映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、とっておきの映画を「2本立て」で紹介していただくコーナーです。前回に引き続き、邦画は清水宏監督の名作『簪』、そして洋画はスリル満点のサスペンス映画『恐怖の岬』の2本立てとなります。かたや温泉宿を舞台にしたほのぼの映画、かたや息が詰まるほどハラハラさせる映画というタイプの違う2本立てを存分に味わっていただきたいと思います。
紹介作品
簪
製作年度:1941年/上映時間:75分/監督・脚本:清水宏/撮影:猪飼助太郎/音楽:浅井挙曄/出演:田中絹代、笠智衆、齋藤達雄、日守新一、三村秀子、河原侃二、横山準、大塚正義、川崎弘子、坂本武、松本行司、油井宗信、大杉恒夫、寺田佳世子ほか
恐怖の岬
製作年度:1962年/上映時間:105分/監督:J=リー・トンプソン/脚本:ジェームズ・R・ウェッブ/撮影:サム・リーヴィット/音楽:バーナード・ハーマン/出演:グレゴリー・ペック、ロバート・ミッチャム、ポリー・バーゲン、マーティン・バルサム、テリー・サヴァラス、ジャック・クルーシェンほか
●時代を経て永遠の名作と讃えられるおおらかな人間模様
前回取り上げた『有りがたうさん』(1936年)に次ぐ、清水宏監督の「美しい自然の風景と人間模様を描いた」もう1本の名作、『簪』(1941年)を今回もじっくり、たのしく見てみたいと思う。世界は第2次世界大戦に突入していたが、そんな時代の気配も気分もなく、のんびりとおおらかに山の温泉宿でひと夏をすごす男女の人間模様を点描しただけの軽い作品のようにもみえるところが『有りがたうさん』と同じ、まさに清水宏監督タッチだ。名匠、巨匠にふさわしい重厚な、重苦しいテーマは清水宏監督作品にはまったく無縁なのである。若い、若い(とあえて強調したくなるのは戦後の映画ファンにしかすぎない私には小津安二郎監督の数々の名作でいつもおじいさんばかり演じていた印象しかなかった)笠智衆が戦傷帰還兵という役で湯治のために逗留しているのがわずかに戦時中の話であることを思い出させてくれるが、だからといって戦争の話題などが出てくるわけではない。時代とともに劣化した画面や音声が古い映画であることを否応なく思い出させてくれるだけで、どこか時代を超えた、“永遠の映画”とでも呼びたいようなそこはかとない魅力的な生命力を感じさせる。しかし、ある時期、映画は時代の産物であるという批評的言説が大きな影響力を及ぼし、たぶんそのために(としか思われないのだが、もちろんそれだけの理由ではないかもしれない)時代の状況にまったくかかわりのないような清水宏監督の映画はすっかり忘れ去られてしまった観があった。いまでは、むしろ、清水宏こそ永遠なのだとみなされていると言ってもいいくらい、映画館でもビデオでもネット配信などでも作品が見られるようになった。
SHV(松竹ホーム・ビデオ)によるDVDボックス「清水宏監督作品 第1集 山あいの風景」の解説書には、これぞ温故知新と言うべきか、佐藤忠男が「ヌーベルバーグ以前に作られたヌーベルバーグ的な作品」として清水宏監督の映画を熱っぽく、こんなふうに推賞している。
「ヌーベルバーグ(新しい波)は1959年頃からフランスで起った動きで、大がかりなセットや波乱に富んだストーリーやスターたちのお芝居くさい演技などを揃えなければ映画は作れないと思われていた当時の常識を打破して、もっと身軽にカメラを現実の中に持ち込んで生きた人間をとらえよう、という若い監督たちのさまざまな試みをこの言葉で一括したのがヌーベルバーグだったが、じつはそれより25年前に30歳だった清水宏が作っていた一連の傑作こそが正にそういうものだった。
