映画評論家・山田宏一の今月の“2本立て映画”

映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、とっておきの映画を「2本立て」で紹介していただくコーナーです。今回は「若尾文子映画祭」が開催されるタイミングに合わせて、増村保造監督とのコンビによる『刺青(いれずみ)』と、イギリス映画の黄金時代を代表するコメディ『マダムと泥棒』です。かたや官能的で濃厚なドラマ、かたや皮肉の効いたスマートな喜劇と、味わいのまったく異なる2本ですが、ともに傑作であることは間違いありません。山田さんの解説でぜひその面白さに触れてみてください。

紹介作品

刺青

製作年度:1966年/上映時間:86分/監督:増村保造/原作:谷崎潤一郎/脚本:新藤兼人/音楽:鏑木創/撮影:宮川一夫/出演:若尾文子、長谷川明男、山本学、佐藤慶、須賀不二男、内田朝雄、藤原礼子、毛利菊枝、南部彰三、木村玄、藤川準など


マダムと泥棒

製作年度:1955年/上映時間:97分/監督:アレクサンダー・マッケンドリック/製作:マイケル・バルコン/脚本:ウィリアム・ローズ/音楽:トリストラム・ケイリー/撮影:オットー・ヘラー/出演:アレック・ギネス、セシル・パーカー、ハーバート・ロム、ピーター・セラーズ、ダニー・グリーン、ケイティ・ジョンソン、ジャック・ワーナー、フィリップ・ステイントンなど

●妖しい美しさが際立つ全盛期の若尾文子の魅力

「若尾文子映画祭」が6月から大々的に劇場(東京では角川シネマ有楽町)で催されることになり、それに先立って「KadokawaとっておきBlu-rayセレクション」として1960年代の増村保造監督、若尾文子主演の3作(いずれも「初Blu-ray化!」)が発売された。『卍(まんじ)(1964年)、『刺青(いれずみ)』(1964年)、『赤い天使』(1966年)、監督と女優の名コンビによる(珠玉の、と私のようなファンには言いたいくらいの名作ばかりである)15作品のうちの3本である。いずれにも「初DVD化の蔵出し映画」として若尾文子のごく初期の——まだ大映のトップ女優になる以前の、売出し中の——いわばB級映画がもう1本おまけに収録されている。『卍』には『新婚日記 嬉しい朝』(田中重雄監督、1956年)、『刺青』には『新婚日記 恥しい夢』(田中重雄監督、1956年)、『赤い天使』には、田中重雄監督の『新婚日記』の3作目が撮られなかったせいか、劇映画ではないが、1956年の水野(ひろし)監督の『スタジオは大騒ぎ』という当時の大映撮影所の俳優、監督、撮影風景などを中心に大わらわのスタジオを案内、紹介するPR映画を収録したBOXになっていて、「ご自宅で名画座のような2本立てをお楽しみいただけます」というサービスぶりだ。
 久しぶりに『刺青(いれずみ)』から見て、増村保造監督絶好調の映画にも、妖しい美しさがにおい立つような全盛期の若尾文子の魅力にも堪能する。演出も演技も脂が乗り切ったような、一瞬の迷いもなく突き進む、いさぎよい力強さが感じられる。
 江戸末期戯作ふうの作品や悪魔主義などと呼ばれた凄絶な官能の歓喜を描く文豪谷崎潤一郎の耽美的な原作(『お艶殺し』)にも江戸は深川の小町娘から男殺しの芸者になるヒロインのお艶の「妖艶な誘惑の力にはどんな男も心を動かさずにはいられまい」というような表現があるけれども、そんなヒロインを演じる若尾文子のまさに凄絶なまでにエロチックな迫力には圧倒される。
 浮世絵のような色あざやかな和服姿の若尾文子が幾重にも重ね着をして、むらがる男たちに抱かれて(というよりも暴力的に襲われ、犯されかけて)、着乱れて、といってもけっして男たちの意のままにならずに好きなこと、やりたいことだけを官能のままに通して生きようとするのだが、谷崎潤一郎のもう一篇の原作(『刺青(しせい)』)にもとづくアイデアから(脚本は新藤兼人)、背中のいれずみの女郎蜘蛛が男という男の血を吸い尽くして運命を狂わせるというまさに悪魔主義的な凄絶きわまる波瀾万丈の物語になる。
 映画は地下室のような薄暗い所に閉じこめられて両手両足を縛られた女があばれるので麻酔剤で眠らされ、むきだしにされた真っ白い背中いっぱいに女郎蜘蛛のいれずみを彫られるところからはじまる。女はもちろん若尾文子だが、裸は吹き替えであることがわかる。しかし、背中にいれずみを彫られながら、麻酔で眠らされながらもその痛さにかすかなうめき声をあげる、そのあえぐようなうめき声からしてすでにまぎれもない若尾文子だ。あえぎ、うめく、というだけでも、その甘くけだるい声はこの女優ならではの魅力なのだ。

