映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、その時期に合わせた映画を「2本立て」(日本映画、外国映画)で紹介していただきます。前回予告した通り、今回は日本映画として『忠臣蔵』を取り上げます。
紹介作品
元禄忠臣蔵 前篇・後篇
製作年度:前篇 1941年・後篇 1942年/上映時間:前篇 112分・後篇 111分/監督:溝口健二/キャスト:河原崎長十郎、中村翫右衛門、嵐芳三郎、三枡万豊、市川右太衛門、河原崎國太郎、高峰三枝子
商品情報
『元禄忠臣蔵 前篇・後篇 2枚組』
DVD:3,080円(税込)/発売・販売元:松竹
©1941・1942松竹株式会社
※2022年1月時点の情報です
1月末から2月にかけては大雪が降ることが多く、日本映画、とくに時代劇の中心地だった京都の撮影所では、赤穂浪士の討入りの場面だけでも撮影しておくというのが習慣となっていたとのことだ。「まだ手工業時代の日本映画は雪を人造するほどの技術がなかった」ので、『忠臣蔵』のラストシーンのために撮りおきをしていたと稲垣浩監督は回想している(「日本映画の若き日々」)。それほど毎年のようにつくられていた忠臣蔵映画だった。年中行事のように、出せば必ず当たる人気番組、興行価値満点の映画だったのである。
元禄14年(西暦1701年)3月14日、江戸城殿中で、若き赤穂藩主・浅野内匠頭が、幕府に仕える老獪な吉良上野介に田舎者の不手際で能なしの若造呼ばわりされ、カッとなって刀を抜き、斬りかかった。時と場所をわきまえぬ「ご乱行」ととがめられ、内匠頭は即日切腹を命じられ、赤穂藩は御家断絶、城明け渡しとなる。
地位も職も失って「浪士」となった旧赤穂藩士のうち、大石内蔵助をはじめ47人が主君の無念とうらみを晴らすべく、艱難辛苦の末、翌年12月14日、吉良邸に討ち入り、上野介の首をとって本懐をとげる壮絶な復讐の物語である。忠臣たちの仇討ちは「義にかなった」行為として、浪士は「義士」と呼ばれ、義士銘々伝が気高い美談として虚実をまじえて忠臣蔵映画を彩ることになった。講談、浄瑠璃、歌舞伎などでも人気の演目になったことは周知のとおりである。
その数100本以上!根強い人気の「忠臣蔵」
映画史上最初の『忠臣蔵』は1909年の片岡仁左衛門一座主演の作品で、歌舞伎の舞台を写しただけのものだったらしいのだが、日本映画の父と呼ばれる牧野省三監督による最初の大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』(1922、火災で大半が焼失)から最後の大ヒット作であり、女優の原節子の最後の出演作でもあり、東宝創立30周年記念映画としてつくられた稲垣浩監督の『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(1962)まで、ざっと40年間に24本もの忠臣蔵映画が公開されている。映画会社各社が競い合って創立記念にオールスターで興行する大作であった。
本伝、外伝、バリエーション(アニメーションもふくめて)も数えたら、ゆうに100本は超える忠臣蔵映画があるという。『サラリーマン忠臣蔵』(杉江敏男監督、1960)、『ギャング忠臣蔵』(小沢茂弘監督、1963)など、そもそもの仇討ちのドラマの面白さのせいもあるのだろう、愉快、痛快な現代版もあった。外伝にしても、「天野屋利兵衛は男でござる!」の名せりふで知られる、赤穂義士のために討入りのための装備を調達した大阪商人とか、まさに心意気を見せる人物が出てきて、どんな忠臣蔵映画にもそれなりの見せ場があるのだ。
エピソードが多すぎてやや大味になってしまうきらいはあるものの、大物スターの顔見世、名優の顔合わせで圧倒する面白さが忠臣蔵映画の魅力であった。日活更生記念大作『忠臣蔵 天の巻・地の巻』(マキノ正博/池田富保監督、1938)の「♪もとより勧進帳のあらばこそ…」という謡(うたい)が高まって、阪妻(阪東妻三郎)の大石内蔵助と片岡知恵蔵の立花左近がにらみ合って対決する東下りの名場面など圧巻の一言である。
1945年、敗戦後の日本映画界はGHQ(アメリカ進駐軍)の支配下に置かれ、日本の帝国主義と日本人の復讐心を最も恐れたというアメリカ軍政当局は、忠臣蔵映画を筆頭に時代劇に対する取締りを強化することになったが、その後、また忠臣蔵映画は1950年代に入って時代劇の最高峰に輝きはじめる。高田浩吉の浅野内匠頭が哀れで涙を誘った松竹の大曽根辰夫監督作品『忠臣蔵』(1954)、大友柳太朗のニヒルな剣士・堀田隼人が活躍する東映の松田定次監督作品『赤穂浪士 天の巻・地の巻』(1956)などが思い出される。
