらい。左脚のすねには大きな穴があき、骨が飛び出しています。重度の骨髄炎で、皮膚は腐り腐臭を発していました。ちゃんと食事をとっていなかったようで生気がなく、やせ細っているので大きな目がさらに大きく見えます。
 ウメイドという名前は、ライラさんが付けました。いつからウメイドくんが公園にいたのかわかりませんが、歩行困難なウメイドくんが家出をしたとは思えません。ほかの家族を優先するがゆえ、ウメイドくんは捨てられた可能性も否めません。
 もしあのまま放置されていたら……、ウメイドくんは死んでいたでしょう。アフガニスタンでは、街で倒れている人が誰かに助けられるケースは極めてまれで、ほとんどの場合、保護されずに亡くなってしまいます。どんな理由があるにせよ、人の命の尊さが失われているように感じずにはいられません。

カブール市内の公園で倒れているところを発見されたウメイド君(推定12歳)。脳性マヒで言葉が話せず、どこからきたのかもわからない。左脚は外傷から骨髄炎を起こしており、傷口からは腐臭が漂う。

栄養状態が悪く、ケガをしなくても骨髄炎になってしまう。

 骨髄炎といえば、先進諸国では交通事故などの外傷が原因で細菌感染し発症しますが、抗生物質を服用することで悪化はほぼ防げます。しかし、衛生環境が悪いアフガニスタンでは、細菌が虫歯や擦り傷などから体内に入り込み重症化するケースが多いのです。
 さらに、血流が遅くなる骨の両端あたりに細菌が引っかかって増殖する「血行性骨髄炎」を発症することもあります。見た目は健常児とほとんど変わらないのに、栄養状態が悪いことで細菌と戦う抵抗力が極度に低く、ケガをしなくても骨髄炎になってしまうのです。
 抵抗力をつけるためには、牛乳や卵、肉などのタンパク質の摂取が必要です。でも、卵1個が15円、ナンと呼ばれる主食用のパンも15円するため、1日200円以下の生活で平均5人の子どものいる家庭では、十分なタンパク質をとることはできません。パンとお茶だけで空腹を満たすことしかできないのが現実です。
 アフガニスタンでは、骨髄炎は「貧困の病」と言われています。貧困のために骨髄炎を発症し、貧困のために病院へ行くことができず手遅れになるからです。医師の技術不足や医薬品不足も重なり、完治させることができません。現状では、「援助飛行」でドイツに渡り治療を受けることが最善の方法なのです。

戦闘やテロで夫を亡くし物乞いになる女性たち。

 では、貧困を引き起こす原因は何なのでしょう。アフガニスタンは農業国家です。過去には貧しいながらも人びとが平穏に暮らした時代がありました。小作人制度が確立されていた70年代には、国民の多くが小作人として農業を営むことで家計を支えることができていました。
 しかし、そんな平穏な暮らしも1979年のソ連の侵攻により始まった戦争で一変します。ソ連撤退後に起こった内戦(90年代前半)、イスラム原理主義を唱えて恐怖政治を行なったタリバン政権の誕生(96年)、米国で起こった同時多発テロをきっかけに始まった米軍による空爆(01年~)など、アフガニスタンでは戦闘が絶えません。
 2002年のタリバン政権の崩壊後、一時は平和を取り戻したアフガニスタンですが、08年頃を境に再び息を吹き返したタリバン勢力が各地で自爆テロなどを繰り返しています。現在は「イスラム国」(IS)を名乗る勢力も国内でテロ活動を活発化させているため、治安は極度に乱れています。
「戦闘が続くアフガニスタンで多くの犠牲者がでるたびに貧困層が増える悪循環をなんとかする必要がある」と、平和村に永年協力するアフガン人の医師・マルーフ先生が訴えるとおり、一家の稼ぎ頭である家長が戦闘で亡くなると、残された家族は一気に貧困生活へ陥ってしまうのです。
 カブール市内では、最近子連れの女性の物乞いをよく見かけます。戦闘やテロで夫を亡くしたり、夫が病気や身体的な障害で働けないといった女性が増えています。大学を卒業しても就職難のご時世に、就学経験のない女性に仕事を見つけるすべはなく、夫の代わりに日々の食費や家賃を稼ぐため、やむを得ず物乞いをしているのです。
 そんな中で、ドイツで治療を受けてアフガニスタンへ帰ってきた子どもたちは、生きる希望を見出しています。17年には、ドイツ大使館近くで起きた大規模爆弾テロの影響で、8月の「援助飛行」が中止になりました。子どもたちの笑顔を絶やさないためにも、「援助飛行」が無事に続けられることを願って止みません。

(左)2017年5月、カブールのドイツ大使館近くで起きた爆弾テロで死亡したアブドゥル・マナンさんの遺族。父親の写真を手にするサファくん(6歳)。
閉鎖されたドイツ大使館の再建の目処は立たず、今も破壊当時のまま。
(右)タリバンと政府軍との戦闘が続くアフガニスタン北部クンドゥズ州からカブールへ避難してきたシマさん(20歳)。一人娘とともに路肩で物乞いをする。夫はバザールで荷物運びをしており、夫婦2人で1日400アフガニ(約600円)を得る。食べていくのに精いっぱいで家賃が払えない。

ドキュメント援助飛行

2018年8月に行なわれたアフガニスタンと周辺5ヵ国への「援助飛行」の一部始終を追いました。

家族と一緒に集まったドイツへ渡る子どもたち。ともに左脚が血行性骨髄炎のタジモハッマドくん(右・10歳)とゾケラちゃん(中・9歳)。やけどの治療で2回目の渡独のアブドゥルモハマッドくん(左・10歳)。

