映画評論家・山田宏一の今月の“2本立て映画”

映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、その時期に合わせた映画を「2本立て」(日本映画、外国映画)で紹介していただきます。今回は特別に「1本立て」となります。2022年9月13日、ヌーヴェル・ヴァーグの代表的な映画監督、ジャン=リュック・ゴダールが亡くなりました。1960年代、ゴダール監督らと深い交友があった山田さんが、追悼の意を込めて、長篇デビュー作かつ代表作の『勝手にしやがれ』について書いていただきました。

紹介作品

勝手にしやがれ

製作年度:1959年/上映時間:90分/監督:ジャン=リュック・ゴダール

商品情報

『勝手にしやがれ』
価格:Blu-ray 1.650円(税込)/発売・販売元:KADOKAWA
※2022年9月時点の情報です

ジャン=リュック・ゴダール監督が91歳で亡くなった。世界の映画に大きな影響を与えた戦後最高のレジェンドと言っていい存在だった。

1960年に公開された長篇映画第1作『勝手にしやがれ』からして何もかも型破りの映画だった。いま見てもその自由奔放な、デタラメとも見える、破茶滅茶とも言える、衝撃的な型破りの面白さは変わらない。

青春の重荷、いらだちが画面に息づき大きな共感を呼ぶ

冒頭、ジャン=ポール・ベルモンドふんする主人公の青年(ちんぴらと言ったほうがふさわしい不良青年だ)が南フランスの港町マルセイユで自動車泥棒をやらかし、パリに向かってハイウェイを突っ走りながら、〽パ、パ、パッパ、パトリシアと愛する女の名を歌うように叫んだり、「フランスの自然は美しい」などと詩人のようにつぶやいたかと思うと、突然キャメラに向かって、私たち観客に向かって、「もし海が嫌いなら、もし山が嫌いなら、もし都会が嫌いなら……勝手にしやがれ」と毒づいたりする。フランス語の原題は『A BOUT DE SOUFFLE(息切れ/息たえだえに)というタイトルを『勝手にしやがれ』という邦題にしたことも型破りの命名で、大成功だったのだろう。これこそわれらの時代の青春映画だと熱狂したのはもちろん私だけでなかった(私は当時、地方から上京して大学に入学したばかりだった)。青春の重荷、青春のいらだちが、共感という以上に、実人生そのもののようにリアルに、なまなましく、画面に息づき、みなぎっていて、私たちと一体になっているように感じられた特異な青春映画だった。ミシェル・ポワカール(ジャン=ポール・ベルモンド)は、スピード違反でオートバイ警官に追われ、盗んだ車の中で見つけた拳銃で撃って警官殺しの指名手配を受けるが、勝手にしやがれと息巻いて、ふてくされてみせるものの実は、死の予感にふるえ、おののいているかのようであった。無軌道な青春は死と背中合わせになった人生そのもので、死の予感にとり憑かれて生き急ぐ焦燥と不安が画面に息せききった、あえぐような緊迫感を与えていた。のちに、パリでジャン=ポール・ベルモンドに会ってインタビューをするチャンスに恵まれ(1975年、ベルモンドはすでに50本以上もの作品に出演し、人気絶頂のスターになっていた)、代表作は何でしょうかとたずねたら、「やっぱり、『勝手にしやがれ』かな。いちばん愛着のある作品だ。初めて世に認められた真のデビュー作と言っていい作品だからね」と率直に語ってくれた。

──脚本も何もない行き当たりばったりの撮影だったとか?

