映画評論家・山田宏一の今月の“2本立て映画”

映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、とっておきの映画を「2本立て」で紹介していただくコーナーです。今回の洋画は、前回紹介した『二つの世界の男』のキャロル・リード監督とジェームズ・メイスンのコンビ作『邪魔者は殺せ』。そして邦画は、時代劇スターとしての印象が強い市川雷蔵が主演した現代劇『ある殺し屋』です。共に「静かなる傑作」と山田さんが賞賛する2本立てをご堪能ください。

紹介作品

邪魔者は()

製作年度:1947年/上映時間:117分/監督:キャロル・リード/脚本:F・L・グリーン、R・C・シェリフ/音楽:ウィリアム・オルウィン/撮影:ロバート・クラスカー/出演:ジェームズ・メイスン、キャスリーン・ライアン、ロバート・ニュートン、F・J・マコーミック、ロバート・ビーティ、シリル・キューザック、W・J・フェイ、ウィリアム・ハートネル、モーリン・デラニー、エルウィン・ブルック=ジョーンズほか


ある殺し屋

製作年度:1967年/上映時間:82分/監督:森一生/脚本:増村保造、石松愛弘/音楽:鏑木創/撮影:宮川一夫/出演:市川雷蔵、野川由美子、成田三樹夫、渚まゆみ、千波丈太郎、松下達夫、小林幸子、小池朝雄、伊達三郎ほか

『邪魔者は殺せ』『ある殺し屋』と題名だけを並べると、けたたましく物騒な2本立てに思われるかもしれないが、2本とも静かなる傑作とでも言いたいくらいの、いわば過剰な表現に流れないように礼節をわきまえた感じのすばらしい映画だ。映画の語る物語の流れに寄り添うように静かに美しく奏でられる楽曲も(『邪魔者は殺せ』はウィリアム・オルウィン作曲、ロンドン交響楽団演奏による、『ある殺し屋』は鏑木創作曲、単純なギター演奏による、静かなメロディーだ)しみじみと心に伝わってくる。
『邪魔者は殺せ』はモノクロ作品、『ある殺し屋』はカラー作品だが(といっても、全体的に色味を抑えた画面でモノクロだったとしても不思議ではない感じだ)、スクリーン・サイズもスタンダードと横長のシネマスコープという違いをあまり感じさせない、ただひたすら映画的な、映画ならではの緊迫感ある時間と空間を生かして見事にドラマチックに全体を盛り上げる。静かながら躍動する画面によるサスペンスあふれるスリラー映画の傑作である。撮影は『邪魔者を殺せ』がロバート・クラスカー、『ある殺し屋』が宮川一夫、ともに名手として知られたキャメラマンだ。

●運命のままに破局に突き進む男の物語

『邪魔者は殺せ』は1947年のイギリス映画。前回取り上げた『二つの世界の男』(1953年)につながるジェームズ・メイスンを一躍スターにのし上げたキャロル・リード監督の名作である。「ほとんど議論の余地のないほどの完璧な傑作」と評価され、キャロル・リード監督の名声もいっきょに世界的に高まった。DVDで久しぶりに見て、一瞬も目がはなせない息づまるような緊張感に圧倒された。
 アイルランド革命の1挿話という形で映画ははじまる。非合法組織である秘密結社のロンドン支部の数人が革命の資金調達のために工場の経理部を襲うが、リーダー格のジェームズ・メイスンが守衛に射たれて重傷を負い、あわてふためいて逃走する車からふり落とされる。『二つの世界の男』の悲壮なラストシーンをすでに想起させるジェームズ・メイスンの運命的な死出の旅路がここから始まると言ってもいいかもしれない。
 ジェームズ・メイスンの役名はジョニー・マックイーン。武器密輸の罪で17年の刑を科せられたが脱獄して半年間身を隠していたあとの大仕事だったが、1年以上も閉じ込められていたので、視界がめまいで不安定になることが暗示される。金を奪って逃亡する仲間たちの車に置き去りにされたジョニーは、やっとのことで立ち上がり、ひとり必死に逃げようとするが、半死半生の身で思いのままに身動きできず、犬に吠えられて追われたり、バスに轢かれそうになったりしながらも、次から次へといろいろな人物に手助けされるかと思えば、邪魔者あつかいされて見捨てられ、密告されたりして、運命のままに破局に向かって追いつめられていくのである。生と死のあいだをさまよいつつ幻覚に襲われ、うわごとのようにせりふをつぶやくだけの男の苦悶を演じる(それも、これ以上にないくらい見事に演じる)ジェームズ・メイスンの圧倒的な存在感のすばらしさ。彼自身はどうにもできない運命にひきずられ、その命は人手から人手に渡る。彼を救助しようとして仲間のひとり(ロバート・ビーティ)が警察の注意を自分に集めて追われた果てに捕らえられてしまうまでの手のこんだ逃亡劇もあり、子供たちが警察署の前で危険な逮捕劇「ジョニーごっこ」を演じて遊んだり、夜になって絶望的な状態で倒れたジョニーを手配中の男とは知らず家に連れ帰って応急処置を施す中年の女性看護師の姉妹が帰宅した姉の夫と口論になり、夢うつつでその口論を耳にしたジョニーが迷惑をかけまいとして豪雨の街に去って行くところもあり、止まっていた辻馬車にジョニーが乗り込んでしまい、それに気づかずに馬車を走らせた駆者が警官に「客は誰だ?」と尋問されると「犯人のジョニーさ」などと冗談を言うものだから警官はそのままやりすごすといったところもあり、そのあと本当に犯人のジョニーが瀕死の状態で客席に横たわっていることに駆者が気づいて仰天し、あわててゴミ捨て場に降ろして捨て去るのだが、そこには古びた天使の彫像が豪雨に打たれてうなだれており、そこへ小鳥ばかり飼っている素朴で無教養な男(F・J・マコーミック)が現れ、賞金のかかっている犯人のジョニーを見つけて教会の神父(W・J・フェイ)に相談に行く。

