映画評論家・山田宏一の今月の“2本立て映画”

映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、とっておきの映画を「2本立て」で紹介していただくコーナーです。日本映画は、先月に引き続き高峰秀子の主演作の中から、名実ともにトップスターになった時期の名作の一本『あらくれ』を取り上げます。そして外国映画は、この6月に惜しくも亡くなったフランスの女優、アヌーク・エーメに追悼の意を込めて、初期の主演作で初々しい美しさが際立つ『火の接吻』です。ふたりの名女優の魅力にぜひ触れてみてください。

紹介作品

あらくれ

製作年度:1957年/上映時間:121分/監督:成瀬巳喜男/原作:徳田秋声/脚色:水木洋子/撮影:玉井正夫/音楽:斎藤一郎/出演:高峰秀子、森雅之、加東大介、上原謙、三浦光子、志村喬、仲代達矢、東野英治郎、岸輝子、宮口精二ほか


火の接吻

製作年度:1949年/上映時間:105分/監督:アンドレ・カイヤット/脚本:アンドレ・カイヤット(原案)、ジャック・プレヴェール(脚色・台詞)/音楽:ジョゼフ・コスマ/撮影:アンリ・アルカン/出演:セルジュ・レジアニ、アヌーク・エーメ、ピエール・ブラッスール、ルイ・サルー、マルセル・ダリオ、マルティーヌ・キャロル、シャルル・ブラヴェットほか

 今回の2本立ては日本映画が高峰秀子のつづきとして『あらくれ』(成瀬巳喜男監督、1957年)、外国映画がちょっと遅ればせの追悼になるけれども6月18日、92歳で亡くなったフランス女優アヌーク・エーメのデビュー当初の『火の接吻』(アンドレ・カイヤット監督)である(DVDで発売されて、まさか見られるとは思わなかった)。ともに忘れがたい名作(と言ってもいいと思う)白黒の美しい映画だ。

卓越した演出に支えられ至高の演技を見せる高峰秀子

 否応無しに映画ひとすじと言うべきか(結果としては運命的に、と言うべきかもしれないが)、何よりもまず「私には子供時代がなかった」と高峰秀子自身が回想するように、いわば生まれながらに映画界に引き込まれ、戦前、5歳から撮影所育ちの子役時代にもう愛称デコと呼ばれて売れっ子になり、戦中は『秀子の應援團長』や『馬』などで少女スターに、そして戦後は成瀬巳喜男、木下惠介という2人の名監督にとくに愛され、引っ張りだこで(木下監督作品には15本、成瀬監督作品には17本出演)、『カルメン故郷に帰る』のように明るく軽快な作品もあれば、『浮雲』のように暗く重苦しい作品もあるが、瀬戸内海の小島の新任教師と12人の貧しい子供たちの心あたたまる涙の感動作『二十四の瞳』やしがない灯台守の美しい夫婦愛を描いた『二人で歩いた幾春秋』など、名作、ヒット作がつづいて、押しも押されもせぬ大スターになり、名実ともに日本映画界のトップ女優としてのキャリアを築き上げた高峰秀子である。

 何をやっても、どんな役を演じても、見事に高峰秀子ということになるのだが、もちろんそれは一本調子ということではない。役になりきってしまって、単に演じているような感じがしないくらい迫真的なのだが、だからといって熱演、力演というのでもない。あまりにも自然に、何もかもあたりまえのように演じてみせるので、何を見ても高峰秀子でしかありえない、高峰秀子にしかできないような感じなのだ。その多彩な演技力は女優としての人間としての、生まれつきの、地、もちまえというだけものものではないかもしれない。名匠とみなされるほどの監督の演出力によるところも大きいだろう。たとえば、成瀬巳喜男の映画についての最初の最もすぐれた研究書として知られる「成瀬巳喜男 日常のきらめき」(キネマ旬報社)の著者、スザンネ・シェアマンは、林芙美子の自伝的小説を映画化した成瀬巳喜男監督の名作『放浪記』(1962年)のヒロイン林ふみ子に扮した高峰秀子をこんなふうに絶賛している——「成瀬[巳喜男監督]の卓越した演出によって、高峰秀子は至高の演技を披露して見せる。歩き方、姿勢、顔つき、視線を始め、女優、高峰秀子はヒロイン・林ふみ子の背後に全くかき消えてしまう。原作小説で描かれた頑固で、衝動的で、不安定なふみ子像は映画で見事に表象されている。」

