映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、その時期に合わせた映画を「2本立て」(日本映画、外国映画)で紹介していただきます。その組み合わせの妙もお楽しみください。今回は納涼の夏、ということで怪談の名作を2本。社会派の名匠・山本薩夫監督が手掛けた『牡丹燈籠』と、旧ソ連で製作されたファンタスティックな怪談噺として名作の誉れ高い『妖婆 死棺の呪い』です。
紹介作品
牡丹燈籠
製作年度:1968年/上映時間:88分/監督:山本薩夫/キャスト:本郷功次郎、赤座美代子、小川真由美、西村晃、志村喬
商品情報
『牡丹燈籠』
DVD:価格 3,080円(税込)/発売・販売元:KADOKAWA
※2022年7月時点の情報です
妖婆 死棺の呪い
製作年度:1967年/上映時間:72分/総監督:アレクサンドル・プトゥシコ/キャスト:レオニード・クラヴレフ、ナターリア・ヴァルレイ、アレクセイ・グラズィリン、ニコライ・クトゥーゾフ
商品情報
『妖婆 死棺の呪い』
現在、廃盤。
※2022年7月時点の情報です
蒸し暑い夏に思い出すのが、暑さを避けて涼しさを味わうという納涼お化け映画大会である。そんなものがあったのかと、いまではもう考えられないようなことかもしれないが、映画が娯楽の王様だった時代(戦後10年、1955年ごろから日本映画も活況を呈してきて、夏には誰もが競って――と言っても大げさでないくらい――映画館に殺到したものだった)、もちろんまだクーラーなどの設備がなく、みんな汗だくになりながら恐怖と戦慄にぞっとして背筋が寒くなるというわけで、妖怪や幽霊の出てくるスクリーンに見入ったのである!
すでに江戸時代から、歌舞伎では夏芝居とか夏狂言とよばれた夏場の興行があって、涼味をよぶための宙吊りや早替り、本水の使用などとともに、怪談物の上演が売り物になっていたことを思えば、納涼お化け映画大会などもそうした伝統的な例にならった暑気払いの夏の風物詩のようなものだったのだろう。
そんな古典的な格調ある怪談映画の邦洋の傑作(代表作とまでは言わずとも、身にしみる忘れがたい傑作であることは間違いない)、日本映画『牡丹燈籠』とロシア映画『妖婆死棺の呪い』が今回の異色の2本立てである。どちらもそれぞれの国で何度も映画化されている名作怪談の映画化だ。かたや横長のシネマスコープ作品(大映スコープ)、かたや画面がほとんど真四角のスタンダード・サイズ、ともに色調は異なるもののすばらしいカラー作品というだけでも豪華2本立てと言っていいだろう。
抒情的な怪談を社会的な悲劇として描く
怪談『牡丹燈籠』は、周知のように、『東海道四谷怪談』とならぶ怪談物の白眉だが、『四谷怪談』の、たとえば1枚の戸板の裏表に死骸を釘付けにして瞬時にひっくり返すといった有名な戸板返しのようなけたたましく衝撃的な恐怖をねらった早替りの仕掛けとか客受けをねらったはったり芸のようなケレン味よりも、むしろ死者の霊を美しく妖しく描き出した静かな怪談で、なかでも山本薩夫監督の『牡丹燈籠』(1968)は数ある映画化作品のなかでも出色の面白さなのである。中国伝承の怪談と江戸時代の落語家・三遊亭円朝の怪談噺を素材に依田義賢が脚本を書いた「夏向き怪談映画」で、武家の身分を嫌って庶民とともに長屋住まいをし、貧しい子どもたちに読み書きを教えている心根のやさしい若侍(本郷功次郎)が、権力と金が支配する非情な社会の仕組みの犠牲になって遊女に身を落として自ら命を絶ち、怨霊となった武家の娘(赤座美代子)にお盆の燈籠流しの夜に(燈籠流しは精霊を送り出す儀式であるとともにお盆の期間は死者がよみがえるのだ)出会うべくして出会い(亡霊に見初められたと言うべきか)、そのせつなく恥じらう楚々とした容姿にひかれ、彼女がこの世のものでないことを知りつつ契りを結び、そのとりことなって死んでいくという抒情的な怨霊怪談を封建制度の生み出した社会悲劇として描いたところが、いかにも社会派の山本薩夫監督らしい巧妙さだ。