『有りがたうさん』にはヌーベルバーグ的な試みがあふれており、それが単なる試み以上の成果をあげていた。伊豆の下田と三島で往復するバスに乗り合わせた人々の話であるが、運転手を演じる上原謙は実際にバスの運転をさせてオール・ロケーション撮影をやったということが画期的だった。
特別に景色のいいところを選ぶというのではなく、当り前の自然の中に俳優を置いて、俳優をそれにしっくりなじませるのが清水宏の流儀だった。だから俳優に熱演は決して求めなかった。批評家で親友だった岸松雄は、清水宏がよく、『役者ではなく、人間が大事だ。作りもののセットではなく、実際の花や木や家の大黒柱の年輪の美しさが必要なんだ』と言っていたと追悼文に書いている。
これらの半ば伝説化して語り伝えられているエピソードから分かるのは、清水宏がただ、いい景色を撮りたくてロケーションにこだわったのではなく、俳優たちが各自持っている自然な持ち味をのびのびと出せるような場と状況を求めて、日頃よく静養やピクニックにゆく伊豆あたりの自然を求めたということである。だから『簪』のロケ地は下部温泉であり、しかもひなびた温泉地でのんびりしているのである。
ロケ地の気分にひたりながら即興的に映画を作ってゆくということを積極的に試みた。この即興的演出の重視ということも後年のフランスのヌーベルバーグの若者たちが自分たちの映画作法の新しさのひとつとして強調したことだった。ロケーション本位の簡潔な映像から豊かな内容をつむぎ出すというヌーベルバーグがめざした行き方を清水宏はもっと早くに見事にやっていたのである」。

イラスト/池田英樹
ゆるやかにゆれるキャメラが画面を大きな構図でとらえて見せる『簪』のはじまりから、ロケーションの迫力に圧倒される。
こんもりとした大樹に取り囲まれた山道を大勢の男女が上ってくる。「蓮華講」と読める幟を掲げている人もいるし、「南無妙法蓮華経」と唱えながら鉦鼓を桴で打ち鳴らしている人もいるので、神社・仏閣への参詣や寄進を目的とした信者の団体らしいが、そのなかにまじって信者たちと同じ白衣の若く美しい田中絹代と川崎弘子の2人連れもいて、汗をぬぐいながら、なにやらたのしそうに話し合っている。
温泉場の宿では団体客の到着で大わらわ、2階の奥の部屋で静かにひとり読書中のひげの学者先生(齋藤達雄)が「うるさいなあ」「ああ、うるさい」といらつき、廊下へ出て下の団体客があられもなくざわつく姿を見て腹を立てる。「なかなか賑やかですね」と若々しい(といちいち言いたくなるくらい若々しい)笠智衆の戦傷帰還兵が廊下の椅子から立ち上がってノッポの学者先生に挨拶すると、「賑やか? きみにはあれが賑やかと感じますか。あれはうるさいというのです。じつにうるさい」と先生は機嫌が悪い。隣の部屋から老人(河原侃二)が出てきて下をのぞきながら、「なかなか景気がいいですな」と言うと、「景気がいい? あれが老人には景気よく感じますか。あれはうるさい。うるさいというもんです」とノッポでひげの先生はますます不機嫌になる。いつも静かでしっかりした奥さん(三村秀子)と連れ立って歩く気弱で気がいい旦那さん(日守新一)も「なかなか今夜も派手ですね」などと言うものだから、学者先生はいらだつばかり。「派手? 派手とはどういう意味ですか。あれは、きみ、うるさいだけです」。気弱で気がいい日守新一の旦那さんは「すみません、どうも失礼しました」と恐縮するばかり。口うるさい学者先生だが、齋藤達雄の飄々としてマイペースながら洒脱な風情がなんともおかしく、笑わせる。