 私がもっとも感銘を受けた(今回も久しぶりにビデオで見直してただもう圧倒された)『あらくれ』もまた、その「卓越した演出によって、高峰秀子は至高の演技を披露して見せる」傑作——最高作と言いたいくらい力強く感動的な作品である。しかしながら、スザンネ・シェアマンによれば「自然主義文学の金字塔とも称される」徳田秋声の小説を1957年に成瀬巳喜男監督が映画化した「受け身でない女」お島がこの「大正もののヒロイン」で、いつもながらの成瀬調の流れに欠ける(とまでは言ってないものの)といった程度の評価で、「手堅い作品ではあったが成瀬ごのみの世界とはいえず、半端な出来に終わった」という手厳しい佐藤忠男の評価(キネマ旬報増刊「日本映画作品全集」)を想起させもするが、それはそれとして、「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」という林芙美子の名言で閉じられる『浮雲』(1955年の成瀬巳喜男監督作品だった)以来、女の哀しみや苦しみを一身にひきうけたようなヒロインばかり演じてきた高峰秀子が『あらくれ』では何もかも我慢しきれずに激情をいっきょに爆発させたかのごとく、好色でケチで不甲斐ないくせにわがままな(物語が大正という時代が時代とはいえ、商売がてら浮気が妾の一人でも囲うほどになると男の甲斐性のようにみなされるといった)男性中心の制度のなかで、思いきり大声を上げて口論をしたあげく家を飛び出し、気は荒くても男の情にほだされやすく、宿の女中として働くけれども病弱の妻が寝込んだままで孤独な主人にくどかれて身をまかせ(その一瞬、宿の庭の木に積もった雪がどさっと音をたててくずれ落ちる場面が映画的に強烈に印象的だ)、家を飛び出して別れた缶詰屋の主人(上原謙)以上に男前なので(演じるのは森雅之である)愛人関係をつづけながら(突然、熱海の海岸を散歩する男女が画面に出てくるのだが、それは愛人関係のふたりが映画館で見る弁士付きの無声映画のワンシーンで、『あらくれ』の原作者徳田秋声の師であった尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の映画化の貫一お宮の二人連れである)、愛人といっしょになれないので、洋服屋の職人(加東大介)の女将(おかみ)さんになっていっしょに暮らして商売をはじめるのだが、男としての見映えもよくないくせに見栄っぱりで、何もかも腹立たしく、我慢にもほどがあって喧嘩ばかり。そうこうしているうちに愛人が病死してその墓参りのあと、こともあろうに、だらしなくも図々しい旦那(だんな)の洋服屋が妾を囲っていることを発見して、おどろき、あきれながら妾宅へ殴り込む高峰秀子のすさまじさ。何事も起こらないくらいおだやかな成瀬映画、事を荒立てないヒロインの忍従と苦悩ばかりが目立つ成瀬作品では異色の女性映画なのである。

イラスト/池田英樹

 喧嘩騒ぎでもホースで水をひっかけたり、男の首根っこを押さえて火鉢に突っ込んだり、やりたい放題なのだが、これが成瀬作品の「卓越した演出」による抑制もきいているせいか、まったくやりすぎ(演技過剰)には見えない。むしろ、見ていて痛快なくらい自然なのである。ホースで水をひっかけられたり首根っこを押さえつけられたりしてもがきつづける加東大介の滑稽なまでに憎々しい(とでも言ったらいいか)顔つきといい、見事な名演ぶりといい、成瀬巳喜男作品には欠かせない存在と言っていい名優加東大介だが、その圧巻の見ごたえある卑劣な逃げ腰の悪役ぶりが、高峰秀子のあぶなげない「至高の演技」を引き立てているのかもしれない。

