映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、その時期に合わせた映画を「2本立て」(日本映画、外国映画)で紹介していただきます。今月はキャロル・リード監督の『第三の男』と小津安二郎監督の『浮草』です。秋も深まり冬の気配も感じるこの時期にふさわしい名作2本の魅力を味わっていただければと思います。
紹介作品
第三の男
製作年度:1949年/上映時間:104分/監督:キャロル・リード/キャスト:ジョセフ・コットン、オーソン・ウェルズ、アリダ・ヴァリ、トレヴァー・ハワード、バーナード・リー
商品情報
『第三の男 4K デジタル修復版』
Blu-ray 5,280円(税込)/販売・発売元:株式会社KADOKAWA
浮草
製作年度:1959年/上映時間:119分/監督:小津安二郎/キャスト:中村鴈治郎、京マチ子、若尾文子、浦辺粂子、三井弘次、田中春夫、杉村春子、川口浩
商品情報
『浮草』
価格:DVD 3,080円(税込)/販売・発売元:株式会社KADOKAWA
※2022年11月時点の情報です
「秋」の映画ということで異色の2本立てである。秋色深まる印象的なラストシーンが心に残る2作品、イギリスのキャロル・リード監督作品『第三の男』(1949)と日本の小津安二郎監督作品『浮草』(1959)。いま、DVDでこんなに美しい鮮明な画面で見られるというだけでも、おどろきと感激を通り越して快哉を叫びたくなった。
名作中の名作である。
戦後、映画館がいつも超満員だった頃、誰もが知っている(たぶん何度も見て忘れがたい名作として記憶していた)3本の映画があった。フランス映画『望郷』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1936)とアメリカ映画『カサブランカ』(マイケル・カーティス監督、1942)とイギリス映画『第三の男』。いずれも白黒作品で、ハリウッド製の『風と共に去りぬ』(ヴィクター・フレミング監督、1939)のようなカラー超大作に比べれば地味な小品(というほどではないにしても、ごく普通の作品)だったが、その映画的な面白さたるや、映画通をうならせる技巧的な名篇で、しかも大衆受けするという、名著「映画だけしか頭になかった」の植草甚一さんふうに言えば「いままで沢山の映画を見てきた人たちでも、まだほんの僅かしか映画を見ていない人たちでも、おなじように感心してしまう」、そういう意味での通俗的な傑作なのである。
謎が謎を呼ぶ展開で世界中の映画ファンを魅了
『第三の男』はスリラー映画の名作で、イギリス映画として知られているが、実はイギリスの大プロデューサー、アレクサンダー・コルダ(ロンドン・フィルム代表)とアメリカの大プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニック(セルズニック・インターナショナル代表)の合作で、イギリス版とアメリカ版があり、今回入手できたDVDはロンドンの時計台を会社マークにあしらったロンドン・フィルム提供のイギリス版だった。劇場公開版はアメリカ版だったので(いや、イギリス版だったと言う人もいるので、私が最初に見たのはアメリカ版だったということなのだが)、ファンにとっては、いずれにしても、このイギリス版のDVDは貴重なコレクション・アイテムになるだろう。と、ちょっとマニアックな話になってしまったけれども、イギリス版とアメリカ版のどっちがよく出来ているとか、そんな問題ではなくて、どちらも同じようにすばらしいのだが、イギリス版ではイギリスのスターが中心に、アメリカ版ではアメリカのスターが中心に映画がつくられていて、たとえば(早い話が)物語の語り手がイギリス版ではイギリスのスター(トレヴァー・ハワード)に、アメリカ版ではアメリカのスター(ジョセフ・コットン)になっているのである。
物語の舞台は第二次大戦直後のウィーンで、戦勝国のアメリカとソ連とフランスとイギリスの4か国の共同管理による占領下にあり、闇市がはびこり、悪徳商法や盗難、殺人が横行している。敗戦国オーストリアの首都、ウィーンの荒廃した情景が点描され、「美しい音楽の都だった戦前のウィーンは知らないけれども、戦後のウィーンは…」というようなナレーションが入る。ナレーションの朗読は原作者のグレアム・グリーンとも監督のキャロル・リードともいわれるが、声は自然で、とてもいい感じだ。そもそも原作の小説は映画化のために書かれたオリジナルで、映画用の脚本もグレアム・グリーンが書き、映画はキャロル・リード監督と一心協力してつくられたものだった。
ジョセフ・コットン扮するアメリカの作家(といっても、うだつの上がらない大衆作家で、アメリカの開拓時代の西部を舞台にした三文小説を書きなぐっている)、ホリー・マーチンスが旧知の友、ハリー・ライム(オーソン・ウェルズが出番は少ないのにその不敵な面構えと名演、名せりふで、まるで映画の真の主人公のようになる)に招かれてウィーンにやってくる。「私の名前はホリー・マーチンス、はるばるアメリカからやって来た…」というナレーションは、もちろん、アメリカ版ではホリー・マーチンス役のジョセフ・コットンの声である。ところがイギリス版では「彼の名前はホリー・マーチンス、はるばるアメリカから…」と三人称のナレーションで、犯罪者ハリー・ライムの調査に乗り出すイギリスのMP、キャロウェイ少佐の役を演じるトレヴァー・ハワードの声である。語り手が別で、当然ながらそれぞれの視点から、かたや一人称、かたや三人称で語られるナレーションで、キャメラワークなども当然違ってくるので、まったく別の作品になっているかというと、そんな印象はまったくない。詳細に見比べたわけではないが、イギリス版もアメリカ版も、どちらも遜色ない面白さだ。合作の最も成功した例と言えるかもしれない。