一時は怨霊からの呪縛を解き放そうとして武士らしく刀を抜いて怨霊たち(若い娘には彼女を「お嬢様」とよんで仕える礼儀正しく、それだけにこわい大塚道子ふんする小間使が終始付き添っている)を斬って斬って斬りまくるのだが、宙を飛び回ってつきまとう怨霊たちに刀は空を切るばかり。切っても切れない仲とはこのことか。よく見ると、美しい幽霊たちの足は地に着いておらず、ふわっと浮き上がるように歩いているのだが、カランコロンという下駄の音だけが遠く、ひそやかに響くのである。
蚊帳のなかに入って抱き合う男と女を外からふとのぞき見ると、それは骸骨を抱く交合の寝床で、長屋の住人でたかり屋でずる賢い出歯亀の小悪党を演じる西村晃があまりのおどろきに声も出ず、腰を抜かして身動きできなくなるところがあって笑わせる――いや、笑うに笑えぬ、恐怖と戦慄のシーンなのだが、その小悪党の西村晃が「幽霊にゃ御足がない」などとダジャレを言ったのがきっかけになって、あばずれ女房の小川真由美が幽霊からおあし(お金)を、それも百両もの大金をせしめるという、これまた笑うに笑えぬ、あくらつな計画が成功して、さらに欲の皮が突っ張って墓場を荒らしまわって惨殺されるのだが、このエピソードからも三遊亭円朝の怪談噺に元があったことを思い出す落語通の方もいるにちがいない。
すべてが身の毛のよだつ美しさに彩られた恐怖映画
『妖婆死棺の呪い』(1967)は、最初テレビで放映されたときの邦題だった。その前後に『魔女伝説ヴィー』という原題に近い邦題のLD(レーザーディスク)が出て、私はそのLDを入手していたのだがプレイヤーがこわれてしまい、もはやLDのプレイヤーは発売されておらず、今回、テレビ放映のときと同じ邦題で出ていたDVDを入手できて久しぶりに見てその面白さにうなった。映画の原作になったロシアの文豪ゴーゴリの初期の短篇(あるいはむしろ中篇)小説「ヴィー(妖女)」も読み直した。
色彩、特撮、物語、すべてが身の毛のよだつ美しさだ。おどろおどろしい邦題どおりの恐怖映画なのだが、ただもうその鮮烈な美しさに魅惑された最初の衝撃の記憶の残像が悪夢のようにいまなお、いきいきと脳裏に焼きついていて、その衝撃の印象はあらためて見てまったく変わらないどころか、さらに強く感動的に迫ってきた。
すべては見てのおたのしみだが、気味の悪い老婆が突如、神学生に馬乗りになり、ほうきをつかんで、そのまま草原を駆け抜けて空中に舞い上がる。魔女伝説のはじまりだ。
若くして死んだ村の美しい娘が横たわる棺が、夜ごと、死霊を追い払うために祈祷する神学生に向かって舞い上がり、攻め寄せてくる。そして棺からがばとはね起きた美女が魔女のようにおそろしい顔つきでにらみ、襲いかかる。最後には妖怪の大王ヴィーが無数の化け物や骸骨を伴って現れ、美女はあの気味の悪い老婆に戻り、棺に納まるのだが…。
『石の花』(1946)、『虹の世界のサトコ』(1952)などロシア映画の幻想的な名作や特撮映画、アニメーションなどで知られる名匠、アレクサンドル・プトゥシコ監督の脚本・監修・総監督による恐怖と戦慄のファンタジー映画である。
イラスト/野上照代
山田宏一
やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。