映画評論家・山田宏一の今月の“2本立て映画”

映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、とっておきの映画を「2本立て」で紹介していただくコーナーです。前回に引き続き、剣戟(けんげき)王、阪東妻三郎の魅力がふんだんに味わえる『月の出の決闘』と、西洋の剣戟王とも言えるダグラス・フェアバンクスの息子(ジュニア)が見事な剣戟を見せる『コルシカの兄弟』を取り上げます。東西チャンバラ映画の二本立ての妙をぜひ楽しんでください。

紹介作品

月の出の決闘

製作年度:1947年/上映時間:77分/監督・脚本:丸根賛太郎/撮影:米田治/音楽:深井史郎/擬闘:川原利一/出演:阪東妻三郎、花井蘭子、青山杉作、東野英治郎、羅門光三郎、尾上菊太郎、村田宏寿、葛木香一、香住佐代子、丸山英子ほか


コルシカの兄弟

製作年度:1941年/上映時間:85分/監督:グレゴリー・ラトフ/原作:アレクサンドル・デュマ/脚本:ジョージ・ブルーズ、ハワード・エスタブルック/撮影:ハリー・ストラドリング/出演:ダグラス・フェアバンクス・ジュニア、エイキム・タミロフ、H・B・ワーナー、ヘンリー・ウィルコクスン、ウォルター・キングスフォード、ペドロ・デ・コルドヴァ、ルース・ウォーリックほか

 季節に合わせて邦洋の映画2本立てを紹介するという試みは最近のあまりの天候異変の連続で混乱つづきだったので、別の口実で、というより、あえて口実を設けなくても面白い映画はありあまるほどあるので、私自身が映画ファンになった体験的記憶から、スター中心に、俳優中心に、人間中心に、連載を進めることにしたのだが、もちろんテレビなどでよく放映される名作やヒット作はここで紹介する必要もないのでなるべく避けることにして、といっても市販のビデオ(DVDやブルーレイ)では見られる作品のなかからこれぞという珍品を今回も私なりに紹介させていただきたいと思う。2作とも白黒作品で、古めかしい画面ながら、それなりにたのしめる映画だ。

“素材”そのものの魅力がほとばしる阪妻の偉大さ

 シナリオライター星川清司の回顧録『大映京都撮影所 カツドウヤ繁昌記』(日本経済新聞社)に、「無法松こと富島松五郎に学問があってはいけない」という名言がある。阪妻こと阪東妻三郎のことである。「時代劇の大立物は揃って学問がない。映画作りに学問はいらない。人間が人間らしく、生地そのもので勝負する。すばらしい世界だった」と星川清司は書く。

 阪妻は自ら「学問がない」ことを隠そうとせず、いっしょに仕事をすることになったこれぞという監督には「わしを素材にして面白い映画をつくってくれ」と一身を投げ出すように訴えたとのことである。そのせいか(もちろん、「素材」がすばぬけてすぐれた才能だったということもあるのだろうが)、どんな映画の、どんな役をやっても、これぞ阪妻の代表作と言いたいくらい堂に入った名演ぶりだった。

 すべてをまかされた監督のほうも「阪東妻三郎という人の映画に懸ける意気込みと情熱を感じた」(と稲垣浩監督は回想録『日本映画の若き日々』に書いている)のも当然だったろう。「それで僕は、僕の阪妻を作りだそうと努力したのだ」と稲垣浩はさらに書いている。「僕は『十人斬りの男』という題で妻さんのために構想していたものを『地獄の蟲(むし)』と改題してシナリオとした。大悪党が死の寸前に人間の善を取り戻すというようなテーマであったから妻さんも大いに乗った。目的を果たし得た作品として出来上がったが、[戦時下で]内務省の検閲官はこれを懐疑的であると判断して、検閲保留とした。僕は原形を変えたくなかったので応じなかった。そのとき妻さんは「クサルことはないですよ。わしらはともかくりっぱな作品をつくって、それをこの目で見たのだ。それを大衆に見せなかったのは、わしらのせいじゃない」と慰めてくれた。このことは僕をたいへん勇気づけてくれた。その後『江戸最後の日』『無法松の一生』『狼火は上海に揚がる』『壮士劇場』などの作品を生むことができたのも、すべてはこの『地獄の蟲』がはじまりだったと言える」。

