映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、その時期に合わせた映画を「2本立て」(日本映画、外国映画)で紹介していただくコーナーです。いよいよ本格的な夏の季節がやってきますが、まさにそんな時期にぴったりの木下惠介監督の怪談映画『新釈四谷怪談』と、むせかえるような自然の美しさが際立つ、ジャン・ルノワール監督の名作『ピクニック』を紹介していただきます。
紹介作品
新釈 四谷怪談
製作年度:1949 年/上映時間:前篇 85 分、後篇 73 分/監督:木下惠介/原作:鶴屋南北/脚色:久板栄二郎/撮影:楠田浩之/音楽:木下忠司/出演:田中絹代、上原謙、滝沢修、佐田啓二、山根壽子、杉村春子、加東大介
ピクニック
製作年度:1936〜46 年/上映時間:36 分/監督・脚本:ジャン・ルノワール/原作:ギイ・ド・モーパッサン/撮影:クロード・ルノワール/音楽:ジョゼフ・コスマ/出演:シルヴィア・バタイユ、ジャーヌ・マルカン、アンドレ・ガブリエロ、ジャック・ボレル、ジョルジュ・ダルヌー、ジャン・ルノワール、マルグリット・ルノワール
映画の題名からして季節感のある邦洋2本立ての映画だ。木下惠介監督の『新釈四谷怪談』(1949 年)とフランスのジャン・ルノワール監督の『ピクニック』(1936/46 年——1936 年に撮影され、46 年に編集されて完成)。怪談は夜、ピクニックは昼という対照がきわだつ 2 本立てである。ともに白黒作品で、かたや前篇 85 分、後篇 73 分の2部作、かたや掌篇あるいは短篇と言ってもいいわずか 36 分の作品だが、ともに見ごたえのあるすばらしい映画だ。
異色とも言える新解釈の怪談映画の面白さを堪能
今は昔ということになってしまうけれども、夏が近づくと暑気払いの納涼大会といった趣向で見るからにぞっとして背筋が寒くなる恐怖の怪談映画がつくられ、まだ冷房設備の整っていなかった映画館を賑わせたものだった。盆と正月は映画興行のかきいれ時で、松竹のドル箱(とまではいかずとも名匠、ヒットメーカー)とみなされていた木下惠介監督が「お盆には『四谷怪談』なんかいいんじゃないの」と会社側にもらしたひとことから、「よし、それならやってみろ」ということになって、たちまち映画化が決まったということである。木下惠介監督の怪談映画、というだけで期待は大きかったにちがいない。
『忠臣蔵』の外伝でもあるスケールの大きな構造の江戸歌舞伎の傑作として知られる鶴屋南北原作の『東海道四谷怪談』を、小心でしがない下級武士、民谷伊右衛門がシェイクスピアの悲劇『オセロ』に出てくるイアーゴのような奸計にたけた悪党、直助権兵衛にそそのかされて妻のお岩を殺害してしまい、その罪悪感による妄想にとり憑かれて自滅していく悲痛な物語に書き換えた久板栄二郎の脚本は木下惠介監督の腹案、アイデアにもとづくもので、殺されたお岩の亡霊は良心の呵責に悩む伊右衛門の恐怖心から生まれた幻想として影のようにつきまとい、画面にただようという新釈、つまりは新解釈の『四谷怪談』である。こわいといえばこれほどこわい話もない。夜もおちおち眠れないというこわさなのである。部屋が薄暗いのでふりむいたら、片隅にはおそろしい姿が、見上げれば天井には亡霊が...というこわさだ。
イラスト/池田英樹
松竹の2大スター、上原謙と田中絹代(1938 年につくられ、主題歌「旅の夜風」とともに戦時下で大ヒットした純愛のメロドラマ『愛染かつら』の名コンビだった)の共演。端正な美男スター上原謙は時代劇初出演、まだ初々しく純情可憐なイメージの残る田中絹代が封建制度のしがらみのなかで愛する夫に仕えてじつにいじらしく、あわれで(水茶屋の女だったので、もしかしたら身分違いで武家の夫とは正式には結婚できなかったのかもしれない)、愛する夫の心をつなぐためにおなかの赤ん坊を大事に大事にしてきたが流産してしまう。泣いて泣いてお詫びばかりしているお岩に夫の伊右衛門は「めそめそする女は嫌いだ」と冷たく叱る。失業武士、傘張り浪人に落ちぶれた伊右衛門は前途に希望もなく、安酒場に入りびたって、貧しい屋敷に帰っても、お岩のあまりにひたむきな愛情がうっとうしく、重苦しく感じられるだけなのだろう。