面会 7月4日~

渡独前にマルーフ先生(中央)から説明を受ける家族たち。

「骨髄炎や重度のやけどをおった2歳から11歳の子どもたちをドイツで治療する機会があります。そういったお子さんをお持ちのご両親は、カブールの赤新月社(イスラム圏の赤十字社)までお越しください」
 事前にラジオ放送を通じてアフガン全土に援助飛行を知らせ、国内での治療は難しいとされた子どもたちが、アフガン各地から今回は200人以上集まりました。
 援助飛行を担当する平和村副代表のケビンさんと現地で永年協力しているマルーフ医師が2日かけて全員と面会し、今回ドイツへ連れていく66人の子どもたちが決まります。出発前々日には説明会が行なわれ、ドイツへ渡るうえでの注意事項が家族に話されました。

出発 8月18日

ドイツへ向かう息子の手を心配そうに握る父親(右)。
空港に向かうバスの中では泣き出す子どもも多い(左)。

 午前2時。暗闇の中、赤新月社の古びた門の前には渡独する子どもたちとその家族が集まります。名簿を持った赤新月社職員が1人ずつ名前を呼び、子どもたちを門の中へと導きます。
 ここで家族とはお別れです。初めて親元を離れる子どもたちの親は、皆心配そうに暗闇の中に消えてゆくわが子の後ろ姿を見つめていました。
 午前4時、バスで空港へ向け出発し、20分ほどでカブール国際空港に到着。バスがボーイング737の大きな機体に横付けされると、さっきまでさみしくて泣いていた子どもたちもウキウキしながらタラップを上ります。ほとんどの子どもたちが飛行機に乗るのは初めてなのです。
 機内に入ると、タジキスタンからの子どもたち6人が座っていました。「アッサラームアレイコム!(こんにちは!)」と挨拶しながら子どもたちは順番に着席します。シートベルトを締め、いよいよ離陸。機体が浮かび上がると、大歓声と拍手がわき起こりました。「ビランメラー(うえにあがってるぅ)」と興奮気味。サンドイッチの機内食をとると、ほとんどの子どもたちが眠りにつきました。

到着 8月19日

空港から病院へ直行するエルファンくん(左・6歳)。
アブドゥルモハマッドくん(右・10歳)は平和村へ向かう。

 飛行機がデュッセルドルフ国際空港に着陸すると、25台の救急車が待機しており、ドイツ赤十字社と平和村の職員がにこやかに迎えます。職員らに手を引かれながら、早急な治療が必要な子は救急車へ、そうでない子はバスへとそれぞれ移動します。
 オーバーハウゼン交通社の職員である運転手さんは、この日、有休をとってボランティアで参加。子どもたちをドイツ平和村のあるオーバーハウゼンへと運びます。
 いよいよ平和村に到着。優しい職員がアフガニスタンの現地語で「ホシャマディ!(ようこそ!)」と子どもたちを迎えます。翌朝から、骨髄炎ややけどの治療が本格的に始まります。

平和村 8月20日

(右)骨髄炎で左足が変形したダーニッシュくん(10歳)。4年にわたり治療を受けていたが、今回、念願叶い帰国することに。
(左)18年2月にドイツへ来たときは、やけどで両手の指がくっついていたルーフッラくん(6歳)。手術で左手の指が1本ずつ離れた。

 中庭の運動場では、男の子たちがサッカーをしていました。
 国籍、言葉、肌の色が違っても仲良くできるアフガンの子どもたちを見て、嬉しくなりました。戦闘が長く続くせいか、身内以外を信用しないアフガン社会では、どうしても親類縁者で固まってしまう傾向にあります。平和村で異国の子どもたちと触れることで、視野を広げてアフガニスタンに戻ることを願います。
 夕食後には、治療を終え母国へ帰る子どもたちが発表されました。名前が呼ばれると、ドイツ語で「ナッハハウゼ!(家に帰るぞ!)」と大声叫びます。帰子も見送る子もみな、母国へ帰る喜びを分かち合うように何度も何度も叫びます。

帰国 8月21日

無事帰国したわが子に抱きキスをする父親たち。
子どもたちも久しぶりの対面に涙する場面が多く見られた。

 早朝4時。短くて半年、長い子で4年にわたる治療を終えた95人(内アフガニスタン68人)の子どもたちが平和村を出発し空港に向かいます。約15時間のフライトで夜9時前にアフガニスタンに到着。空港から両親の待つ赤新月社へ向かいます。
 出発時と同様、古びた門の前にはわが子を迎えに来た家族の姿がありました。子どもたちを乗せたバスが中に入りますが、混乱を防ぐために家族は門の外で待機です。バスの窓越しに必死にわが子を捜す家族の姿が印象的でした。
 1人ずつ名前が呼ばれ、子どもと家族がようやく対面します。数年にわたるドイツ滞在で、母国語を忘れてしまい両親と会話ができない小さな子どももいました。
 骨髄炎で、ドイツで3年間に21回の手術を受けたザヘラさん(13歳)。母・フレイボさんは、「娘の治療に関わった方たち、支援してくださった方たちには本当に感謝しています。こんなに元気になった娘に会えて嬉しい」と涙を浮かべて話してくれました。

カンパの方法と活動報告

「ドイツ国際平和村」は、自国で十分な治療を受けられない子どもたちをドイツに連れてきて治療し、 治ったら母国へ帰す「援助飛行」という活動を50年にわたり続けています。

詳しくはこちら

現地レポートバックナンバー

ドイツ平和村TOPへ戻る