映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、その時期に合わせた映画を「2本立て」(日本映画、外国映画)で紹介していただきます。今月は雪の季節に合わせて、ご存知チャップリンの『黄金狂時代』と、名匠、川島雄三監督の『幕末太陽傳』です。共に大いに笑わせてくれますが、深いテーマを感じさせる不朽の名作です。
紹介作品
黄金狂時代
製作年度:1925年/上映時間:72分/監督・脚本・製作・ナレーション:チャールズ・チャップリン/撮影:ローランド・トザロー/美術:チャールズ・D・ホール/キャスト:チャールズ・チャップリン、ジョージア・ヘイル、マック・スウェイン、トム・マレイ、ヘンリー・バーグマン、マルコム・ウェイトほか
幕末太陽傳
製作年度:1957年/上映時間:110分/監督・脚本:川島雄三/共同脚本:田中啓一、今村昌平/撮影:高村倉太郎/音楽:黛敏郎/美術/中村公彦、千葉一彦/編集:中村正/キャスト:フランキー堺、南田洋子、左幸子、石原裕次郎、芦川いづみ、市村俊幸、金子信雄、山岡久乃ほか
もう雪の降る季節になって、雪が印象的に使われている映画の2本立てを考え、こんなきっかけで面白い映画を見られたらと思って市販のDVD、Blu-rayディスクをさぐってみた。
心にしみる人生劇、せつなく悲しい涙と笑いの人間ドラマ
まずは世界的な名作と言っていいチャップリンの『黄金狂時代』(1925)。原題は『The Gold Rush(ゴールド・ラッシュ)』。1848年にカリフォルニアのアメリカン川沿岸での砂金発見からはじまるゴールド・ラッシュのさなかに起こったアメリカ西部開拓移住団壊滅の悲劇(シェラ・ネヴァダ山中で遭難したダナー一行の幌馬車隊60台160人のうち、ほんの数名を残して、内紛による殺し合い、飢餓のための人肉嗜食などによる壊滅事件)をヒントにつくられたが、映画では1880年代のゴールド・ラッシュの北国アラスカが舞台になっている。たぶん雪のフォトジェニー(写真うつりのよさ)のせいかと思われる。全篇、雪の山中のドラマである。今風に言えばホワイト・アウト、極地で雪原と雲が一続きに見えて天地の識別がつかなくなる現象がすさまじくリアルに描かれ、猛吹雪のなかの小さな、しかし忘れがたい、チャップリンならではの爆笑のギャグの連続とはいえ、それがクライマックスではない。喜劇王チャップリンの映画だから、喜劇であり、腹の底から笑える喜劇なのだが、心にしみる人生劇、せつなく悲しい涙と笑いの人間ドラマだ。
冒頭、雪に埋もれた山中に一攫千金を夢みて金鉱さがしの長蛇の列がつづく。雪深い山中にもおなじみの細いステッキを忘れない(雪のなかに突き刺さって役に立たないのに!)チャップリンがテントを張るための白い布を細長く折りたたんで金鉱を掘るためのツルハシをまるで十字架を思わせる感じに結びつけてリュックサックのように背負い、鍋にコーヒーポットなどもぶらさげて、崖っぷちをあぶなっかしい足取りで進む。大きな熊が一頭、のそのそとついてくる。あやうしチャーリーと思いきや、何事も起こらないというおかしさだ。
人生は近く(クローズアップ)で見れば悲劇だが、遠く(ロング・ショット)で見れば喜劇だ」というチャップリンの名言が想起される。悲惨な開拓史の実話から、「これはすばらしい喜劇になる」と思いついたことについて、チャップリンは「自伝」(中野好夫訳、新潮社)にこんなふうに述懐している。
「喜劇つくりについて一言すると、逆説かもしれぬが、しばしば悲劇がかえって笑いの精神を刺戟(しげき)してくれるのである。思うに、その理由というのは、笑いとは、すなわち反抗精神であるということである。わたしたちは自然の威力というものの前に立って、自分の無力ぶりを笑うよりほかにない——笑わなければ気がちがってしまうだろう。カリフォルニアへ向かう途中、道に迷って雪のシェラ・ネヴァダ山中で遭難したダナー一行のことを、本で読んだことがある。百六十人の開拓者のうち、生き残ったのはわずか十八名、しかもその大部分は飢えと寒さのために瀕死の状態だったという。飢えに耐えかねて、あるものは人肉をくらうし、あるものは靴の革まで焼いて食ったとある。