そんな失意の伊右衛門に悪魔のささやきのようにお岩殺しの計略をしつこくそそのかすのが、直助権兵衛(演じるのは新劇の名優滝沢修で、これ以上ないと言いたいくらいの見事な悪党ぶりである)。映画のはじまりに前科者の直助権兵衛の悪党ぶりが紹介され、伊右衛門はその毒牙にかかるのだが、それというのも、祭りのさなかに暴れ者の一団に絡まれたお梅という商家の娘(山根壽子)を伊右衛門が救ったことから、この裕福な大商家の一人娘に見初められた伊右衛門が、勘定奉行などにもつて..があるという、この大商人の娘婿に迎えられるという話が出てきて、ここぞとばかりに悪の権化、直助権兵衛は伊右衛門をお岩と別れさせ、自分もひと儲けしようと企むのである。お岩の片眼がつぶれて目も当てられない形相になる毒を盛る手立てを講ずるのも、もちろん、直助権兵衛だ。悪だくみのコンビを組む情婦が商家の女中お槇で、演じるのはこれまた新劇の名女優、杉村春子。その悪の演技の見事さも印象に残る。直助のたくらみにつけいる小悪党(加東大介)もかつては女中お槇と関係を結んでいたらしいことがわかる。
愛する夫に毒を飲まされたとは夢にも思わずに死んでいくお岩はさらにいっそうあわれで、不憫で、彼女をずっと恋い慕っていた若い純真なやさ男、小仏小平(佐田啓二)が、これも悪党の直助権兵衛の悪だくみにひっかかり(ともに監獄で知り合った前科者だったが、小平は純真な男で)死んだお岩の間男に見せかけて無残に殺され、魂だけは生き残っている幽霊さながらに一瞬起き上がってお岩の死骸をひきずって歩き出すシーンなど、まるであの世とこの世が地つづきになっている妖しくも不気味な恐怖感で、何歩か歩いて静かにお岩と重なるように倒れ込むと、突如、2 個の火の玉がそこから飛んでいくという忘れがたい前篇の終わりになる。死人のからだから離れた魂——人魂(ひとだま)——が、一瞬とはいえ(美しく衝撃的な一瞬で、いつまでも、いつまでも、心に残った)、映画でこんなに鮮烈に感動的に(!)表現されたことがあっただろうか。
「前篇終」のエンドマークのあと、画面には「可哀想なお岩/死んでも浮かばれないお岩/良心に悩む伊右衛門や/悪の権化直助が/どんな報いを受けたか/後篇を御期待下さい」という字幕が出るのだが、舞台なら早く第 2 幕が上がって後篇が見たくなるところだ。
後篇は田中絹代の 2 役(お岩の妹、お袖——映画の前篇のはじめに、佐田啓二の小仏小平がお岩と見まちがえるシーンがある)と宇野重吉が演じるその夫、与茂七の理知的な町人夫婦の目から見た伊右衛門の最期が描かれる。私は 2 個の人魂(火の玉)が飛ぶ前篇のラストシーンまでしか見ておらず(いや、後篇も見たかもしれないのだが、この火の玉の飛ぶ衝撃のせいか、後篇はまったく覚えておらず、今回初めて前後篇をつづけて見て、公開当時なぜ後篇の評判が悪く、失敗作とまでみなされたのかはともかく(たぶん前後篇に分けなくてもいいのではないかと思った人が多かったのではないだろうか)、前後篇を一気につづけて見て、異色とも言える新解釈の怪談映画の面白さを堪能した。格子戸、蚊帳、たたみ、行灯、庭の竹やぶ、川の流れ、夏の風物詩のすべてが、長回しのキャメラの、ときにはダイナミックな、ときには妖しく幽玄な移動やパンとともに(撮影は木下惠介監督とは名コンビの楠田浩之である)心胆を寒からしめる傑作と感じた。
自然の官能的な美しさに魅せられる名作
ジャン・ルノワール監督の『ピクニック』は快晴の青空の下のピクニック風景をねらって 10 日間でロケーション撮影を終え、そのあと 2 日間をセット撮影に予定して、パリ郊外のフォンテーヌブローの森のはずれの川べりで 1936 年の 6 月にクランクイン。ところが、その年の夏は雨ばかり降って 9 月に入っても映画はまだ終わっておらず、くる日も、くる日も雨つづきで、ついに中断せざるを得なくなった。
撮影中はいつものジャン・ルノワール監督のスタッフ・キャストで和気あいあいの活気あふれたムードだったので(DVD に特典映像として収録されているメイキング記録映像『ピクニック』の撮影風景、『ピクニック』のリハーサルからもその雰囲気がよく伝わってくる)、撮影中断のままあきらめてしまうにはもったいないと製作のピエール・ブロンベルジェが心機一転、撮影済みのフィルムの断片から、精鋭のスタッフ(助監督のなかにはその後すぐれた監督になるジャック・ベッケルやルキノ・ヴィスコンティ、有名な写真家になるアンリ・カルチエ=ブレッソンらがおり、ジャン・ルノワールを敬愛して自らルノワールの姓を名乗ったスクリプターであり編集者だったマルグリット・ルノワールがシナリオや撮影プランのすべてを記述してあった)の全面的な協力を得て、現行の 36 分の作品が仕上がった。「この映画はやむを得ぬ事情で未完に終わったが、[戦時中ナチ占領下のフランスから逃れて]滞米中のジャン・ルノワール監督に代わって作品と登場人物たちのイメージを損なわないように考慮しつつあるがままお見せする。全体の筋がわかるように 2 か所字幕を挿入した」ということわり書きからはじまるのも、そのためである。その補足の字幕の最初は、「パリの金物商デュフール氏は妻と娘と娘の未来の婿養子アナトールを連れて、1860 年のある夏の日曜日、隣の牛乳屋から借りた馬車でピクニックへ出かけた」という単純なものである。