 『あらくれ』のラスト、ヒロインの高峰秀子のくやしさと怒りの叫びのように、いきなり音を立てて降り出す雨、そして前々から目をつけていた腕のいい若い店員(若々しい仲代達矢がじつにいい感じだ)にすぐ電話をかけて新しい仕事に誘う。けっして安らかでなさそうな苦難にみちた門出を象徴するように外はいつの間にかどしゃ降りの雨である。高峰秀子は和服の裾をひょいとめくり上げて帯に挟み(こうした何気ないちょっとした小さなしぐさに至るまですべてがすばらしく心に残る)、覚悟を決めてすたすたと雨のなかを進んでいき、ラストシーンを盛り上げる。

 斎藤明美の取材・構成による独占インタビュー(「キネマ旬報」2005年9月上旬号)から高峰秀子の語る『あらくれ』についてのそっけなく、ざっくばらんながらずばり的を得たいかにも高峰秀子らしい語りっぷりの思い出をざっと以下に引用させていただくと——

高峰 『あらくれ』の仲代[達矢]さん、若いねぇ。

——少年のような、青年のような。

高峰 『あらくれ』、良かったでしょ?

——良かった。でもあれ、成瀬[巳喜男]さんにしてはちょっと変わった映画でしたね。

高峰 そうね。自分の足でどんどん歩いていく女をやりたかったんじゃないの。

——それまでの成瀬作品の主人公は辛い運命に支配されたまま、それでも懸命に。

高峰 『あらくれ』は違う。やっぱりあれは[プロデューサーの]藤本[眞澄]さんあたりが今度はちょっと変わったのをって思ったんじゃないの。

——あれは徳田秋声の原作ですが、高峰さんは原作を三回読むと聞きましたが…。

高峰 そう。そこで原作とはサヨナラして脚本の出来上がりを待つ。『あらくれ』のお島ってのは原作では牛みたいな女なの。骨太でね。顔は四角くて、それで厚ぼったくってね。あたしの任じゃないでしょ。

——うんうん。

高峰 それに捕らわれたら、つまんないから、原作とは違う、自分なりのお島を作る。

——いかにも野暮ったい感じが出てましたね。着物の着方、歩き方、表情も。

高峰 始めのほうなんかね。

——そして最後に、仲代達矢さん扮する従業員に外から電話しますね。「女将さん店出るかもしれないよ」と。

高峰 そうそう。今度はこの男だと思ったんだろうね。

——ラスト、良かったですね。荒物屋で電話を借りた後、雨の中……。

高峰 あそこ、いいね。

——いいですねぇ。

高峰 あの、傘をパッと開いて、とっととっとと歩いていく。

——着物の裾を帯にこう挟んでとか、傘をこんな調子で開いてなんて、成瀬さんが……。

高峰 言わない。

——言わない?

高峰 言わないの。でも雨が降ってりゃ、裾からげるのは当たり前よ、あの当時の女は。なんにも言わない、成瀬さんは。けど(二人の考えは)ピッタリしてるの。(以心伝心で)分かるってことでしょうね。

清らかながら女としてのたおやかさが魅力のアヌーク・エーメ

 遅ればせながらの女優アヌーク・エーメの追悼とはいえ、すでにあちこちの新聞雑誌でたくさんの死亡記事や追悼文が出た。

——仏女優、アヌーク・エーメさん死去、92歳、代表作は『男と女』『甘い生活』…。
——フランスを代表する女優のアヌーク・エーメさんが [6月] 18日、パリの自宅で亡くなった。92歳だった。代表作にはフェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)、ジャック・ドゥミ監督の『ローラ』(1960年)など。
——[追悼]名作『男と女』で揺れ動く女心を見事に表現したアヌーク・エーメさん、死去。1966年公開のクロード・ルルーシュ監督によるフランス映画『男と女』は半世紀以上を経た今も傑作の誉れ高い作品で、フランシス・レイ作曲の音楽も絶妙でダバダバダ、ダバダバダ…の調べが耳に残る。等々。

 私にとって最も忘れがたいアヌーク・エーメ体験はアンドレ・カイヤット監督の『火の接吻』(1948年)で、これが、なんと、思いがけなくもDVDで久しぶりに見られるとのことで、余計なことながらメモ程度でも私なりのささやかなアヌーク・エーメ追悼をしたためさせていただくことにした。