イラスト/池田英樹

 深く思いつめたような蒼白い顔の刺青師(山本学)がすでに「魂を奪われた」男である。めざめた女に「俺はおまえのなかに魂をうちこんだのだ。背中の女郎蜘蛛が生きている…一生一度の俺の命をうちこんだ仕事だ。男という男はこの蜘蛛の糸にからまれて、おまえの肥料(こやし)になるだろう」と誇らかに言うのだが、女は麻酔が切れて痛みにうめきながらも「おまえさんが誰よりも先にわたしの肥料(こやし)になったんだ。おまえの命をわたしが吸い取ったんだ」と苦痛に耐えてせせら笑う。
 駆落ちまでしていっしょになろうと思っていたはずの若い丁稚奉公の男(長谷川明男)のことも、背中に女郎蜘蛛を彫られて大家のお嬢さまから芸者の染吉になったあとは、「あの米粒ほどの肝っ玉の新助」呼ばわりする始末、久しぶりに会っても男の首に手を巻きつけて「くだらない嫉妬(やきもち)はよしておくれ。こう見えても、わたしゃおまえのほかには男は知らないんだから…ああ、会えてうれしい。うんと、うんと愛しておくれ」としらばっくれているかのようにけろりとして抱きつくばかり。
 背中のいれずみが体内に眠っていた魔性の女の妖しい血を呼び起こしたかのように、お艶は芸者染吉になっていきいきと活躍する。悪党ぶって言い寄ってくる男という男には手きびしく「男はみんなわたしの肥料(こやし)になるんだ。まずはおまえさんから」と堂々と悪びれた様子もなく、痛快なほど自信にみちて男心をそそる。「おまえの肥料(こやし)に俺はなりたい」などと男(遊び人の須賀不二男)が言おうものなら、冷ややかな微笑で男を見くだし、「そんなこと言って、おかみさんに叱られるんじゃありませんか」。男が「あんなくそばばあ、文句をいいやがったら叩き出してやる」と言うと女は「そんな度胸があるのなら、いっそ殺しちまえば」とそそのかす。人を買ったり売ったりして金もうけをしているこれまた悪党の芸者屋(内田朝雄)も結局はお艶の肥料(こやし)になる。芸者染吉として芸者家の親分とになって企んだ悪事がバレて、芹澤という侍(佐藤慶)にさすがの悪党の芸者屋が斬られて苦しみ、もがいている姿を見ても、助けてやるどころか、「親分、こんなあんばいじゃ、とてもいけねえ、いっそわたしが楽にしてあげるから、ひと思いにくたばっておしまい」と帯のあいだから剃刀を取り出して、ずぶりと力をこめて親分の脇腹に突き刺すのである。男は「死んでも化けて出るぞ」としぶとくもがきつつ息絶える。
 芹澤という侍に惚れてしまったお艶が最後に誰に殺されるかは見てのお楽しみということにして、谷崎潤一郎の小説『お艶殺し』の忘れがたいラストをむしろ引用させていただこう。

「お艶殺し」はそれから二三日目に決行された。[中略] お艶は新助の手元を支えながら、「新さん後生だ、芹澤さんに一と目會はせてから殺しておくれ」と拝んで云った。彼女は斬りかけられつゝ逃げ廻って、「人殺し」と叫んだ。息の根の止まる迄新しい恋人の芹澤の名を呼び續けた。

 映画そのものが毒気にあてられたかのように、静かでおだやかなイメージがまったくなく、果てしなく暗い夜の闇やどしゃぶりの雨や深く積もる雪の風景がどぎつい、という以上に美しく濃厚なカラー(撮影は名手・宮川一夫)で描かれる。映画の血みどろのラストもすさまじいのだが、退治されるのは背中のいれずみである。題名の『刺青』を「しせい」でなく、あえて「いれずみ」と読ませたのも、そのせいかもしれない。