川べりのレストランに一家を乗せた馬車がやってくる。レストランの主人(おやじ)を演じているのがジャン・ルノワール監督自身で、女中の役を演じているのが編集担当のマルグリット・ルノワールである。
男たち(デュフール氏とアナトール)は釣りに夢中になり、女たち(母と娘)は若い遊び人に誘惑される。映画の原作はモーパッサンの短篇小説『野あそび』だが、物語以上に映画そのものがいきいきとしてすばらしく、太陽の光、川面のきらめき、草のかおり、木々のにおい、かぐわしきそよ風といった自然の官能的な美しさに魅せられてしまう。フランスの印象派の画家、ピエール=オーギュスト・ルノワールがジャン・ルノワールの父であり、彼もまた印象派の画家と同じような感性の持ち主だったのだろう
イラスト/池田英樹
明るい自然のなかで、真夏のきらめく陽光とたわむれながら、パリから田舎にピクニックにやってきた一家は草の上の昼食をたのしみ、舟遊びに興じる。草のにおいに感覚が刺激され、やさしさを求めて心がうずく。
さくらんぼの木の下で、若い娘(シルヴィア・バタイユ)は母(ジャーヌ・マルカン)に寄り添って、こんな気持ちを告白する。「ねえ、ママもわたしぐらいの年だった頃、いまのわたしみたいな変な気持ちになった? なんだか、やさしさがこみあげてきて、草や水や木に愛を感じるの。かすかな快い欲望がわいてくるの。何かが胸にこみあげ、泣きたいような気分よ。若い頃、ママもそんな気持ちになった?」
夏の光がきらめく自然のなかで、シルヴィア・バタイユがぶらんこに乗るシーンの官能的な美しさ。窓をあけたとたんに、ぶらんこの彼女が画面からとび出てきそうな衝撃的な美しさだ。
ジョナス・メカスは「もし映画が美しいというのなら、それはジャン・ルノワールの映画のことである」と讃えた。「彼の語ることはすべて美しい。彼の語り方も美しい。映画のテーマ、映画のストーリーなど何の意味があろう? 愛、太陽、木、美しい女、夏の日、草の上のピクニックの映画で充分だ」。そして、「草むらの中でも、森の中でも、彼(ジャン・ルノワール)はただ生き、歌い、冗談を言い、踊り、はしゃぎまわる」のだ、と(『メカスの映画日記』、飯村昭子訳、フィルムアート社)。『ピクニック』の登場人物たちもよく笑い、はしゃぎまわる。キャメラもいっしょになって笑いこけてしまうような感じさえする。そのためにピンボケの画面になったりするのだ!
映画と川の流れの「絆(きずな)のような結びつき」(とジャン・ルノワールは語るのだが)の感動も『ピクニック』という作品の忘れがたい美しさだ。ヒロインのアンリエット(シルヴィア・バタイユ)は川面をすべる小舟に乗ってつぶやく。「静かでいい気持ち。音を立てるのがわるいみたい。静けさを破るから」。舟の漕ぎ手の男(ジョルジュ・ダルヌー)が言う。「小鳥がさえずっているよ」。「小鳥のさえずりも静けさよ」と彼女は答える。ジュルメーヌ・モンテロがハミングするジョゼフ・コスマ作曲の甘美なメロディーが流れ、キャメラはまるでヒロインのアンリエットの心のように微妙にゆらぎつつ、水面すれすれに、樹木におおわれた岸辺の風景を撫でていく。岸に上がり、森のなかでウグイスのさえずりを聞きながら、娘は男に体をゆだねる。画面いっぱいにとらえられた娘のクローズアップ。その瞳にひと粒の涙が光る。
雨雲が空いっぱいにひろがり、大粒の雨が川面を打ち続けて無数の波紋をつくり、はねかえる。その雨足をキャメラは大きくゆれながら後退しつつとらえ、いつまでも、いつまでも、ふりかえりつづけ、もう 2 度とかえってこない幸福な夏の光に永遠の別れを告げてむせび泣いているかのようである。そして長い長いフェイドアウト——画面の暗転——とともに「月曜日のように悲しい日曜日がめぐり——」という字幕が出て、数年が過ぎ去っていく。こうして『ピクニック』のキャメラは、笑い、はしゃぎまわったあと、むせび泣きつつ、映画そのものの心のときめきを伝えてくるかのようだ。
イラスト/野上照代
山田宏一
やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。