帳場に按摩をたのむと今夜は団体客でひっぱりだことのこと、「けしからん。団体で按摩を独占するとは道徳的に許せん」と学者先生は怒り心頭に発するかと思えば、団体客が去ったあと、木々に囲まれた朝の野天風呂でみんなと仲よく入浴してくつろぎ、そこでたまたま若い笠智衆の戦傷帰還兵が湯の底に落ちていた簪を足に刺して怪我をしてしまい、これは一大事とばかりに宿の亭主(坂本武)を呼びつけて詫びを迫るのもお節介やきでうるさ型の学者先生である。そもそも戦場で脚を怪我して湯治中の若き帰還兵がさらに簪を足に刺して大怪我を負う不運に見舞われるとは…と学者先生は親身になって心配するが、戦傷帰還兵の笠智衆のほうは「大した怪我じゃない」からと言い、朝湯のなかで女の簪を踏むなんて「むしろ情緒を感じますよ」。これには学者先生も「ふむ…情緒か」と感嘆。「きみのその説には多分に退廃的臭みがあるが、どうです、退廃的であると同時に卑俗的でもありたいなら、その簪を落とした婦人が美人であればと期待してみたら?」などと言い出す始末である。
簪の落とし主が「いわくあり気な」女(田中絹代)とわかり、その簪を湯のなかで踏んで足に怪我をした男の人がいると知らされて彼女がお詫びに来ることになり、学者先生の「情緒」論が映画の後半をいっきょに盛り上げることになる。簪に「情緒的イリュージョンを夢のごとくふくらませている」からには美人がやって来なければならない。「これが不美人だったら悲劇だよ」と学者先生はわが身のごとく艶っぽく憂慮する。
こうして、簪を落とした若い美人・田中絹代と簪を湯のなかで踏んで怪我をした若い戦傷帰還兵・笠智衆がまるでお見合いのような紹介による出会いをして恋が芽生えるのだが、帰還兵のほうはたぶん戦傷が完治したらまた戦場へ戻らなければならないのだろう、色恋沙汰に自分から積極的に溺れるような風情は見せない。
東京から、田中絹代の「いわくあり気な」女に次いで、もうひとり、「同じ境遇」の女、川崎弘子が、たぶん女たちを囲うパトロンの命令で見張り役としてやってくる。齋藤達雄の学者先生が何も知らずに宿の奥座敷の唐紙をあけると浴衣姿の川崎弘子が背を向けて艶然と寝そべっている姿におどろき、「これまた、なかなか情緒的ですよ」と心打たれたように感嘆するせりふもある。
「もう東京に帰りたくない」と田中絹代が川崎弘子に告げるシーンは、「まともな生活」(ここに来て初めて「健康的なラジオ体操も覚え、洗濯も覚えた」と田中絹代は言う)に生き甲斐を見出した女の素朴ながら率直な歓びが感じられる。その率直な思いに共感しつつ、川崎弘子は田中絹代とこんな対話を交わす。
「あんた、どうしても東京に帰らないつもり?」
「そう、当分は。今までのような、じめじめした暮らしかたがもういやになったの。そりゃお金には不自由しなかったけど…寝たいときには寝て、起きたいときに起きて、食べたい物を食べて…でもそれっきりよね。もっと生き甲斐のある生きかたをしたくなったの。だから、もう何も聞かないで、ほっといてほしいの。これから先のこと、わたしにだってわからないけど」
「(川崎弘子は田中絹代に近寄って)お説教するつもりで来たのに、あべこべにお説教されちゃったわね。よくわかったわ。そんならそれで、あたしがきっぱりあの人に話をつけてあげる。それから、わたしも…」
山のなかの川のせせらぎの音とともに印象深く、忘れがたいシーンだ。
夏も終わり、学者先生を中心に(みんな実はそれぞれ宿代を「公定価格以下」に値切って逗留していたことがわかってすっかり仲よしになって)立ち去り、「もっと生き甲斐のある」新しい生きかたをめざす女(田中絹代)だけが人気なき温泉地に取り残される。子供たち(兄弟)の声援に励まされて松葉杖なしで歩けるようにがんばった戦傷帰還兵の若い笠智衆も——田中絹代におんぶされて助けられたりしながらも——いさぎよく立ち去った。
