映画評論家・山田宏一の今月の“2本立て映画”

映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、その時期に合わせた映画を「2本立て」で紹介していただくコーナです。今月は、日本映画の2本立てです。映画史に残る時代劇スター、阪東妻三郎(阪妻)主演の名作2本——『狐の呉れた赤ん坊』と『無法松の一生』を取り上げます。剣戟だけではない、人間的魅力にあふれた演技を披露した阪妻の偉大さに触れてみてください。

紹介作品

狐の呉れた赤ん坊

製作年度:1945年/上映時間:85分/監督・脚本:丸根賛太郎/撮影:石本秀雄/音楽:西梧郎/出演:阪東妻三郎、橘公子、羅門光三郎、寺島貢、谷譲二、光岡龍三郎、見明凡太郎、阿部九洲男、藤川準、水野浩、原健作、澤村マサヒコ(津川雅彦)ほか


無法松の一生

製作年度:1943年/上映時間:85分/監督:稲垣浩/脚本:伊丹万作(岩下俊作『富島松五郎傳』による)/撮影:宮川一夫/音楽:西梧郎/出演:阪東妻三郎、月形龍之介、永田靖、園井恵子、川村禾門、澤村アキヲ(長門裕之)、杉狂児、山口勇、葛木香一、尾上華丈ほか

剣戟王として名声をほしいままにした大スター

 今回の“2本立て映画”は日本映画だけになってしまった。『狐の呉(く)れた赤ん坊』と『無法松の一生』である。かつて剣戟王とよばれた阪妻こと阪東妻三郎という偉大な時代劇スターがいた。年末にテレビの日本映画専門チャンネルで、『阪妻と雄呂血(おろち)』という記録映画が放映され(再放映だったが…)、1925年、まだ無声映画時代に、時代劇を革新した名作『雄呂血』の4Kデジタル修復版がつくられた事情とそのチャンバラ(立回り)に迫真の息吹をもたらした新鋭スター、阪東妻三郎(『雄呂血』に出演したのは25歳のときである)の在りし日の姿を描いた番組だった。キネマ旬報「日本映画人名辞典」の阪東妻三郎の項には、『雄呂血』の監督、二川(ふたかわ)文太郎が阪妻の立回りの鮮烈な新しさについて語ったこんな賛辞が引用されている——「当時の立回りではひとり斬るごとに見得(みえ)を切った。しかし、斬っちまえばもう敵じゃない。そのつぎの敵におそいかからなければウソだ。それを妻三郎にやらせるとじつにうまい。斬っても目を左右にギラギラ光らせる。つぎの襲撃にうつる。そのすばやさ。こんなにすばらしい剣劇俳優はほかにいるものか、と思った。あの猫背も、そのとき肩に力をいれた身構えから自然になったものだ……」

 阪妻の剣戟王としての名声を不動のものにした一作が『雄呂血』だった。若くして剣戟王になった阪妻だったが、その後のキャリアは常に順風満帆というわけではなかった。とくに1930年代の初め、日本映画がトーキー時代に転換しつつあるなかで阪妻の人気は急落した。阪妻の声は細くて甲高く、台詞回しも活弁口調で(と伊藤大輔監督はどうしようもないひどさだったと回想している)、無声映画では豪快な演技で太いたくましい声を期待していたファンは剣戟王らしからぬ阪妻の台詞にいたく失望したとのこと。そこで、伊藤大輔監督の心ある忠告や教示もあって、努力に努力を重ね、あの、腹の底から絞り出すような、低い声をゆっくりと長く引いて出す、やさしい唸り声にも似た独特の阪妻口調を生み出したのだという。短い台詞はいいけれども、長い台詞になるとちょっとお説教調になってつらい感じもあるのだが、豊かな表情や芝居のうまさにマッチした魅力的な阪妻節として成功したと言えるだろう。

戦後の制約のなか愛嬌のある人足役で新境地

イラスト/池田英樹

 私が初めて見た阪東妻三郎の映画は1945年の人情時代劇『狐の呉れた赤ん坊』(丸根賛太郎監督)だった。敗戦とともに占領軍総司令部(GHQ)によって映画・演劇における「封建的忠誠および復讐の信条に立脚する」ドラマが否定され、禁じられたため、時代劇は極端な制約を受けることになり、阪妻も剣戟王どころか、人を斬る刀とは無縁のしがない人足の役を演じることになり、といってもその無類の人なつこく愛嬌のある豪放さがすばらしく(『狐の呉れた赤ん坊』の阪妻は張子の寅八、寅さんと親しげによばれる乱暴者だが気のいい大井川の渡しの人足を演じて忘れがたい名演だった)、KADOKAWAからDVDが発売されているので、久しぶりに見て、その古めかしくも落着きのある白黒の画面に懐かしい昔話の世界にゆったりとひたるような感銘を受けた。