『無法松の一生』も検閲でズタズタにカットされるが阪妻の代表作として映画史には記録されることになる。代表作とまではならなかったが、戦後に『壮士劇場』を作った試写の晩、「これは無法松よりも演出がすぐれている。もし認められなかったら、それは批評家の頭のわるさと、終戦という混乱した時代のせいだ」と阪妻は稲垣浩監督を力づけてくれたとのことである。

イラスト/池田英樹

 1945年8月、終戦。日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)により映画、演劇における「封建的忠誠および復讐の信条に立脚する」ドラマは禁じられ、刀を抜いて人を斬ったりするチャンバラ時代劇は極端な制約を受け、時代劇スターたちはなんとか現代劇に活路を見出そうとして悪戦苦闘したが(1951年9月に調印された日米講和条約とともに制約は廃止されるが、それまで)阪妻は敗戦直後も、無法松ばりの野性的で善良な大井川の渡し人足を演じた人情劇『狐の呉れた赤ん坊』で大成功。監督は丸根賛太郎であったが、ここでも阪妻という「素材」を見事に生かしてみせた丸根賛太郎監督を阪妻は勇気づけ、さらにつづけて『月の出の決闘』を撮ることになる。占領下の束縛を見事に巧みにのがれた剣戟王・阪妻のチャンバラ活劇である。刀を抜いて人を斬るが(人斬りの用心棒の役である)、斬る相手は人間のクズとも言うべきヤクザである。たしかに、道義的に「封建的忠誠および復讐に立脚する」ドラマとは正反対の映画だった。

 ヤクザたちを斬りまくる『月の出の決闘』の名場面は圧巻のラストシーンで、阪妻は戦前からのコンビの名殺陣師、川原利一を特別に招いて(クレジットタイトルには「擬闘 川原利一」と出る)、美しく様式化されたダイナミックな斬り合いを見せる。テレビで見たサイレント時代の名作『雄呂血(おろち)』のすさまじい乱闘とはまた一味違った手さばき、身のこなしに圧倒され、魅了される。阪妻がついに死闘の果てに力つきて倒れた河原のかなた天空に満月だけが小さく残る印象的な画面も忘れがたい。

 戦前の——といっても、もちろん、戦後の映画ファンである私はずっとあとになって名画座の特集上映やビデオなどで見ただけなのだが——『忠臣蔵 天の巻/地の巻』の大石内蔵助や『江戸最後の日』の勝海舟を風格ゆたかな腹芸で演じた阪妻もすばらしかったけれども、『月の出の決闘』の白い装束に黒い帯あるいは黒い装束に白い帯、鮫鞘の太刀に一升徳利を片手にぶらさげ、爪楊枝を口にくわえた酔いどれ浪人の風情でヤクザの用心棒を演じてその凄腕を見せる阪妻というのも単純ながら颯爽としてすばらしい。茶屋の姉御(花井蘭子)のヒモのような阪妻が村の農民たちを教育する学者(青山杉作)に説教されて善にめざめるという、あたかも『地獄の蟲』以来の、薄っぺらな勧善懲悪を超えた、いかにも阪妻ならではの「人間が人間らしく、生地そのもので勝負する」魅力を感じさせる最高の阪妻映画の1本だ。

フェンシングの決闘で観客を魅了する“ダグ・ジュニア”

