映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、とっておきの映画を「2本立て」で紹介していただくコーナーです。阪東妻三郎とダグラス・フェアバンクス・ジュニアという、邦洋の剣戟スターシリーズの最後を飾るのは、共に、これまでにない役柄で新境地を開いた傑作2本です。山田さんの思い入れたっぷりの解説でお楽しみください。
紹介作品
破れ太鼓
製作年度:1949年/上映時間:109分/監督:木下惠介/脚本:木下惠介、小林正樹/撮影:楠田浩之/音楽:木下忠司/出演:阪東妻三郎、村瀬幸子、森雅之、木下忠司、大泉滉、大塚正義、小林トシ子、桂木洋子、宇野重吉、滝沢修、東山千栄子ほか
絶壁の彼方に
製作年度:1950年/上映時間:104分/脚本・監督:シドニー・ギリアット/撮影:ロバート・クラスカー/音楽:ウィリアム・オルウィン/出演:ダグラス・フェアバンクス・ジュニア、グリニス・ジョーンズ、ジャック・ホーキンス、ウォルター・リラ、ハーバート・ロム、カレル・ステパネック、レナード・サックス、ロバート・エアーズほか
阪妻が名優であることを証明した喜劇の傑作
わが阪妻シリーズの最後はとりあえず、戦後の松竹で撮った木下惠介監督のホームドラマにとどめることにしよう。私のような戦後の映画ファンには晩年のちょっと年老いた阪妻(などと言っては失礼ながら、1953年に52歳という若さで亡くなった阪妻の、いまとなっては、その死がわずか4年後に迫っていたことを思うと、むしろかくしゃくたる老け役だったと言うべきかもしれない)の『破れ太鼓』(1949年)である。
それも苦労して肉体労働者から叩き上げた昔気質の男がまがりなりにも土建会社の社長になって東京の高級住宅地、田園調布にモダンな大邸宅を構え、封建的な一家のあるじとして大威張りで君臨する独裁者の役である。家庭でも会社でも若い頃の自慢話ばかり。ヒトラーさながらに右手をさっと伸ばしてお説教するのが大好きだ。他人の話を聞く耳を持たない。これが鼻持ちならないいやな専制君主かと思いきや、けっこう愛嬌があって重苦しい威厳よりも子供っぽい無邪気さもあり、憎めない、というのが御大阪妻を「素材」にして木下惠介監督が構想した人間像であった。
というわけで、どんな阪妻映画に仕上がったかというと、何よりもまず、DVD(松竹ホームビデオSHV「木下惠介」全集)のチャプターが以下のように、手際よく、興味深く映画の内容を章立てて説明してくれる。
- 人権蹂躙の旦那様!
- お母さまは何故お嫁に?
- 日がな一日 母奮戦
- 本日太鼓の誕生日!
- 人権蹂躙の旦那様!
- 独裁者の演説
- 青年画家 受難
- 如何なりや? オヤジのウンコ
- 渦巻く離反
- われらのみが歌声高く
- 土建屋の危急存亡
- されど今宵は一家でダンス
- 降る星空に思いをこめて
- ♪「朝から夜まで鳴り通し…」
- パリの薫風 心優しく
- 一番怖い母の叛乱
- 尼寺へ行け!