●曲者俳優たちが織りなすユーモラスな泥棒喜劇

 戦後のイギリス映画の最後の黄金時代は、イギリス独特の喜劇、単に明るく愉快な笑い、ほがらかな大笑いではなく、皮肉っぽくトボケた笑いやけたたましく攻撃的な、あるいは毒舌的な笑い、ナンセンスなブラック・ユーモアなどに彩られた、あり得ないような出来事をごく日常的に、まことしやかに描く独特な洒落っ気のあるくすぐり笑いが横溢した喜劇で、その中心になった名プロデューサー、マイケル・バルコンの名を取ってバルコン・タッチとかマイケル・バルコンが責任者だったイーリング撮影所でつくられたので、イーリング・コメディの名で呼ばれたりした。『マダムと泥棒』(アレクサンダー・マッケンドリック監督、1955)がその代表作で最後の傑作と言えるかもしれない。DVDで久しぶりに見て、あらためてその思いを強めた。カラーも出色の美しさだ(撮影はオットー・ヘラー)。
 映画の公開当時の予告篇がDVDの特典で見られる。どんな映画なのかを手ぎわよくこんなふうに解説してくれる。

絶体絶命の危機迫る!
“イーリング・コメディ”の総元締イーリング撮影所から
新たなクライム・コメディ(犯罪喜劇)の誕生です
現金輸送列車強盗!
罪なき心やさしい老婦人を巻き込む犯人役は名優アレック・ギネス
悪魔のような微笑みで前代未聞の陰謀をもちかける
その陰謀とは何か?
偽の音楽家たちが奏でるのは手に汗にぎるストーリー
それは芸術的な犯罪
大成功と思いきやトラブル発生!?
全員がカネを手にすることができるのか…
「バアさんを殺すなと言ったろ」
(そこへバアさんが現れて)「何事です? バアさんとは誰のことです?」
アレック・ギネスがギャングの仲間とくりひろげる型破りの物語!

 どこかで見たような映画だと思われる人は、トム・ハンクス主演の『レディ・キラーズ』(ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン共同監督、2004年)をごらんになっているにちがいない。原題は『The Ladykillers』。『レディ・キラーズ』はリメーク(再映画化)で、その元になったオリジナルが『マダムと泥棒』なのである。

 舞台はロンドン。キング・クロス駅という終着駅の周辺である。花飾りが可愛らしい帽子をかぶった老婦人(ケイティ・ジョンソン)が雨傘を片手に警察署にやってくる。「ミセス・ウィルバフォースがやってくるぞ」と巡査が言う。「警視を呼ぼう」。温厚な感じの警視(ジャック・ワーナー)が出てきて、ミセス・ウィルバフォースを「いらっしゃい、マダム」とやさしく出迎える。善良で親切にいつも何かを訴えに訪れるマダムの話相手になる担当らしい。「きょうは何でしょう?」。マダムはお隣さんが庭先に宇宙船が降りてきたけれども、そんなことは恥ずかしくて誰にも言えないというので、「わたしが代わりに報告に来たの」といつもながらのおしゃべりをはじめる。「お隣さんは宇宙人を目撃したというのですか?」と警視。「そうなんです。でも、なぜ宇宙人がわざわざ地球なんかに来るんでしょう。きっと夢を見たんですよ。ラジオ番組で『宇宙からの訪問者』というのを聴いて、それを夢で見たんでしょうね」などといったとりとめのない報告がたぶんいつもながらのような調子で警視に伝えられ、その日は終わり、「また、どうぞ」とやさしく追い返される。というのが映画の出だしである。
 マダムは庭先から鉄道の駅の構内をまるまる臨めるような小高い位置に建てられた一軒家にひとり住んでいて、まだ石炭を焚いて蒸気機関車を走らせていた時代の列車が煙をもうもと上げて通るたびにスクリーン全体が何も見えなくなるくらいくもってしまう。その効果を単純ながら映画はドラマが進展すると、じつに映画的に面白く駆使することになる。人殺しを暴力的な、残虐な流血のシーンなどで描かずに、ユーモラスに、スマートに煙に巻いて(!?)しまうのである。

