映画評論家・山田宏一の今月の“2本立て映画”

映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、その時期に合わせた映画を「2本立て」(日本映画、外国映画)で紹介していただくコーナーです。最近とみに、かつて時代を担った俳優さんの訃報が続いていますが、追悼の意を込めて、『男はつらいよ』の脇役ぶりで楽しませてくれた佐藤蛾次郎さんと、グラマー女優として一世を風靡したラクエル・ウェルチさんの代表作について書いていただきました。

紹介作品

男はつらいよ

製作年度:1969年/上映時間:91分/監督・原作:山田洋次/脚本:山田洋次、森崎東/撮影:高羽哲夫/音楽:山本直純/キャスト:渥美清、倍賞千恵子、光本幸子、志村喬、森川信、三崎千恵子、太宰久雄、前田吟、秋野大作、笠智衆、佐藤蛾次郎


恐竜100万年

製作年度:1966年/上映時間:105分/監督:ドン・チャフィ/特殊視覚効果:レイ・ハリーハウゼン/脚本:マイケル・カレラス/キャスト:ラクエル・ウェルチ、ジョン・リチャードソン、パーシー・ハーバート、ロバート・ブラウン、マルティーヌ・ベズウィック

映画人が次々に亡くなって追悼にいとまがないくらいなのだが、ともすると忘れられがちな、いや、だからこそ、むしろ忘れがたい、邦洋の男優(といっても、スターでなく、それどころか、傍役中の傍役に徹した珍優などと言っては失礼かもしれないが、佐藤蛾次郎、2022年12月10日、78歳で死去)と女優(スターではあったが肉体美だけが強調され、完璧な曲線美とうたわれたグラマーなSF的美女、ラクエル・ウェルチ、2023年2月15日、82歳で死去)の思い出に日本映画を1本、外国映画を1本、市販のDVDあるいはブルーレイのなかからさがしだすことができた。というわけで、今回の2本立ては、時節柄ぴったりとも言っていい、こんな2本立てになった——早咲きの桜の季節にふさわしい『男はつらいよ』(第1作、1969年)と人類が遭遇した最初の春の珍事を描いたようなイギリスのB級映画会社、ハマープロ製作のSFトリック映画『恐竜100万年』(1940年のハリウッド映画『紀元前百万年』のリメークだが美しいカラー版である、1966年)である。

歯切れのいいナレーションで始まるやくざな兄と純真な妹の愛の物語。

『男はつらいよ』は白黒(というかセピア色)の画面いっぱいに満開の桜の花がそよ風に散る印象的な光景からはじまる。

耳に快く通る声でナレーションが聞こえてくる。

桜が咲いております。
懐かしい葛飾の桜が今年も咲いております。
思い起こせば20年前、つまらねえことで親父と大喧嘩、頭に血の出るほどぶん殴られて、そのままぷいっと家をおん出て、もう一生帰らねえ覚悟でおりましたものの、花の咲くころになると、きまって思い出すのが故郷(ふるさと)のこと。ガキの時分、洟(はな)っ垂れ相手に暴れ回った水元公園や江戸川の土手や帝釈天の境内のことでした。
風の便りに両親(ふたおや)も秀才の兄貴も死んでしまって、いまではたった一人の妹だけがいると知っておりましたが、どうしても帰る気になれず、今日までごぶさた打ち過ごしてしまいましたが、いま、こうして江戸川の土手で生まれ故郷を眺めておりますと、何やらこの胸の内がポーッとほてってくる気がいたします。
そうです。わたくしの故郷と申しますのは東京葛飾の柴又でございます。

歯切れのいい渥美清のナレーションである。『男はつらいよ』の主人公、寅さん(車寅次郎)を演じる渥美清である。そのころ読んだ「週刊朝日」の「遠近問答」という人気連載ページでも劇作家・放送作家の飯沢匡が「渥美清さんは口跡がいいですね。舞台で鍛えられたからだろうけれども、語り口が、声が、耳に快くはいるんですよ、メリハリがあって……」と語っていたことを思い出す。