 映画は「むかし……/大井川の/西の渡し場/金谷(かなや)の宿(しゅく)に/張子(はりこ)の寅八(とらはち)/といふ男が居た」という説明字幕が入ってはじまり、「なにはや」という看板の居酒屋で大あばれしている阪妻の張子の寅八が紹介され、しょっちゅうそんなふうにあばれているらしい寅八にしぶい顔をしながらもあきらめている店のおやじとか、「寅さん、もういいかげんにやめなさいよ」と叱りつけるしっかり者の愛らしい娘のおとき(橘公子)なども紹介される。そこへ街道筋の森にコンコン様(狐)が化けて出たという知らせが入り、われらの寅さんが狐退治に暗い森の奥へ…そして狐が化けたらしい赤ん坊をつかまえて連れ帰る。ところが朝まで寝ずに見張るけれども、赤ん坊は泣くだけで、化けの皮を現さない。どうやら捨て子らしい。始末に困った寅八は森へ赤ん坊を戻しに行くが、そっと寝かせて立ち去ろうとすると赤ん坊に泣かれて、とても捨てきれずにまた連れ帰り、可愛い赤ん坊を自分の子として育てることになる。自分は死んだつもりで赤ん坊を立派な子に育ててみせると決心し、名前も善太とつけ、まるでチャップリンの『キッド』(1921年)のようなちゃん(父)とぼうず(善太)の愛の生活がはじまる。それまでの暴れん坊の寅さんが人が変わったように子育てに挺身する。すくすくと育った7歳の善太を演じるのは澤村マサヒコ(のちの津川雅彦)である。やがて出生の秘密があばかれ、善太は大井川の東のさるお殿様のご落胤だったことがわかり、世継の若君として迎えられる運命だ。ほほえみとおそらくは一粒の涙の物語が展開する。子供の将来のために悩みに悩んだ寅さんは「もう一度死ぬ」覚悟で、自分の育てた子供の「めでたい門出」を祝い、善太を肩車に乗せて大井川を渡る。

「善太は/江戸藩邸に居る/血脈(ほんとうの)父君に対面すべく/大井川を渡って/東へ行く事になった」というのが最後の説明字幕になって、エンドマークが出る。オトギ話のような結末である。

無知で貧しい車夫を演じ映画史に残る名演技

イラスト/池田英樹

 こうした庶民的な阪妻のキャラクターをつくった最初の映画が日本映画の名作として知られる『無法松の一生』(稲垣浩監督、1943年)であった。これもKADOKAWAから発売されているブルーレイディスクで見た。戦時下の検閲で大事なシーンがカットされたなまなましい不完全版である(これしか残っていないのだ)——その事情というよりも歴史的運命とともに映画のすべてを克明に解説した52ページもの特製ブックレット(太田米男元大阪芸術大学教授による論文「映画『無法松の一生』再生(Ⅰ)〜(Ⅳ)」)入りのコンパクトながら豪華版であり、GHQの検閲によるカットシーンをふくむドキュメント入りだ。

『無法松の一生』の阪妻の役はそれまでの時代劇の大スターに誰も想像すらしていなかったという、しがない無知で貧しい人力車夫だった。阪妻は自ら人力車を引いて役柄を研究し、工夫して、車夫の生活なども日常的に学んで、ついに日本映画史上の名演の一つに数えられる演技を生み出したとみなされた。それは、前述のキネマ旬報『日本映画人名辞典』にも賞賛されている「下賤な野人の持つ高貴な魂の表現」であり、以後、舞台化されたり再映画化されたりしたが、無法松といえば、「無知で貧しくて粗暴ではあっても、これほど善良で純真な男はいないという、庶民の理想像として長く語り伝えられるようになった」のである。無知な庶民のなかの純粋無垢な魂こそ真の美徳なのだ——阪妻はそういうタイプの人物を演じて並ぶ者なき名優となったと言えるかもしれない。

 仮に阪妻の映画が『無法松の一生』だけだったとしても、「これ一つで日本映画史上不滅の名作としてかがやきつづけるだろう」とシナリオ作家の星川清司は『大映京都撮影所 カツドウヤ繁昌記』(日本経済新聞社)のなかに書いている。六代目尾上菊五郎は、この映画の阪妻を観て、「うめえ、文句のつけようがねえ」と唸ったそうだとも書いている。「これはもう演技ではない。富島松五郎なのか阪東妻三郎なのかわからなくなっている。演技を超えた存在だ。役者が演技を超えて富島松五郎に化身した格別の作品だった。役者として、こんな幸福がまたとあろうか。ほんとうに、どの場面をおもいうかべても、そこには富島松五郎だか阪東妻三郎だかわからない、貧しくて無知で高貴な魂をもつ男がいる。なつかしい日本のおとこがいる」。

 いかにも演技っぽくて「誇張された名演技」とも評されるものの、これこそ阪妻ならではの、これぞ阪妻とも言うべき、その堂に入った見事さといったら、名演技以上の名演技だ。原作は岩下俊作の『富島松五郎傳』だが映画化の成功のあとは原作も『無法松の一生』という題になってしまったほど阪妻無法松のイメージが決定的なものになった。父親を失った少年(演じるのは澤村アキヲ、のちの長門裕之で、『狐の呉れた赤ん坊』に出ている澤村マサヒコ/津川雅彦の兄である)をわが子のように溺愛し、そのしとやかな美しい母(園井恵子)、未亡人になった、それも軍人の未亡人を愛してしまった無法松はこらえきれずに、ある夜、彼女の前で涙を流し、手をついて詫びる。「わしの心は汚い…」。そして雪の降りしきる路上に倒れてのたれ死にしてしまうのだが、この涙なくしては見られないシーンは、当時の検閲でばっさりとカットされた。軍人の未亡人に人力車夫のようなむさくるしい身分の低い男が恋心を抱くというだけでも許されなかった戦時中の悲しいドラマなのである。そんな無残で悲惨な役柄を気高く、せつなく演じられる名優が阪妻であった。稲垣浩監督はのちにこのカットされたシーンをふくめて『無法松の一生』の完全版をめざし、三船敏郎主演で(阪妻は1953年に51歳で亡くなっていた)1958年に再映画化し、ヴェネチア国際映画祭に出品して栄誉あるグランプリを受賞した。賞を取ったことのうれしさ以上に、執念と言っていいくらいの、やっと作品がこれでむくわれた思いだったのだろう。映画祭の授賞式のあと、すぐ日本に「トリマシタナキマシタ」と電報を打ったことはよく知られている。

イラスト/野上照代

山田宏一

やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。

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