イラスト/池田英樹

 一方、高利貸の狡猾な老女(モーリン・デラニー)の密告で、秘密結社のアジトになっていたジョニーの恋人(キャスリーン・ライアン)の家に警察の手が回り、ジョニーの救出作戦が失敗したことを知らされたキャスリーン(感情を顔に出すことのないクールで清楚な美しさが印象的だ)が警察に追われながらもジョニーをさがしに夜の街に出る。途中、港で知り合いの船会社の主と話をし、今夜出航する最後の外洋船に2名乗りたいので出航の時間を深夜12時まで遅らせてほしいとたのむ。ここから急速にジョニーの救出は時間とのたたかいになる。ロンドン塔の時計台が午後4時を告げるときから映画がはじまり、「5時までには帰る」はずだったジョニーの計画もすでに夜の闇に包まれ、雨から雪になったロンドンの寒空の下についえてしまったかにみえるが、同志であり恋人のキャスリーンは静かにひとり心に決めたことがあるのだろう。ジョニーがかつて洗礼を受けた教会の神父(ゴミ捨て場で瀕死のジョニーを発見した小鳥ばかり飼っている素朴な初老の男が賞金のことで相談に来たのも同じ神父の教会だった)に相談に行くと、神父はジョニーがいかに革命のためとはいえ犯罪を冒した罪を償わなければならないと言い、彼女に信仰をしっかり持って生きることを諭すのだが、彼女はジョニーを思う自分の愛情は信仰よりも強く、彼をひとりでは死なせられないと告白する。
 雪の舞う夜の街をさまよいつづけたジョニーは酒場に転がりこんで倒れ、酔いどれの売れない画家(ロバート・ニュートン)にこの瀕死の男こそ生と死の挟間に苦しむ人間の真実を描く絶好のモデルになると古ぼけたアトリエにかつぎこまれる。死にゆく男の姿に魅せられて絵筆を取る狂ったような画家を演じるロバート・ニュートンの怪演ぶりも見ものだ。そこへ医師くずれの男(エルウィン・ブルック=ジョーンズ)が現れて、死にゆく男を少しでも生かそうとして、これまた狂ったように応急手当を試みる。と、突如、死からめざめたようにジョニーの苦悶のうわごとが明晰な演説口調になったりする。と、こうしてくどくどと書き連ねてきたけれども、映画の息づまるようなリズムには追いつけない。
 ついにキャスリーンが物蔭で雪に埋もれて倒れていたジョニーを見つけ、外洋船の待つ港までみちびいていこうとするのだが、鉄格子に阻まれ、じわじわと迫りくる警察の捜査網に取り囲まれて逃げ場を失う。外洋船の出航の合図が聞こえる。最期を悟ったキャスリーンは、ジョニーに「遠くへ行くのよ、いっしょに」と言い、迫りくる警官隊の発砲を誘発するために拳銃を警官隊のほうに向けて発砲する。
 ふたりの死体に雪が降りかかり、出航を告げる船の汽笛と深夜12時を告げる時計台の鐘がむなしく響きわたる。この世で結ばれなかった恋人たちの道行のようなせつなく感動的なラストシーンだ。