ラストシーンは秋色深まる長雨の降るなか、雨傘をさした女、田中絹代がひとり思い出の八橋を渡り、石段を上る。ふりかえっても、すでに消え去った幸福な「情緒的イリュージョン」はよみがえることなく、映画は静かにフェイド・アウト(暗転)して終わる。
●男たちのすさまじい死闘が見もののサスペンスの傑作
日本映画『簪』の紹介が長くなってしまったので、外国映画(イギリスの監督、J=リー・トンプソンによるアメリカ映画である)『恐怖の岬』(1962年)については短く紹介することにしよう——いや、短いほうが、このスリル満点のサスペンス映画の謎(というよりは怪異とでも言いたいような恐怖)についての余計なネタばらしなどせずに済むかもしれない。

イラスト/池田英樹
8年間の刑期を終えて出所した兇暴な変質者が誠実な弁護士一家に逆恨みで仕返しをするために執拗に迫る。誠実な弁護士を演じるのは「自らの人間性を投影したようなリベラルな弁護士を好演した」(と評され、1962年のアカデミー主演男優賞に輝いた)名作『アラバマ物語』(ロバート・マリガン監督)以来、まさに人間性あふれる誠実さそのものを体現したと言ってもいいグレゴリー・ペック、女性暴行の常習犯である変質者を演じるのはニューロティックな恐怖映画『狩人の夜』(チャールズ・ロートン監督、1955年)で月下の夜の地平線のかなたから裸馬にまたがって大声で歌いながら幼い姉弟を追ってくる殺人鬼を怪演したスリーピー・アイ(眠たげな目付き)の不安な、何を考えているのかわからない名優(と言うべきか)、ロバート・ミッチャム。原始林に囲まれた“恐怖の岬(ケープ・フィアー)”と呼ばれる河の奥の小島での暗く不気味なすさまじい死闘に至る男たちの、これでもか、これでもかと果てしなくつづくかにみえる恐怖の対決が見ものだ。いつも太い葉巻きたばこをくわえ、パナマ帽をかぶって悠然と闊歩する大男のロバート・ミッチャムはこせこせとした陰険な逆恨みの復讐鬼でなく、弁護士に相談された警察署長(マーティン・バルサム)に逮捕されても悪気なく堂々としていて、自らも悪徳弁護士を雇って「法にふれる」ことなく巧妙に脅迫を押し進めていく。グレゴリー・ペックの弁護士のほうが先手を打って逆に法すれすれのむごい仕打ちに出なければならない。私立探偵(テリー・サヴァラス)を雇ってロバート・ミッチャムの動きをさぐったり、妻(ポリー・バーゲン)の進言で脅迫者のロバート・ミッチャムを金で買収しようとしたりする。「いくらほしい?」と聞いてもロバート・ミッチャムは「考えさせてくれ」と即答しない。「言え、いくら払えばいいのだ?」と迫っても、「簡単にはいかんぞ。値打ちを考えたい」と知能犯のようにじっくり計算して答える。「8年の刑期の値打ち、それに家族の値打ち…興味ある計算だ」と弁護士一家(妻と娘)の命もねらっていることを示す。しつこく厄介な脅迫者だ。
1991年にはマーティン・スコセッシ監督によって再映画化され、『ケープ・フィアー』という原題のまま日本公開され、タフな復讐鬼をロバート・デ・ニーロがこれ以上ないくらい悪どく兇暴に——嬉々として(と言いたいくらいすさまじく、たのしそうに?!)——演じた。残忍な悪役を演じることはスターにとって格別のたのしみなのかもしれない。

イラスト/野上照代
山田宏一
やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。