桜の花吹雪と渥美清の語り口の心にしみいるナレーションではじまる『男はつらいよ』には、こうして一気に引き込まれてしまった。

『男はつらいよ』の前に、渥美清は棟田博原作による『拝啓天皇陛下様』(野村芳太郎監督、1963年)で戦争が終わったというのに泥酔して進駐軍のトラックにはねられ、それでも「天皇陛下バンザイ!」と叫んで名誉の戦死を遂げるという悲しくも滑稽な日本男児の肖像を造形・体現して大成功し、翌1964年には続篇もつくられ、山田洋次が脚本に一枚加わる。『日本男児はつらいよ』という題名も考えられていたというこの正続2作が寅さんというキャラクターの基本的なイメージをつくったといわれる。

イラスト/池田英樹

『男はつらいよ』は山田洋次の脚本で最初はテレビ・シリーズとしてつくられ(私はそのころテレビ受像機なども持っていない貧乏学生でそんなこともまったく知らなかったけれども)、最後は沖縄のどこかの島でハブに咬まれて死ぬということになっていたが、視聴者の猛反対にあったとのことだから、映画化される前から、大ヒットが約束されていたということなのだろう。その点では最近のテレビ・アニメの劇場版のような興行価値百パーセントと言ってもいいようなインパクトがあったのかもしれない。キネマ旬報別冊増刊「日本映画作品全集」にも「前にテレビ・シリーズとして放映されたが、ひとたび[松竹で]映画化されるや爆発的な人気を集めて、たちまち松竹のドル箱シリーズとなった」と記されているし、その人気の内容も簡潔に要領よくまとめて解説されているので(執筆者は当時報知新聞の記者でもあった深沢哲也氏である)、以下、引用させていただくと——

一言でいえば、なつかしい故郷へ帰ってきて、失恋のすえ故郷をはなれて行くトンマな香具師の物語だが、オッチョコチョイでお人よしで、ひとりでイキがっている男・寅さんと、彼をめぐる叔父夫妻(森川信、三崎千恵子)、妹さくら(倍賞千恵子)たちの善意あふれる生活の哀歓を健全な笑いとペーソスのなかに明るく描き出したところが秀逸である。第1回は、寅さんが妹さくらの結婚に立ち会う話と、帝釈天のお嬢さん(光本幸子)に失恋するストーリー。

映画の冒頭、セピア色の画面いっぱいに咲き誇る桜に寅さんのナレーションが流れたあと、画面はカラーになり、お寺(帝釈天)の門がうつる。

原作・監督/山田洋次というクレジットが出て、次いで晴天下の土手にすわる寅さんの遠景がとらえられ、いまや誰もが知る啖呵(たんか)というか、仁義というか、香具師・車寅次郎の自己紹介の挨拶が聞こえてくる。

わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。
帝釈天で産湯をつかい、
姓は車、名は寅次郎、
人呼んで、フーテンの寅と発します。

そして、主題歌(これも渥美清が歌っている)が流れる。

♩俺がいたんじゃ お嫁にゃいけぬ
 分かっているんだ 妹よ
 いつかおまえが喜ぶような 偉い兄貴になりたくて
 奮闘努力の甲斐もなく 今日も涙の
 今日も涙の 陽が落ちる

と、これが「たった一人の」妹への慕情と言ってもいい愛を歌っていることにあらためておどろく。そして、この可愛い「妹」の名がさくら、旧漢字で「櫻」と書くのが正しく、映画のなかでは寅さんの口から「木(き)偏に貝の字が二つ、その下に女と書いて櫻(さくら)」、つまり「二階の女が気にかかる」と見事なダジャレによる解説がなされるのだ。

あえて深読みをするわけではないのだが、『男はつらいよ』はダメ男の兄貴としっかり者の妹の絆(きずな)、やくざな兄とつましく地道に生きる純真な妹の愛の物語なのである。山田洋次版「あにいもうと」と言ってもいいかもしれない。