●巧みな回想形式でサスペンスを盛り上げる娯楽映画の絶品

『ある殺し屋』は、1967年の日本映画。1969年に37歳で癌のため亡くなった市川雷蔵のスクリーン・デビュー70周年を記念して昨年末から今年の初めにかけて催された「市川雷蔵映画祭 刹那のきらめき」から、現代劇だが忘れがたいこの1本を選んでみた。
『眠狂四郎』シリーズ(1963—69年)の時代劇スターとしての市川雷蔵のほうがその端整な容貌、端正な身のこなしは「無頼で優雅で冷酷で、なおかつ一抹の慈悲と含み笑いを忘れないニヒリスト」(芝山幹郎「スターは楽し 映画で会いたい80人」、文春新書)によりふさわしく印象的で忘れがたいとも言えるのだが、現代劇でまるで市井のサラリーマンのように街なかを歩いていても特にきわだったり目立つというようなことのないスターらしからぬ風情の名優・市川雷蔵も捨てがたい魅力があった。目のふちにそれとなく化粧を施す目張りだけで見事に目立たない人物になりきったといわれる名優である。
 というわけで、『ある殺し屋』の主人公はこざっぱりした地味な服装で地下鉄(らしい)駅から出てきてタクシーに乗る。港に近い荒れ果てた(まだ戦禍の残る)殺伐たる埋立て地の風景のなかで下車した男は見捨てられた墓地に向かって歩き、トタン板で手づくりされた空き小屋をのぞき、「空室あり」と書かれた看板のぶらさがる墓地裏の2階建てのボロ屋に仕事場になる1室を見つける。仕事はもちろん殺しである。プロの殺し屋、必殺仕事人である主人公は仕事に取りかかるときは、そこで寝泊まりしてすべてを準備する。ふだんは町の小料理店を経営し(それが世を忍ぶ仮の姿だ)、板前の腕は包丁だけでなく殺しに使う畳針を砥石でとぐ手つきだけでもわかるような鋭く静かなとぎかただ。
 小料理店にはまだ少女の面影を残した小林幸子(のちに大歌手になる)が可愛いお手伝いさんの役で出てくるのもご愛嬌だ。土建屋のやくざの組長に小池朝雄、小粋なプレイボーイ気取りで殺し屋志願のやくざに成田三樹夫、色と欲の二筋道で小料理店のニヒルな主人に近づき、女房気取りで居座ってしまう挑発的なあばずれに野川由美子(けばけばしい原色の装いは彼女だけである)というそれぞれ口も達者で魅力的な当時の日本映画のぜいたくなキャストの芸達者たちが寡黙でクールな市川雷蔵と親密にからむ。なかでも殺しひとすじのダンディな生きかたに惚れ込んだ成田三樹夫の、役柄とはいえ、冗談とも本気とも知れぬ生真面目な口調が笑わせる。山場は麻薬密輸団から2億円相当ものブツを横取りする計略で、色と欲をからめたやくざとあばずれの裏切りもあって、墓地で死闘をくりひろげることになるのだが……1度は女と組んで兄貴を裏切った弟分気取りの成田三樹夫の回心もあって一件落着。「仕事は仕事だ」とプロの仕事師らしく、市川雷蔵は奪ったブツをさっさと山分けして去っていく。取り残された成田三樹夫にあばずれの野川由美子が「これからあたいといっしょに…」と誘うが、仕事を終えたらきっぱりとひとり去って行った市川雷蔵さながらに「色と欲にくらんで、仕事のけじめがつかねえ女に用はない」とかなんとかカッコよく吐き捨てるように言って去っていく成田三樹夫がケッサクだ。娯楽映画の珍品、絶品というべきか。

イラスト/池田英樹

 監督の森一生(もり・いっせいと呼ばれていたが「一生」を本名のかずおと呼ぶ人もおり、大酒飲みで業界では酒1升、森いっしょうと呼ばれていた)は当時のプログラム・ピクチャー(2本立ての上映プログラムが週替わりという日本映画の全盛時代だった)の名匠で、『ある殺し屋』の物語も、殺し屋の二重生活、町の小料理屋と墓地の仕事場を巧みなフラッシュバック(回想形式)で交互に描きながらサスペンスを盛り上げていく。戦争で生き残った戦中派の主人公は戦後を余生のように考えていることがわかる。脚本は藤原審爾の小説「前夜」から増村保造と石松愛弘が共同で書いたもので、映画の企画プロデューサー、藤井浩明によると「[市川]雷蔵が演じる殺し屋は、何故、金と引きかえに殺人を引き受けたのか、シナリオを作る段階では次のように規定した」とのこと(DVDの解説書による)。「つまり、戦争末期、海軍航空隊にいた雷蔵の戦友の多くは大空に花と散っていった。九死に一生を得た彼は戦後の日本でささやかに生きてきた。ところが、日増しに堕落してゆく日本を見るにつけ愛する祖国のために死んでいった仲間の無念さを痛感するようになった。金のために狂奔する悪党たちの殺しを依頼されて彼は次々と引き受ける。報酬は絶対まけない。何故なら、彼は多くの戦友たちの慰霊碑を作ろうと心に決めていたのである。その気持ちをシナリオの第1稿ではかなりはっきり書き込んだつもりだったが、殺しを引き受けるのにこまごまと説明する必要はないと[製作会社]大映の永田雅一社長に反対され、その箇所を大幅に削除した」とのこと。小料理店の2階にさりげなく飾ってある1枚の写真——海軍航空隊の戦友ふたりと微笑んでいる写真——だけで、死んでいった戦友たちの祈り、無念の思いが伝わってくるというこころにくい演出である。

イラスト/野上照代

山田宏一

やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。

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