イラスト/池田英樹
画面がすばやく切り返され、見上げるような仰角(あおり)の構図になったり、高所から俯瞰で下のほうを遠くまで見渡す構図になったり、人物と人物が対話するシーンでは斜めの構図になったりして、めまぐるしくスピーディなカットつなぎがサスペンスを生み出し、強烈な光と影の交錯によって謎が謎をよぶ息もつかせぬ映画的な(と、しつこく強調したくなるような)、ドキドキさせる展開である。
夜の暗闇のなかにオーソン・ウェルズのハリー・ライムの顔が一瞬の光に照らされて浮かび上がったかと思うと、たちまち姿を消し、大きな人影だけが走る足音とともに逃げ去っていくところ、追われて逃げるハリー・ライムが広場に出たところで忽然と消え去ってしまう謎(広告塔がその謎ときのきっかけになる)、ハリー・ライムを待ち伏せする夜の街角に現れる大きな風船売りの影、下水道の追跡シーンでついに追いつめられたハリー・ライムがマンホールから地上に逃げ出そうとして、鉄格子に両手の指を突っ込んで持ち上げようとしたとき、銃声がとどろき、地上に出た指先が力なくひっこむ。冷たい秋風に吹かれてハラハラと木の葉が落ちてくる。このマンホールから指先だけが地上に突き出るシーンはキャロル・リード監督が撮影中に思いつき、オーソン・ウェルズはすでに現場を離れてしまっていたので、キャロル・リード監督自らが指先だけの特別出演をしたとのこと。
あまりにも有名な観覧車のシーンで、ハリー・ライムが悪の哲学を説く名せりふも忘れられない——「イタリアのボルジア家30年の圧政はミケランジェロやダ・ヴィンチやルネサンスを生んだ。スイス500年の平和からは何が生まれたか。鳩時計だとさ」
このせりふを言うという条件でオーソン・ウェルズはハリー・ライムという悪役を引き受けたとのことである。こうしてオーソン・ウェルズは世界映画史上最も魅力的な悪役を演じ上げたのだった。
そして、映画のラストシーン、ハリー・ライムの愛人の役を演じたアリダ・ヴァリ(イタリア人女優だったが、デヴィッド・O・セルズニックにスカウトされ、アメリカ女優としてデビューした)が墓地に沿った長い並木道を歩き去って行く名場面。落葉が散り、アントン・カラスの名曲「ウィーンの黄昏」のツィター(当時はチターと表記されていた)による名演奏で世界中の映画ファンをしびれさせた余韻嫋々の名場面である。
人生の秋をしみじみと感じさせる名篇
真っ白な灯台のある港の風景に連絡船が入ってくる冒頭の一瞬の鮮やかな移動撮影のあとは、キャメラの動きをまったく感じさせない端整な画面の連続で、『第三の男』のあわただしいくらいのダイナミックなキャメラワークと対照的な静かで落ち着いた映画だが、その深くしみじみとした味わいがいつまでも心に残る名篇だ。
題名とおり、しがない旅芸人の一座の浮草稼業とそのわびしい旅路の果てを描いた作品だが、暗くしみったれた印象はまったくなく、カラーの美しさ(撮影は名手、宮川一夫である)と小津安二郎監督ならではの簡潔で歯切れのいい軽快な語り口とそれに頑固でわがままな道楽者、放蕩者を演じさせたら右に出る者はないくらい見事な中村鴈治郎(二代目)の愉快、痛快な怪演(と言いたいぐらいだ)もあって、ほとんど明朗な喜劇と言ってもいい感じの名調子で、こんなに楽しく見られる映画もめったにない。
イラスト/池田英樹
一座の役者たち、傍役だが芸達者の三井弘次や田中春夫の軽いエロばなしのようなエピソードをまじえながら、中心になる座長の中村鴈治郎と昔の女(杉村春子)とその息子(川口浩)、それに一座の女優(それも男役、“男形”である)で座長の愛人である京マチ子と若手の若尾文子(好青年の川口浩を電報のメモで誘惑するのだ)とのからみ合いが、南国土佐の暑い夏の風物詩を彩るようにドラマチックに描かれる。アイスキャンディーやかき氷がしょっちゅう出てきて、暑さしのぎにみんな大わらわである。そんな猛暑の夏に早くも別れを告げるかのように庭先に咲く真紅の葉鶏頭(ハゲイトウ)の花が鮮烈に印象づけられる。葉鶏頭は漢名が雁来紅(ガンライコウ)。秋、雁が渡ってくる頃に紅色に咲く花との由来からその名が生まれ、「秋」の季語にもなっているとのことである。紅色がカラー映画『浮草』のモチーフになっていて、どしゃ降りの雨の路地をはさんで向かい合った中村鴈治郎と京マチ子がおたがいにアホよばわりしながら激しく口論するシーンでは京マチ子が軒下に真紅の雨傘をひろげたまま地面に置き、「おまえとの縁もこれきりじゃい」「ああ、けっこうやな」とののしり合って、一座も解散したあと、結局はまたヨリを戻した二人を乗せた夜汽車が真紅の後尾灯(テールランプ)をつけて闇のかなたに消えていくラストシーンは人生の秋を感じさせて、物悲しく、せつない。
小津安二郎監督は、この最後の夏を惜しむかのような『浮草』のあと、秋という漢字の入った3本の映画、『秋日和』(1960)、『小早川家の秋』(1961)、『秋刀魚の味』(1962)を撮って亡くなった。60歳であった。
イラスト/野上照代
山田宏一
やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。