- ♪「破れ太鼓は悲しかろ…」
- …英雄は己を知る
映画のはじまりは勢いよくピアノの鍵盤を叩く手の指とともにスタッフ・キャストが画面に流れ、主題歌「破れ太鼓の歌」が合唱される。
♪ドンドンドドンコ
ドンドンドドンコ
朝から夜まで 鳴り通し
みんなも今では こわくない
ドンドンドドンコ
ドンドンドドンコ
ご機嫌如何か 大太鼓
そんなにわめくと 疲れます
ソレソレ言わぬことじゃない
疲れてしまった それごらん
ドンドンドドンコ
ドンドンドドンコ
このメロディーはくりかえし、くりかえし、映画のなかに出てくるのだが、人のご機嫌をとる太鼓持ちのように一家そろって雷親父(などという表現もいまではすたれてしまった感じの古めかしい権威主義をひけらかし、怒鳴りちらす父親)を太鼓よばわりして歌うものの、誰もまともに口答えもできない。妻と4男2女という家族構成である、妻(村瀬幸子)は娘に「何故お母さまはお嫁に?」などと言われるほど、何かと腕力をふるう亭主の横暴にこれまで長いあいだひたすら耐えてつづけてきた。繊細でまじめで気の弱い長男(森雅之)は父親の会社の後を継ぐように命じられたものの荒っぽい土木建築業に耐えきれずに、伯母(澤村貞子)に相談してささやかながらオルゴールを作る会社の設立を考えているけれども父親に言い出せずにいる。作曲家志望の次男(木下惠介監督の実弟で映画音楽も担当している木下忠司が演じて、主題歌「破れ太鼓の歌」を作詞・作曲し、ピアノを弾き、自ら歌う)はまだ独立できずにいるので、終日ピアノを弾くばかりで、肩身が狭い。長女(小林トシ子)は、父親の会社が経営難で借金を背負い、その肩代わりに気の進まない結婚を押しつけられ、こらえきれずに暗く落ち込んでいる。以下、従順でナイーブだが役立たずの子供ばかりで、次女(桂木洋子)は女子大の演劇部員で、シェイクスピアの『ハムレット』を演じるため、家のなかでもタイツ姿で「尼寺へ行け!」という台詞をくりかえし練習中。3男(大泉滉)は医科大生で、顕微鏡でウンコ(排泄物)をのぞくことにばかり熱中。4男(大塚正義)はいつもバットかボールをいじくりまわしている野球少年。そのほかにお手伝いさん(賀原夏子)がいるが、馬鹿者とどなられてやめてしまう。
イラスト/池田英樹
問題の——ということは映画の主役になる——頑固親父が、なんと時代劇スターとして鳴らした阪東妻三郎であったわけだが、サイレント時代から剣戟王と呼ばれていたとはいえ、剣ひとすじというわけでなく、すでに戦時下の1943年には人力車夫を演じた名作『無法松の一生』(稲垣浩監督)、戦後、1945年には大井川の川越え人足を演じた『狐の呉れた赤ん坊』(丸根賛太郎監督)、 1948年には明治末期の大阪天王寺の裏町に住むしがない草履職人が稼業そっちのけで好きな将棋に打ち込むという、これまた名作とうたわれた『王将』(伊藤大輔監督)などで注目され、単に時代劇スターというだけにとどまらない名優の評価を得ていたのである。しかし、背広姿の現代劇、それも喜劇をいうのがほとんど想定外の成功をもたらしたようだ。私はその当時はまだほとんど子供だったから、偉大なる阪妻の現代劇だからといって見に行ったような記憶はない。もっとずっとあとになって、それも、木下惠介監督作品としてフィルムセンターなどの特集上映で見たような気がする。1973年のキネマ旬報増刊「日本映画作品全集」における評価も思い出す。「阪東妻三郎の強烈な個性を利用して、それを思いきり描き出した作品。木下惠介監督が阪妻に与えた設定はガンコだが、どこか憎めない老人という役どころ。現在、テレビドラマで最も多くその類型を見出すことができるものだが、阪妻の個性はこの作品の質を大いに高めている。独特のセリフ回しと発声法を、演出はさらに誇張して使っているのだが、そのことがこの作品の喜劇性の太い芯になっている。阪妻の作品としても、彼の一生における秀作の一つ」(たしかめるために全文を引用させていただいた)。