「脚本は、あるにはあったけど、タイプライターで2、3ページくらい。3ページもなかったな。2ページとちょっとだけ。車を盗んで逃げる。女と寝たいがなかなか応じてくれない。ラストは死ぬか逃げるか選ぶこと、それくらいのことがざっとタイプライターでラフに打たれていた。たしかに脚本とも言えない代物だったな」

1958年8月、夏のバカンスのさなかに、パリのシャンゼリゼ大通りの歩道でクランクインしたこともよく憶えているとベルモンドは懐かしそうに語った。

「電話ボックスに入るところから撮影がはじまった。台本がないから、台詞もない。何でもいいから何か言ってくれ。電話をかける。それだけだ、とゴダールは言うんだ」

 シャンゼリゼ大通りの歩道で、ショートカットのアメリカ娘パトリシア(ジーン・セバーグ)がアメリカの新聞「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」を売っているのをつかまえて、ジャン=ポール・ベルモンドが「会いたかったんだ、いっしょに寝た思い出が忘れられない。ほかの女とも寝てみたが、どうもしっくりこないんだ」と口説きはじめる。キャメラの長回しが印象的で、キャメラマンのラウル・クタールが郵便の荷物などを運ぶ手押しの小型三輪車のなかから隠し撮りをしたという有名なシーンだ。

──撮影の打ち合わせとかリハーサルはどのようになされたのですか?

「打ち合わせもリハーサルも何もなし。ぶっつけ本番だった」とベルモンドはたのしげに語った。とんでもない型破りの撮影方法だったのだ。コンセルヴァトワール(国立高等演劇学校)出身のベルモンドはこうも語った。

「俺は当時、まだかけだしの演劇俳優で、台詞をきちんと暗記して舞台で演じる演劇しか知らず、映画のことは大して知らなかったが、ただ、隠しキャメラで即興的に街頭で撮影する新しい映画づくりに非常に興味を持っていた」

イラスト/池田英樹

忘れがたいラストシーン、撮影の真相

28歳のロジェ・ヴァディム監督の『素直な悪女』、25歳のルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』、27歳のクロード・シャブロル監督の『美しきセルジュ』、26歳のフランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』など、映画は撮影所で助監督修行を経た監督によって、作り物のセットのなかで、きちんと書かれたシナリオにもとづき、照明やキャメラや演技のリハーサルを重ねてつくられるものだという常識をくつがえして、街頭ロケ、即興撮影を中心につくられる若い世代の映画がヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)の名のもとにヒットしていた。

そんな若々しい息吹にあふれた風潮のなかでも、ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』は鮮烈な型破りの映画の白眉だった。撮影の打ち合わせもリハーサルもない、すべてぶっつけ本番というのだから、もちろん同時録音撮影ではない。ゴダールがキャメラの視野(というか、フレーム)に入らないギリギリのところで、俳優たちに台詞を口伝(くちづて)に教え、それを聞いてベルモンドとジーン・セバーグがそれぞれ自分のしゃべりかたで台詞を言うやりかたは、「台詞をあらかじめしっかり暗記してから演じる演劇」とは全然違って面白いと思った」というベルモンドとは対照的に、ハリウッド育ちのジーン・セバーグは「こんなやりかたは初めて」ですっかり戸惑っていたようだ。その戸惑いを逆手に取って(というか、うまく映画に反映させて)、なまなましく、ぎくしゃくした、奇妙な間(ま)を生み出しているところも天才的なゴダールならではの巧妙な手口だったのだろう。

「とても、まともな映画の撮影には思えなかったな。たとえ映画の撮影らしく見えたとしても、せいぜい夏のバカンスのアマチュア映画の習作ぐらいにしか思えなかっただろう。こんな映画、絶対に劇場で公開されないと俺は思った。そう思ったら、どんなことでも気軽に大胆にやれるようになったんだ」とベルモンドは述懐する。