この痛ましい悲劇の記録から、わたしはもっとも喜劇的なシーンの一つを考えついたのである。すさまじい空腹に耐えかねて、わたしは靴をゆでて食べる。まるでおいしい鶏肉の骨であるかのように、靴底の釘(くぎ)をつまみだし、スパゲティのつもりで靴紐(くつひも)を食べる。一方相棒のほうは、空腹の生み出す幻覚で、わたしをニワトリだとばかり思いこんで食べようとする。」
イラスト/池田英樹
ボイルドチキンのように煮でたドタ靴を優雅に賞味する名場面は、靴底のクギの1本、1本を小骨のようにしゃぶったり、筆舌に尽くしがたいおかしさ、せつなさである。擬態の名人チャップリンが大きなニワトリになって、飢えた相棒の大男(マック・スウェイン)に銃撃され、追いまわされるすさまじいドタバタにもおどろかされる。
夜、眠っているうちに強風で移動してしまった小屋が半分断崖から転落しかけているのも知らずに、大男とチャップリンがあたふたするギャグ(これにヒントを得たにちがいない、ドリフターズの人気テレビ番組「8時だョ!全員集合」の十八番の仕掛けギャグを思い出す人もいるだろう)がクライマックスになると言ってもいいぐらいだが、クリスマスの夜の夢のシーンのように素敵なロールパンのダンス(テーブルでロールパンにフォークを刺してダンスのステップを演じてみせる至芸としか言いようのない見事な手と指のパフォーマンス)のシーンもすばらしく、ゴールドラッシュで沸くブーム・タウンのキャバレーの美女(ジョージア・へール)にたぶらかされ、笑いものにされるチャップリンのあわれさ。ホワイト・クリスマスを祝うはずだった食卓の準備もむなしく、ひとりチャップリンは雪のなかをさまよう。大晦日にはブーム・タウンのキャバレーは大賑わい、「蛍の光」を大合唱して踊りまくる男女の群れ。新年を迎えて「ハッピー・ニュー・イヤー」と祝福し合うキャバレーの男たちと女たち。ふと、キャバレーの美女がチャップリンとの約束のディナー・パーティを忘れてしまったことに気づくのだが……。
ラストは、金鉱の発掘で俄(にわ)か成金名士となったチャップリンがキャバレーの美女と結ばれるという唐突のハッピーエンド。「この映画の製作中に二度目の結婚をした」とチャップリンは「自伝」のなかでその幸福感を率直に述べているが、映画のハッピーエンドにも、もしかしたら、自ら祝福したい、そんな気分が反映していたのかもしれない。
狂ったように突っ走る映画的疾走感に圧倒される
雪は雪でも侘しく消え残ったような残雪、それも春になっても残っているというのではなく、まだ寒い正月明けの、前夜古びた墓地に降った小雪の残骸みたいな寒々とした不吉なラストシーンの風景が奇妙に重苦しく印象に残って、ずっと気にかかっていた1本の日本映画がある。それが異色の名作で、こんなに面白い、愉快痛快な映画はめったにない川島雄三監督の『幕末太陽傳』(1957年)である。
そのイキのよさ、勢いのすごさ、力強くダイナミックな展開、狂ったように突っ走る映画的疾走感に、ただ、ただ、圧倒されよう。主役の居残り佐平次に扮するフランキー堺が、さりげない妙技と言っていいような、羽織をさっと頭上に投げ上げるや両手を差し出して素早く着込み、滑るように走り出す洒落た軽快なスピード感そのままに、映画もあっという間に時を超えて走り抜ける。
うれしいことに川島雄三監督100周年記念のデジタル修復版のBlu-rayディスクで見られる『幕末太陽傳』の画面は白黒の映像の美しさを鮮明によみがえらせて、それだけでも心ときめく快感がある(キャメラは名手・高村倉太郎)。黛敏郎の音楽も軽快に、たのしく、快調そのもの。主役のフランキー堺だけでなく端役、傍役、名優ぞろいで誰もがいきいきと演じて一瞬たりとも飽きさせない。
開巻、列車が走る「現代」の風景が出てくる。かつてこのあたりは東海道五十三次の第一宿駅、品川宿だったというようなナレーションが入る(語り手は本篇がはじまると貸本屋あばたの金造の役で出てくる小沢昭一である)。