因みに、批評家であり伝記作者でもある岸松雄の連載『続・現代日本映画人伝』(「映画評論」1958年8月号)は、阪妻の死の追悼からはじまる。
「昭和28年の七夕祭は、その日の午後1時15分卒然として巨星阪妻が光茫を滅したことによって、われら映画人にとり永遠に忘れることの出来ない悲しい思い出の日となった。阪妻が死んでも、日本の時代劇はほろびはしなかったが、ポカリと一つ大きな穴があいたことは、たしかだ」 そして追悼をこう閉じている。
「『無法松の一生』(稲垣浩監督)が現代劇といえるかどうかは別として、時代劇の王座を占めていた阪妻が、終戦後の『王将』(伊藤大輔監督)や『破れ太鼓』(木下惠介監督)などの現代劇で異常な成功をおさめたのは皮肉である。
『破れ太鼓』の完成試写の晩、てれくさがりの阪妻は、自分は家にいて、代りに家人を見せにやった。まだ同志社大学の学生だった長男の[田村]高廣も来ていたが、試写後、「木下先生って初めておやじとつきあっただけなのにどうしてあんなによくおやじを知ってるんでしょう。家庭でのおやじそっくりです。まったく偉い監督さんて違いますね」と、感激の涙を流しながら言った。この時、初めて高廣青年を見た木下惠介監督は、その俳優としての天分をすでにして見抜いていたらしく、阪妻の死後、貿易会社につとめていた高廣を手許に引きとり、いわゆる「木下学校」の生徒としてみっちり仕込んだ甲斐あって、こんにちの俳優・田村高廣がうまれたことは誰もが知っている。
かねてから高血圧になやまされていた阪妻は過労がたたってか、『あばれ獅子』(大曽根辰夫監督)の完成間際に倒れて、再び立てなかった。行年52歳、[1953年]7月11日、盛大な葬儀がいとなまれた」
たしかに、現代劇のせいか、『破れ太鼓』の阪妻のすべてが阪妻本人の生まれながらの(とまではいかなくとも)生地のままの日常的な本人の人柄のように見える。阪妻調、誇張された芝居も間延びした台詞回しも、持って生まれた才能であり人柄であり本来の持ち味なのだとしか思えないくらいだ。
オルゴールづくりの夢を実現させるために家を出て行く長男に次いで、長女も金のための政略結婚を拒否して貧しいけれども民主的な若い画家(若き日の宇野重吉であること以上に、その、かたやヴァイオリン奏者の父親役・滝沢修とこなた絵描きの母親役・東山千栄子の嘘みたいにロマンチックな、たとえば古きシャンソン「聞かせてよ愛を言葉を」などを恥ずかしげもなくフランス語でいっしょに歌ったりして花のパリの思い出に生きつづける老いてなお夢み心地の美しくも滑稽なカップルにはおどろき、あきれて爆笑、いや苦笑にとどまる人もいるかもしれないが、それはともかく)に恋をし、家父長制的な横暴さに抵抗することになり、ここでついに娘の味方について母親も叛乱、初めてのおやじとおふくろの大喧嘩で家じゅうが大騒動になって一家離散、挙句の果てに会社も倒産、急にあちこちから見捨てられて孤独になった雷親父もすっかりしょげかえって、そこへ好物のカレーライスをこれを最後に出て行く若いお手伝いさんに給仕してもらって、思い出深く、ひとり寂しく食べはじめたところへ家族のなかでただひとり家に残ることになった居候のようなピアニストの次男がやってきて、「お父さん、何か弾きましょうか」と声をかける。「うん、何かにぎやかなのをやってくれ。ほら、いつもみんなで歌っている破れ太鼓がどうのこうのって、あれはお父さんの歌だろ」と雷親父も素知らぬふりをして太鼓が自分のことなのだとよく知っていたらしいことがわかる。実は寂しがり屋の心やさしい「老いた」おやじの姿が、次男役の木下忠司が高らかに弾き語る「破れ太鼓の歌」とともに画面に展開する若き日の苦難の人生の回想シーンと相まって、せつなく感動的に迫ってくる。♪「破れ太鼓は悲しかろ…」
