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介護のストレスは外に吐き出して解消。
「言いふらし介護」をおすすめします 【後編】

おニャン子クラブのメンバーを卒業した後、テレビや舞台などで活躍を続ける新田恵利さん。お母さんの介護は、新田さんが46歳の時に突然始まりました。戸惑いながらも徐々に経験を積み、「母の思いを尊重してあげたい」とお兄さんと真摯に向き合った、6年半の介護でした。

わたしの介護年表

2014年
母85歳

圧迫骨折で入院したら、歩けなくなって寝たきりになる。新田さんと兄で、在宅介護を始める。要介護4。

2015年
母86歳

理学療法士の訪問リハビリ(週2回)を導入。その後、リハビリ入院し、車椅子で動けるようになる。要介護3に。

2016年
母87歳

車椅子生活ながら、トイレに行ったり、簡単な家事をするようになる。その後は、要介護3のまま比較的元気に過ごす。

2020年
母91歳

圧迫骨折の痛みから、衰弱して入院。2週間ほどで退院し、自宅に戻る。新田さんとお兄さんは「最後は家で」と決める。

2021年
母92歳

年が明けて、食欲がなくなる。3月の新田さんの誕生日の1週間後、家族に見守られて永眠。

※年号・歳の一部は目安です。

リハビリを頑張るために
目標を持つ

母の介護が始まったときは、要介護4でした。立てない、歩けない、寝返りもできません。トイレに行けないので、おむつになりました。リハビリのために理学療法士さんが週2回、訪問看護師さんが週1回、訪問入浴が週2回、訪問医が隔週で来てくれることになりました。デイサービスは、私たちが住む地域では要介護4の人を受け入れていなかったので、全て訪問です。

母は「自分でトイレに行きたい」と思ったようで、リハビリを頑張りました。なかなか思うように進まなかったとき、目標を持ってもらえるように「3月の私の誕生日までに、立てるようになって」とか「6月の私たちの結婚記念日までに歩く姿を見せて」と約束をしました。歩くのは難しかったけれど、徐々に動けるようになり、母は自信を取り戻しました。

そんなとき、理学療法士さんから、「リハビリのために40日間入院しませんか」と、提案がありました。家からは遠い病院でしたが、母は「行きたい」と言います。思いを尊重して送り出すと、40日のリハビリをやり遂げました。車椅子を使って家の中を移動し、トイレにも自分で行けるようになったのです。要介護は4から3に変更になりました。

リハビリのおかげで
要介護4から3に。
母の頑張りたい気持ちを応援

あるとき、母を家で1人にする時間がありました。急いで帰宅したら、部屋中にたこ焼きのにおいがします。冷凍たこ焼きを自分で電子レンジでチンしたよう。「ママ、たこ焼き食べたでしょう!」と笑いましたが、好きな時間に、好きなおやつを自分で食べることができるようになった母を見たのは、うれしかったですね。

夫に、友達に、SNSに
ストレスを吐き出して

それでも、介護中はストレスが溜まります。解消法は、とにかく外に吐き出すこと。「言いふらし介護」です。日々の小さなストレスは夫が聞いてくれたので、本当に助かりました。近くに聞いてくれる人がいないときは、SNSを利用してもいいと思います。私も介護が始まった頃、ブログで介護のことを書きました。今は、金曜日を介護の日と決め、介護のことを発信しています。読者からの介護に関するコメントには、ブログの内容と関係なくてもほぼ返信しています。介護を頑張っている方は、私のブログのコメント欄を使ってもいいので、辛い気持ちを吐き出してくださいね。

コロナ禍前は、年1回、やはり介護している友達と海外旅行にも行っていました。海外だと何かあっても気軽に戻れないので、逆に開き直って羽が伸ばせました。5日間ほどの短いアジアへの旅でしたが、お互いに介護の悩みや愚痴を話してスッキリ。帰国した空港で「現実が待っているぞ。じゃあ、頑張ろう」と言って、別れます。 「介護中に旅行なんて」と罪悪感を持つ人もいますが、親は子どもが幸せだとうれしいはずだから、子どもも楽しんでもいいのです。リフレッシュすれば、また優しい気持ちで介護に向き合えます。

それでも、たまには母と喧嘩して爆発しました。そんなときは、2階のリビングまで我慢して、たどり着いたら「クソババア!」と叫んだことも(笑)。声に出すことが大事で、スッキリしました。「言いふらし介護」のもう一つのメリットは、いろいろな情報が集まることです。例えば、介護用品を探していたとしたら、多方面の介護経験者から情報を得られます。ちなみに、私は杖以外の介護用品は、まずは100円ショップで買っていました。杖は安全のためにこだわって選びましたが、そうではないものは、まず100円ショップで買って試し、役に立つとわかったら、本格的なものを購入していました。

通り過ぎれば
いいことを思い出す

最後まで、母を施設に預けなかったのですが、突然始まった介護に無我夢中で、そこまで思い至らなかったのです。落ちついて来た頃に、母に「施設と家とどっちがいい?」と聞いたら、「家がいい」と答えたのでそのままに。一番近くにいる兄の負担が大きいので、兄が「もう、無理だ」と言うまでは、私も頑張ろうと。それまでは特別仲が良いきょうだいでなかったけれど、どうにか介護を乗り越えることができました。兄とは、介護の後、今のほうがいい関係になりました。

亡くなる前年の夏、母はいつの間にか圧迫骨折をしていました。認知症も発症していたので、要介護5に。痛みによる衰弱で食欲がなくなり、入院。でも、もう病院で治療の施しようがないとわかると、「家で看よう」と決め、母を退院させました。半年ほど家で過ごし、2021年3月に亡くなりました。

介護していたときは、いつまで続くのだろうと思っていました。でも、過ぎてしまえばあっという間の6年半、いいことだけを思い出します。今は、介護関係のお仕事も増えてきました。私の経験が少しでも役に立てたらと思い、伝えることを続けていきます。

取材・文・編集協力/大橋史子(ペンギン企画室) 撮影/島崎信一 イラスト/タムラフキコ 協力/株式会社Miyanse
月刊益軒さん 2023年12月号』(カタログハウス刊)の掲載記事を転載。

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