ナレーションとともに、時代は「現代」から文久2年(1862年)11月の江戸・品川宿にフラッシュバック。江戸幕府が崩壊して天皇を中心とする新政府が成立する1867年の大政奉還、明治維新まであと5年という幕末の動乱期である。
古典落語の名作、『居残り佐平次』『芝浜』『品川心中』をネタにした川島雄三の原案による脚本には助監督の今村昌平も協力している。落語の人物(居残り佐平次)と歴史上の人物(幕末の志士、高杉晋作)がいっしょに出てくるというスリリングな設定だ。長州藩士で倒幕派のリーダーだった高杉晋作を演じるのは若き日の石原裕次郎(モダンな侍すがたがすごくいい)。同じく尊王攘夷論の急進派の雄だった久坂玄瑞を小林旭が生真面目な若僧面で演じている。
イラスト/池田英樹
ホテルのような場所(映画の舞台になる「相模屋」という看板のかかった遊女屋)に多彩な人物出たり入ったりして多彩なドラマがくりひろげられる「グランド・ホテル形式」のような構成なので、主役の佐平次の目から見た(あるいはむしろ佐平次が狂言回しになって)多彩な人間模様が実に面白おかしく描かれる。二大女優、左幸子と南田洋子が御職女郎(遊女屋で一番上位の人気女郎)のすべてを競い合う女の闘いもすさまじく、遊郭における人気回復のために心中を企てた左幸子の女郎・おそめが相手の男は誰でもかまわない、お人好しで助平な貸本屋(エロ本を売りに女郎屋に出入りしている)、あば金(あばたの金造)なら誘いにすぐ乗るだろうと誘惑し、今にも雪の降りそうな寒空の下、どぶ川にいざドボンと手に手を取ってとびこむ段になって女郎・おそめの心変わり、ふんどし一つの死装束のあば金だけが押されてどぶ川に沈められ、「金ちゃん、悪く思わないでおくれ」と女郎・おそめに見捨てられる。やがてどぶ川(そこは浅瀬だったのだ)から浮かび上がったものの、これではまったく浮かばれない小沢昭一のあば金がだまされたくやしさと寒さに身ぶるいして、悪く思わないわけないだろと泣きめき、幽霊になって女郎・おそめに復讐を誓うのだが、その成果は見てのお楽しみと言うしかない。殿山泰司と加藤博司の親子が南田洋子の女郎・おはるに親子丼よろしくぞっこんで相模屋で思いがけない鉢合わせという修羅場にフランキー堺の居残りさん(と佐平次は呼ばれる)が乗り込んでどんな手を打つか、一刀両断とはこのことか、これまた見てのお楽しみと言うしかないおかしさだ。どのエピソードにも主役がいるという面白さがきわだっているのである。女郎に身売りされることになった可憐な女中・おひさ(芦川いづみ)を佐平次が救い出して裕次郎の高杉晋作に立合人としてささやかな結婚式の祝言まであげさせる感動的な、人情味あふれるエピソードもある。胸の病で女だけには手を出さないが無銭飲食でやりたい放題、商売繁盛のコツを心得た口八丁手八丁の大業小技を弄して見事に相模屋に居座った知恵者・佐平次の破天荒の大冒険といったところ。
巨匠とか名匠とかでなく、異才・鬼才といわれた(45歳で夭逝した)川島雄三の人となり、映画となりについては元『キネマ旬報』編集長の映画評論家、白井佳夫氏の次のような一文を引用、紹介させていただきたいと思う。
「川島雄三の映画は軽妙な都会的風俗喜劇から、奇妙な戯作者意識の濃厚な重喜劇、あるいは抒情的なメロドラマから重厚な陰影に富んだ人間劇まで、複雑多岐にわたって、一筋縄では集約し難い。商売用の歌謡メロドラマや手のつけられぬプログラム・ピクチャーがあるかと思えば、ベスト・テン級のユニークな秀作も数多く、それがまた川島雄三作品ならではの特質となっている。そして、そのすべてが、ダンディでシャイで、孤独で、狷介孤高ともいうべき彼の性格と精神を反映したものとしてつながっている。」(『キネマ旬報』増刊「日本映画監督全集」より)
イラスト/野上照代
山田宏一
やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。