イラスト/池田英樹

 怪しい人影がマダムを追って鉄道に沿った一軒家に近づく。大学教授だという長いスカーフを首に巻いて静かに不気味に微笑む男(アレック・ギネス)がこの一軒家に下宿をしたい、古典音楽が趣味で、4人の仲間と、つまり5人で、弦楽五重奏の練習を集中的におこなうために部屋をお借りしたいというのである。
 マダムは商船の船長だったという夫に先立たれ、その遺産で一軒家に夫の形見だという3羽のオウムと何不自由なく暮らしていたが、自分も音楽好きですから、というわけで、地盤沈下でちょっと傾いている家だけれども、2階の奥の部屋が空いているので自由に使ってほしいと快諾。
 地盤沈下で傾いた家のなかにはマダムの思い出の写真を入れた額があちこちの壁にかけられて傾いているのだが、その傾き具合が気にかかるらしく、いちいち手を伸ばして直そうとするアレック・ギネスがじつにおかしい。傾きを直そうとするたびに、首に巻いた長いスカーフが乱れて地べたにひきずって、歩く足にひっかかって、それに神経質にイライラしたりして、奇妙におかしく狂っている感じが伝わってくる。発狂寸前だが静かに熟考するような落ち着きぶりがまた、じつにおかしい。
 4人の仲間が次々にチェロやバイオリンの入ったケースを持って集まってくる。
 少佐(セシル・パーカー)、ワン・ラウンド・ローソン(ダニー・グリーン)、ハリー・ロビンソン(ピーター・セラーズ)、ルイ・ハービー(ハーバート・ロム)。一筋縄では行かない強面の曲者ぞろいの名優がならぶ。
 音楽大好きという気のいいマダムをドア越しのレコードでごまかして(とはいえ、そのレコードの曲がまた古典派室内楽曲様式の発展と完成に貢献し、とくに弦楽4重奏曲ではモーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンとならぶ大家であったという18世紀イタリアの音楽家ルイジ・ボッケリーニの弦楽五重奏というのだから、音楽が趣味でしかない「教授」とその仲間たちをマダムがさらに尊敬してしまったとしてもしかたがないだろう)、演奏の練習などそっちのけにして、本職の作戦会議に熱中する5人組の男たちが面白い。泥棒が彼らの本職で、現金輸送車を狙うギャング団だったというのも納得。映画は一気に佳境に入っていくのである。
 お人好しでお節介焼きのバアさんをうまく利用して仕事仲間に入れるかどうかで男たちはまず大もめにもめる。警察とも仲がいいらしいバアさんは幸運の女神になるか、単なる厄介者になるか。議論の果てに、結局、無気味な微笑みを浮かべて幸運の女神のほうに賭ける教授の路線でいこうということになる。そして…オウムの1羽が外に逃げ出したり、列車から現金を自動車に載せて走る途中、八百屋のりんごを食べようとした馬の邪魔が入ったり、とんでもない失敗つづきの連続だったものの、見事にマダムの介入によって勝利の女神が微笑む結果になって、チェロやバイオリンのケースに札束がどっさり詰め込まれて手に入ることになって、めでたし、めでたし、とは、もちろんならない。すべてがたちまちバレてしまって、映画の後半はマダムと泥棒たちの深刻で滑稽な対立とたたかいになるのだ。やっぱりバアさんはとんでもない厄介ものだった、生かしちゃおけねえと強硬にマダム殺しを主張する者と、いや、殺しはやめよう、バアさんは殺すな、という逃げ腰になる者とに泥棒たちは分裂。泥棒たちが真剣に悩みはじめて、どうしてこんないい人たちが…と思わせるくらいくすくす笑いの連続になる。いったい誰がこの白昼強盗の主犯なのか? 最後に笑うのは誰か? よくある仲間割れの殺し合いで、あわや、そして誰もいなくなったという無残な結末になるのか? マダムはやっぱりやさしいボケ老婦人にすぎなかったのか?
 これから映画を見る人のよろこびを奪わぬように結末を絶対にバラさないでくださいとう鉄則のような呼びかけがあるわけではないのだが、そんな鉄則など無視しても、「ぼくの採点表」(トパーズプレス)の双葉十三郎氏は、笑いをこらえきれずに、この「イギリス製犯罪コメディの快作」の「洗練されて粋な」しめくくりを堂々とあっさりバラしていたのを思い出す。「五人組がお互いに殺しあって全滅、大金が転がりこんだ老婦人が警察に届けても信用してもらえず、そんなお金はあなたが持っていなさい、というマダム丸儲けのオチもスマート!」という次第。

イラスト/野上照代

山田宏一

やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。

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