若々しく威勢のいいキンキラ錦ちゃんこと中村錦之助から萬屋錦之介に改名して、『反逆児』(1961)、『徳川家康』(1965)、『幕末』(1970)で時代劇の巨匠・伊藤大輔監督から受けた薫陶もあって、阪妻節とも言うべき腹の底から絞り出す唸り声のようなせりふ回しの萬屋さんが大石内蔵助を演じた25回目の本格的忠臣蔵映画もつくられた。熾烈なやくざの抗争を通して日本の戦後史を描いた東映の『仁義なき戦い』シリーズ(1973-1976)の深作欣二監督の「仁義ある」戦い、『赤穂城断絶』(1978)である。真っ赤なタイトル文字からはじまり、血みどろの吉良邸襲撃に至る鮮烈なカラー作品だったが、最期の切腹の日、真っ白な死装束の義士たちがふと春を告げる鶯の一声に耳を傾ける静かな一瞬が印象的だった。
1994年になっても、高倉健主演で東宝の市川崑監督作品『四十七人の刺客』と、外伝ものにしても異色と言うしかない松竹の深作欣二監督作品『忠臣蔵外伝 四谷怪談』が、撮影所システム崩壊後の日本映画の混乱と衰退を皮肉に象徴すると言いたくなるけれども、時ならぬ競作のように同時公開された。
戦時中に撮られた芸術的傑作
通俗的な興味にみちたエンタテインメント/娯楽映画の王道をゆく忠臣蔵映画のなかに1本だけ、精密な史実の考証にもとづく「歴史映画」の芸術的傑作として評価されるのが戦時中に撮られた巨匠・溝口健二監督による前後篇2部作の大作『元禄 忠臣蔵』(1941-1942)。「真山忠臣蔵」と呼ばれる博学の劇作家・真山青果原作の歌舞伎台本の映画化で、しっかりとした時代考証にもとづく格調ある長いせりふは理屈っぽく堅苦しく、溝口監督特有のワンシーン=ワンカットと呼ばれるキャメラの長回しを基調とする重厚厳格な演出にも圧倒されるという評判だった。
戦後の映画ファンである私は、この知られた名作を1980年代に前後篇一挙上映でリバイバル公開されたときに初めて見たのだが、実は見たなどとはとても言えないほど映画館で何度も睡魔に襲われ、こらえきれずについつい不覚にも眠ってしまった。恥ずかしながらいびきなどもかいてしまったらしく、いっしょに見に行った隣席の友人に肩をゆすられて目覚め、あわてて姿勢を正して画面に見入ったところ、ぐっすり眠ったつもりなのにまだ同じシーンがえんえんとつづいていておどろいた記憶がある。
というわけで、今回はDVDでその雪辱戦(!?)よろしくしっかり再見。義士を代表する大石内蔵助(河原崎長十郎)が最初から最後まで復讐は正しいのかどうかと悩みつづけ、どんな忠臣蔵映画でもクライマックスになる吉良邸討入りのシーンも描かれない。ユニークと言えばユニークな時代劇で、最初の江戸城内の松之廊下で浅野内匠頭(嵐芳三郎)が刀を抜く以外、一切斬り合いシーンのない溝口忠臣蔵の静かな緊迫感あふれる荘重で悲愴な悲しさに心打たれる。
なかでも赤穂浪士の心情にひそかに共鳴している徳川綱豊卿(市川右太衛門)と単身吉良上野介(三枡万豊)を討とうと画策する浪士・富森助右衛門(中村翫右衛門)との腹のさぐり合い。吉良の代わりに能装束をつけた綱豊卿が「真の義士の復讐とは、吉良の身に迫るまでに自らの本分をつくし、至誠を致すこと」と助右衛門を諭すと、助右衛門は抜きかけた刀を鞘に納め、深く深く頭を下げてひれ伏すのだ。
そして、ラスト「大石最後の一日」に描かれる浪士のなかで最も若い磯貝十郎左衛門(河原崎國太郎)とその婚約者おみの(元服前の少年のような髪型と衣装の若き高峰三枝子の美しさ!)の最期。あくまでも静かに冷たく見守る大石内蔵助の前で自害する高崎三枝子のおみのを見ながら、もう1本、東宝の新進気鋭のエースだった堀川弘通監督のすばらしいデビュー作(2作目だったかもしれないが、私が見た初めての堀川弘通監督作品だった)『「元禄忠臣蔵 大石最期の一日」より 琴の爪』(1957)を思い出した。若き日の中村扇雀と扇千景の共演だった。
忠臣蔵のドラマは日本映画の尽きざる宝庫だったのである。
今回も“2本立て映画”のもう1本に予定していた、わが心の永遠のベスト・ワンとも言うべきフェデリコ・フェリーニ監督の『8 1/2』(1963)にふれる余裕がなく、次回まわしに――。
イラスト/野上照代
山田宏一
やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。