阪妻の人間的魅力と新しいイメージが高く評価されたが、でもやっぱり、すぐまた時代劇のさっそうとした阪妻が懐かしくなる。『素浪人罷通る』(伊藤大輔監督、1947年)のような「刀を抜かない時代劇」の阪妻だとしても。
スリルと伏線の効いた展開が楽しめる冒険映画
イラスト/池田英樹
前回の『コルシカの兄弟』に次いで、『風雲児』とか『熱血児』とか、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア主演の面白かったチャンバラ活劇を思い出したのだが、DVD化されてなくて残念に思っていたところ、『絶壁の彼方に』(シドニー・ギリアット監督、1950年)という忘れがたい冒険映画が「イギリスのサスペンス映画」という5本セットのDVDボックス(ジュネス企画「クラシック・シネマ館」シリーズ)に収録されて発売されていることに気づく。政治的陰謀に巻き込まれた主人公が危機一髪、脱出に至るまでの古典的なイギリス伝統の冒険映画だ。原題は『State Secret(国家機密)』。アメリカ人の外科医、ジョン・マーロウ博士(ダグラス・フェアバンクス・ジュニア)がロンドンに滞在中、ボスニアという東欧の仮空の(?)——というのも世界地図にも載っていないという——独裁国から、その手術のすぐれた功績に賞を贈ると同時に、自国の学者や医師たちのために公開手術をおこなってほしいという特別の招待を受ける。ていねいに案内役の迎えがすでにロンドンまで出向いているという独裁国らしい有無を言わせぬほどの用意周到ぶりである。ボスニアを支配するのはニヴァ将軍(ウォルター・リラ)で、国家機密が外部にもれぬように秘密警察の長官、ガルコン大佐(ジャック・ホーキンス)がすべての大臣の地位を占め、将軍の軍師として緻密にして強力な捜査網を全国的に張りめぐらしている。
ジョン・マーロウ博士は栄誉ある賞を授与されたあと、ガルコン大佐の立ち合いのもとに公開手術をおこなうが、患者がニヴァ将軍だったことにおどろく。手術の結果は良好だったが、重大な国家機密がもれるのをおそれたガルコン大佐は博士の身柄をただちに拘束してしまう——というところから主人公の回想の形式で物語が急転回することになる。ニヴァ将軍の容態が急に悪化して死んでしまうのだ。その臨終をみとった博士は、身の危険を感じ、その場を抜け出して言葉の通じぬボスニア国内を逃げまわる。自動車の追っかけがあり、交通渋滞を利用して電車にすばやく乗り込んだり、アメリカ大使館に助けを求めようとするが、公衆電話に邪魔が入ったり、一難去ってまた一難、しかし追っ手をまいてビルの地下の床屋に逃げ込んで切迫感に落ち着かぬまま客になってひげを剃らせ、床屋の主人の間違いにまかせて他の客の背広の上衣を着てしまうのだが、この間違いの上衣が伏線になって絶壁の彼方に脱出というところまでつながる実に面白い展開になることは見てのおたのしみということにして(間違いの上衣の持ち主はハーバート・ロム扮する闇商人で、「床屋には気をつけよう」という忘れがたい名セリフを吐くのだ!)、人混みにまぎれて歩道に列をなす観客とともにミュージックホールに入った主人公が客席から舞台の袖に逃げて、英語の歌を舞台で歌っていた若い歌手(グリニス・ジョーンズ)に楽屋で強引に助けを求めて話し込んでいるところを劇場の男に見られて密告され、英語をしゃべる女性歌手を連れて逃げ出すハメになり、やがてふたりのあいだに恋が芽生えるというあたりも定石ながらたのしく見られることも付け加えておこう。
山上に向かうケーブルカーからロック・クライミングのスリルも、追っかけと逃亡の冒険映画のクライマックスとしての盛り上がりをたっぷりたのしめる。
イラスト/野上照代
山田宏一
やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。