 当時15歳か16歳くらいの少女と言っていい、しかしとびぬけた美少女のアヌーク・エーメが楚々としたみめかたち清らかながらすでに女そのものと言いたくなるようなたおやかさであった。シェークスピアの悲劇「ロミオとジュリエット」のジュリエット役——それも映画化(フランス語の原題は『ヴェロナの恋人たち』)のヒロイン(マルチーヌ・キャロル)の代役——を演じながら、同じ悲劇的な運命に殉ずるという、双葉十三郎(「西洋シネマ大系 ぼくの採点表」、トパーズプレス)の絶賛を引用させていただくと、「水都ヴェニス界隈とヴェロナの旧跡が択ばれたその美しい風物の中に、激しくも哀しい恋愛が描き出されてゆき、そして、その愛の激しさと哀しさと宿命的な扱い方はフランス映画に独特のもので、アメリカ映画などでは絶対に見られないと言っていいくらいのふかく心をうつものである」ということになる。

イラスト/池田英樹

 土地家屋などを中心にした実業家らしいピエール・ブラッスールが、映画『ヴェロナの恋人たち』のプロデューサーとヒロインを伴って水の都ヴェネチアをわがもの顔に案内する。映画の舞台にも使えそうな豪華な旧家は実業家の管理下にあり、古い伝統だけを大事にして家名を誇り昔日を夢みるだけの誇り高いろくでなしの父親ルイ・サルー(かつてはヴェネチアきっての名門貴族であったが今は没落している)が一家の主人で、居候の従弟マルセル・ダリオは戦場で覚えた機関銃をふりまわして(機関銃がないときは射つ真似事ばかり)狂ったままの厄介者、妻や家政婦も時代に遅れたまま風変わりな生き方をつづけ、ただ一人、十代の娘アヌーク・エーメだけがまともで、しかもずばぬけた美女なので、彼女に目をつけた(という以上に、恋をした)実業家が未来の妻として約束を取りつけ、一家を財政的にも援助しているのである。しかし少女はそんな閉塞的な家庭からも一家の財政的援助を口実に彼女の人生を拘束しようとしている実業家からも逃れたくて、ジュリエット役の映画女優マルチーヌ・キャロルに相談し、気に入られて彼女の代役に採用される。映画が大作で撮影も大がかりなので、監督やスタッフが本番の前のキャメラのポジション(位置)や動き、ライティング(照明)の位置や同時録音の方法を決定するための各種の「段取りテスト」にはスターを使えないので代役つまりスタンド・インを使うという映画撮影風景が面白く描かれる。

 ロミオのほうも、もちろん、スタンド・インが必要で、ガラス職人の若い陽気な色男(と言っていいかどうかわからないけれども、女と見ればくどいている元気な青年)セルジュ・レジアニが代役に選ばれることになる(熱したガラス管を吹きつけていろいろな型をつくるベネチアン・グラスの工場現場が興味深く描かれる)。
 撮影が進行し、ヴェロナでも大がかりなオープンセットがつくられ、ベランダで恋を語り合うシーンで初めて出会った代役ふたりがたちまち恋におちて、僧侶役の俳優から結婚の祝福を受けたふたりは、その夜ヴェロナのホテルで一夜をすごすのだが、ホテルのベランダを越えてロミオの代役セルジュ・レジアニがジュリエットの代役アヌーク・エーメの寝室に出入りするところをコーディネーター(交渉・調整係)として撮影につきっきりの実業家のピエール・ブラッスールに目撃されてしまう。嫉妬に狂った実業家は凸凹コンビと日本では呼ばれたデブとチビのローレル&ハーディさながらの(体形だけだが)殺し屋を雇ってセルジュ・レジアニの殺害を企むが失敗、娘のアヌーク・エーメを奪われた旧家の父親ルイ・サルーも家名を汚した許しがたい不道徳なガラス職人上がりのセルジュ・レジアニを旧家におびきよせて結着をつけようとするが、必死に逃げるセルジュ・レジアニを追いかけて機関銃を乱射したのは狂った従弟のマルセル・ダリオだった、というような惨劇がつづき、重傷を負ったセルジュ・レジアニはアヌーク・エーメの目前であえなく死に絶える。命をかけた初恋の相手とはいえ、すぐそのあとを一途に追う初々しいアヌーク・エーメが不憫でならなかった。

イラスト/野上照代

山田宏一

やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。

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