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介護の日々を文章にすることで、
辛い気持ちも救われました 【前編】

80年代に詩人としてデビューし、小説、エッセイ、人生相談と多岐に渡り活躍する伊藤比呂美さん。2004年からの8年間は両親のために日米を往復する日々でした。遠距離介護を乗り越えた秘訣を伺いました。

わたしの介護年表

母の介護

2004年
母79歳

歩行困難による転倒で入院。両手両足が麻痺、脳梗塞も併発し寝たきりとなる。その少し前から、料理ができなくなり、認知症の兆候が見られる。

2009年

母、病院で永眠(享年84)。

父の介護

2002年頃~
父80歳頃

脊椎狭窄症、胃がんを患い弱り始める。

2004年~
父82歳

母の入院により自宅での一人暮らし。その少し前から、ヘルパーの食事サポートを受ける。カリフォルニアの比呂美さんは毎日3回の電話で状態をチェック。熊本との往復も始まる。

2009年~
父87歳

ヘルパーの全面サポートを受けながら自宅で生活。比呂美さんの日米往復も頻繁に。

2012年

父、呼吸苦と体の痛みで入院、その日に永眠(享年89)。

2016年

カリフォルニアの自宅で介護をしてきたパートナー永眠(享年87)。

※年号・歳の一部は目安です。

おいしい「酢豚」でヘルパーさんを
受け入れるように

父は若い頃、陸軍飛行学校の教官、将校でした。戦後は東京・北区で印刷所を経営し、年取ってから夫婦で、私が住んでいた熊本に移住。その後、80歳を過ぎて脊椎狭窄症や胃がんになって、弱っていく父を支えていたのが母です。

ところが、2004年に突然、母が歩行困難になり転倒して入院。あっという間に両手足が麻痺、脳梗塞と診断されたけれど、何の病気か今でもよくわかりません。

当時、私は大学生の長女と次女、10歳の三女、イギリス人の連れ合いとアメリカ西海岸のカリフォルニアに住んでいました。私は一人っ子で、頼れる兄弟もいません。母の入院でいきなり一人暮らしになった父のため、1、2か月に1度、熊本に帰って2週間ほど滞在する往復生活が始まりました。

じつはその少し前から、ヘルパーさんに入ってもらっていました。父が栄養失調になったんです。主治医に「目玉焼きはいつも真っ黒こげ、餃子もこげているから何も食べていない」と話したと。でも母は「ちゃんと料理してます」と言い張る。おそらく母は認知症が始まっていたんでしょう。すでに要介護1の認定を受けていた父の介護保険を使って、ヘルパーさんに食事サポートをお願いしました。

父は最初、抵抗しましたね。でも主治医の「今まで社会に貢献されてきたし、もうお返ししてもらっていいんじゃないですか」で納得。「うまいな、先生!」ですよ。

次の難関が母。家に他人が入ることを嫌がりました。ヘルパーさんが来る日にはとっておきの器でお茶とケーキを出して、何週間もお客さまのようにもてなしました。でも、母より一枚上手だったのがヘルパーのリーダー島村さん。平然とお客さまになっていました。

昔は子供の私から見てもラブラブだった両親も、お互い歳取って意思疎通がむずかしくなる、体も動かなくてイライラする、で、その頃はもう喧嘩ばかり。それが、島村さんと雑談するうちに、母は「自分のことをわかってくれる人がいる」と思ったんでしょうね。心を開いたなと思ったところで、島村さんが「一緒にご飯を作りましょうか」と提案したんです。

その時の料理が、もう何年も作っていなかった「酢豚」。そのおいしさに父がクラッとまいってしまって(笑)。そこからヘルパーさん導入がうまくいき、父は最期まで何人ものヘルパーさんにお世話になりました。

ただ、介護ベッドを入れるとか手すりをつける、といったことを私が勝手に進めると「俺を除け者にしている」と怒るので、何かを決める前は本人の意思を尊重して「ああ、そうだな」と言わせてからするとスムーズに。「やった、コツをゲット」と思ったら、島村さんが「それはヘルパーになる時、講習会で必ず習います」と。なるほど、と思いました。

父のサポート体制を整えて、
毎日3回の電話で見守り

母の入院で一人暮らしとなった父には、施設に入ってもらうことも考えました。でも、断固拒否。飼っている犬と暮らせない、母に自由に会いに行けなくなる、という理由です。仕方なく、父のふだんの生活はヘルパーさんの手を借りようとなりました。

ヘルパーさんは島村さん含めて数人のチーム制で、交代して入ってもらいました。皆さんよい方で、父には敬語を使い、ちょうどいい距離感でサポートしてくれたので、本当にありがたかったですね。

何かを決める前は父の意思を
尊重し、「ああ、そうだな」と
言わせるのがコツみたいです

主治医やリハビリの先生、ケアマネさん、ヘルパーさん以外には、マンションの管理人さんや犬の美容室、動物病院、クリーニング屋、ご近所のおばあさんなど、父のサポートをお願いできるよう環境を少しずつ整えていきました。遠く離れていても安心していられたのは、こうした常に連絡を取り合える人がいてくれたおかげです。

そのほか、父が欲しいと言ったものは、私がインターネットで注文して熊本に送ったり、テレビ番組のチャンネル契約をしたり、とカリフォルニアにいてもできることはするようにしました。

ただ、問題は父の「寂しさ」。「朝起きた時に、見た夢のことをばあさんに言えないんだ」とポツリ。そこで毎日、朝昼晩3回、電話をかけました。父は野球と相撲と時代劇しか興味がないので、大した話題はないけれど、目的は安否確認です。毎回10分程度の会話ですが、日本の時間を気にして、父が都合の良い時間帯に欠かさず電話しなければいけないというのはかなり大変。耳も遠くなって会話が成り立たないこともしばしば。でも時々、面白いことを言うんです。「退屈だよ、本当に退屈だ。これで死んだら死因は『退屈』なんて書かれちゃうな」

「生きてるのも疲れちゃったな。死なないんだから困ったもんだよ」
それで、電話しながら父の言葉を書き留めるようになりました。心の中で「何かおもしろいこと言え~」って(笑)。そうしたら電話するのが楽しみになっちゃって。取材みたいなものですね、文章を書く人間のサガです。

実際に、介護をネタに何冊も本を書きました。書くことで、辛さを乗り越えられたんだと思います。いま介護中で辛い方は、経験を書き出したり、俳句や短歌でもいい、何か創作に変えるというのはいい手だと思います。「書く」って無意識を引き出すことだから、出してみて楽になることもあると思う。皆さんにおすすめしたいです。

次回(11月11日公開)に続く

取材・文/小泉まみ 写真/島崎信一 イラスト/タムラフキコ 協力/株式会社Miyanse
月刊益軒さん 2023年7月号』(カタログハウス刊)の掲載記事を転載。

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