妹にだけは恥ずかしいところを見せたくなかったが、妹まで恥ずかしい目にあわせてしまって、面目なく、うなだれて、桜の花が散ってしまう頃には「妹よ、俺は出て行く、旅の空」ということになるのだが、さくら(桜)の花と妹のさくらを混同してしまいたくなるくらいの抒情的展開である。

一方、おいちゃん(森川信)ときたら、「おい、さくら、枕(まくら)取ってくれ」と言うのに「おい、まくら、さくら取ってくれ」なんて、ダジャレのような混同ぶりだ。

ところで、佐藤蛾次郎は、どんな役で出てくるのかというと、帝釈天の御前様(笠智衆)の下で働く寺男で、源公と呼ばれ、竹ボウキを持って落葉の掃除をしたりしてはいるのだが、その後のシリーズでもずっとレギュラー(常連)になるものの、ただそこにいるだけで邪魔になるばかりかと思えば、寅さんがなにやら恥をかきそうだというあやういところをそっと木かげからのぞいていたり、横長の大きなスクリーンのなかで(『男はつらいよ』は、テレビの小さな画面でなく映画館の大きなスクリーンで見てくださいといわんばかりに、当時すでにめずらしくなっていた横長の拡大シネマスコープ・サイズで撮影された)、寅さんがついに大恥じをかいてしまうところを目撃、遠くのほうで指をさして大笑いしていたりしているのが源公こと佐藤蛾次郎なのだ。単なる寺男にしては神出鬼没、舞台なら「蛾次郎!」と声がかかりそうな出演である。出てくるだけでギャグになるような存在と言ったらいいか。シリーズ50作中第8作の『男はつらいよ 寅次郎恋歌』(1971年)にのみ撮影直前に交通事故で入院して出演していないのだが、いてもいなくてもいいような存在なのに、いないと寂しい、そんな名物役者だった。

ラクエル・ウェルチの現実離れした美しさが際立つ空想科学映画。

イラスト/池田英樹

『恐竜100万年』(ドン・チャフィ監督)の原題は『紀元前100万年』で、巨大化した恐竜は約6千600万年前の白亜紀の終わりには隕石衝突で絶滅していたはずなのでは……? といったような疑問はこの種のSFトリック映画にはもちろん無用不要だ。モデル・アニメーションとか人形アニメーションとか呼ばれた特撮の魔術師、レイ・ハリーハウゼンの手にかかれば、どんな恐竜も本物に見えるから不思議だ。不思議どころか、実際、恐竜と同じようにうごめく巨大なクモやイグアナは生きた実物を大きく見せるように合成したものだった。レイ・ハリーハウゼンのアニメーションによる恐竜の生態描写の見事さゆえに、他のドラマはなきに等しいという評価もあったくらいだが、たしかに、いや、しかしながら、山岳地帯の穴居部族の男(ジョン・リチャードソン)と海辺部族の女(ラクエル・ウェルチ)との出逢いと恋(と言っていいのやら)を中心のドラマとも言えないドラマに見るべきものといえば一世を風靡した原始時代の毛皮のビキニ風衣装で(『恐竜100万年』のエロチックなラクエル・ウェルチのポスターは世界中あちこちで剥がされて盗まれたとのこと!)、汗っぽくない、さわやかなセックス・シンボルになったラクエル・ウェルチのSF(空想科学)的な、現実ばなれした美しさは圧巻で、レイ・ハリーハウゼンの精巧なアニメーション以上に、安っぽくちゃちなドラマを引き立てて、映画の魅力をふくらませていることもたしかだ。刑務所のドラマを描いたフランク・ダルボン監督の実話にもとづくという『ショーシャンクの空に』(1994年)という映画では、死刑囚や終身刑の囚人たちが監房に飾って夢中になる三代にわたるスター、セックス・シンボルのポスターが時代順に『ギルダ』(1946年)のリタ・ヘイワース、『七年目の浮気』(1955年)のマリリン・モンロー、そして『恐竜100万年』のラクエル・ウェルチだったことも思い出される。

イラスト/野上照代

山田宏一

やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。

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