 ハリウッドにも、もちろん剣戟王がいた。ダグラス・フェアバンクス——ダグの愛称で親しまれた人気スターで、チャップリンと「終生変わらぬ友情」に結ばれた「天才」、その「独創的才能で、ずいぶんいろいろなえらいことをやってのけた」し、チャップリンとはよく「月並みながら哲学論議にふけった」りしたということだから(『チャップリン自伝』中野好夫訳、新潮社)、チャンバラ活劇の神話的なアクション・スターではあっても、その魅力と才能は「生地そのもので勝負する」という阪妻のように「学問はいらない」といった感じではなかったかもしれないが、「彼自身にそなわる並はずれた牽引力、それにまじりっけのない少年のような情熱」はわが阪妻にも共通するものだったような気がする。
 といっても、じつは今回取り上げるのは、偉大なるダグラス・フェアバンクスではなく、その息子、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアである。映画の創世記から黄金時代の大スターであった偉大な父親には比べようもないかもしれないが、私のような戦後の映画ファンには忘れがたい名優なのである。その代表作というほどではないにしても、「ダグ・ジュニアの父親ゆずりの軽快な剣戟が見もの」と評された(キネマ旬報『アメリカ映画作品全集』)『コルシカの兄弟』(1941年の作品で、戦後、1947年に日本公開された)がビデオ化されているので、どうしても見たくなって、この1本を取り上げることにした。久しぶりにどころか、初めて見るような気持ちで心ときめく。

イラスト/池田英樹

 冒頭、こんな字幕説明が出る。「コルシカは昔ながらの風習が息づく時代に取り残された風変わりな島である。愛と笑い声に包まれながらも復讐の地として知られ、一族の仕返しを定めた復讐の掟が残る。この美しい島に生まれた双子の兄弟がいた。これから語られるのは独特の風習が引き起こした血の報酬の物語である……」。

 山賊も貴族も入り混じって復讐に生きるという荒唐無稽な時代活劇で、貴族の子として生まれたシャム双生児が切り離されて別々に育ち、ひとりはパリの上流階級の紳士に、もうひとりはコルシカの山奥を根城にした山賊になるが、力を合わせて両親を殺してコルシカをわがもの顔に支配しつづけた豪族を滅ぼすまでの物語だ。

 ダグラス・フェアバンクス・ジュニアの2役で、同じ扮装の兄弟が画面に出ると当然ながらまったく見分けがつかないくらいだ。身体の一部が互いに癒着、連結したシャム双生児だった兄弟は、むずかしい手術で分離されたが、同じ感情と感覚を共有する分身同士なので兄弟のあいだには身体的なテレパシーがはたらくみたいに、お互いに遠く離れていても、ひとりが傷つくともうひとりもその傷の痛みを感じたりする。同じ赤い帽子をかぶり、同じ栗毛の馬に乗って、野を越え、森を抜けて、別々に敵の豪族の一味や臣下を別々に同時に襲って勝利を重ねていくが、パリ育ちの伯爵令嬢(ルース・ウォーリック)に兄弟が同じように恋をしてしまったときに思いがけない悲劇が起こる。令嬢は同じパリ育ちの兄弟の一方と結ばれるのだが、そのために兄弟のもう一方はあきらめきれずに死ぬほど苦しむことになる。「なんて奇妙な人生なんだ、笑いも涙も共有するのか? 俺は自分だけの人生がほしい。俺のなかに俺自身でなく兄弟がいるなんて耐えられない。こんな呪縛から解き放たれて自由に生きていきたい。俺は自分だけを感じて生きていきたいんだ」と山賊の分身は懊悩する。

 こうして熾烈な兄弟喧嘩がはじまる。どちらかが死ぬしかないのだが、ハリウッド製の娯楽作品である以上(監督はその手の娯楽映画には手なれたグレゴリー・ラトフである)、ハッピーエンドに終わらなければならない。伯爵令嬢が敵の豪族にさらわれ、その救出がクライマックスになる。大きな鏡のある一室で悪役のエイキム・タミロフとダグラス・フェアバンクス・ジュニアとのフェンシングによるラストの決闘はなかなかの見ごたえあるシーンだ。

イラスト/野上照代

山田宏一

やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。

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