──ラストシーン、警察の銃弾を腰骨に受けて、よろめきつつ細長い街路を逃げていくところも隠し撮りですか? 長い移動撮影で、すばらしく、忘れがたいシーンですが……。

「あれはモンパルナスの近くのカンパーニュ=プルミエール街だったな。あれは隠し撮りですらなかった。小型の2CVという車の幌をはずしてキャメラを三脚に固定させて、これもぶっつけ本番で、俺があえぎながらヨロヨロと逃げていくうしろ姿を追ってワンカットで撮影したんだ。ゴダールはこう言っただけだった。『背中に銃弾を一発喰らって、苦しみながら逃げるんだ。走れるだけ走れ。いやになったら倒れてくれ』。どこまで走って、どのへんでどんなふうに倒れるか、ゴダールは何の指示もしなかった。で、俺は街路を右へ左へヨロケながら走った。誰も映画の撮影だなんて思っていなかったらしい。まわりの連中は俺が朝から飲んで、ぐでんぐでんに酔っ払っているぐらいに思ったらしい。そんな酔っ払い、パリにはけっこういたからね。俺が腰に銃弾を受けて苦しんでいる演技なんだとは誰も思ってもみなかったようだ。俺は傷ついた腰骨のあたりを片手でおさえて、苦しみに耐え、必死に倒れそうになるのをこらえ、あっちへヨロヨロ、こっちへヨロヨロ、熱演したんだ。たまたま通りかかったのが先輩の女優のコリンヌ・ル・プーランだった。『まあ、なんて酔いかたしてんの!』と彼女は言った。撮影中だから、立ち止まって挨拶するわけにもいかず、俺はそのまま熱演をつづけて、街路の終わりまでヨロヨロと走った。走りつづけてラスパイユ大通りまで出たが、大通りはけっこう車の行き交いが激しくて危険なので、横断歩道のしるしの鋲(ビョウ)のあるところで倒れることにしたんだ。車に轢き殺されたくなかったからね」

名場面はこうして生まれたのである!

時代とともに神話的存在になった映画史上の名作

──映画のヒットも期待してなかったとのことですが……。

「まったく期待してなかった。7か月後にシャンゼリゼのロードショー館、バルザック座で封切られて、ただ、やっぱり反応が気になって、妻のエロディに見に行ってもらったら、満員で入れなかったと言うんだ。いろんな人から電話がかかってきて、『おめでとう、素晴らしい映画だった』とお祝いを言ってくれた。それで俺も翌日、早めに映画館に見に行ったら、もう観客が長蛇の列なんだ。あの、ただもう型破りというだけの映画が大評判で、俺もたちまち有名になった。ありとあらゆる新聞雑誌に俺の写真が大きく載り、映画もあちこちで絶賛され、ジャン=リュック(・ゴダール)もテレビやラジオに出て、新聞雑誌でもインタビューに引っ張りだこだった。映画は8か月を越えるロードショー上映で大ヒット。不良の主人公ミシェル・ポワカールを演じた俺は『フランスのマーロン・ブランド誕生』なんて称賛された。まるでヒーロー扱いだった」

日本における評価はアラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督)の圧倒的な人気の陰に隠れた感じで、「キネマ旬報」の1960年度ベスト・テン(洋画部門)では『太陽がいっぱい』が第3位、『勝手にしやがれ』はかろうじて第8位に選出されている。『勝手にしやがれ』に対するベテラン映画評論家たちの評価はかなり手きびしく、ドアひとつ開け閉めするにもざっくばらんで乱暴で、かつての情感あふれるフランス映画の美しさを破壊してしまったとか、回転木馬に乗っているようにキャメラが大きくゆれるかと思ったらフィルムが途中でちょんぎれてしまっているみたいでイライラするといった感じの否定的なものが多い。しかし、時代とともにカルト的な名作となり、ジャン=ポール・ベルモンドはヒーローに、ジャン=リュック・ゴダールはレジェンドに、神話的存在になった。1965年にゴダールがふたたびベルモンドと組んで、ゴダールの束の間ではあったが妻となるアンナ・カリーナが永遠のヒロイン、ファム・ファタール(運命の女)になる『気狂いピエロ』がゴダール・レジェンドの頂点になるのだが、それはまた別の機会に──たぶんゴダールの死の謎(自殺幇助による死の真意とは? 遺言はなかったのだろうか?)の解明とともに、これからしばらくはゴダールについての話題がつづきそうなので。

イラスト/野上照代

山田宏一

やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。

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