映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、その時期に合わせた映画を「2本立て」(日本映画、外国映画)で紹介していただくコーナーです。片や哀切ながらすがすがしい青春映画で、もう片方は明朗快活な喜劇と、味わいは異なりますが、ともに夏の陽光で鮮やかに映し出される名作です。暑い日が続く季節にふさわしい2本立ての妙をお楽しみください。
紹介作品
春の悶え
製作年度:1951年/上映時間:103分/監督:アルネ・マットソン/撮影:イエラン・ストリンドベルイ/音楽:スヴェン・シエルド/出演:フォルケ・サンドクィスト、ウラ・ヤコブソン、ベルタ・ハル、エリック・ヘル、エドウィン・アドルフソン、イルマ・クリステンソン
カルメン故郷に帰る
製作年度:1951年/上映時間:86分/監督・脚本:木下惠介/撮影:楠田浩之/音楽:木下忠司・黛敏郎/出演:高峰秀子、小林トシコ、井川邦子、佐野周二、坂本武、笠智衆、見明凡太郎、三井弘次
連日猛暑つづきのなかで、夏の映画の邦洋2本立てを考えた。市販のDVDでも見られるので、久しぶりに木下惠介監督の『カルメン故郷に帰る』とスウェーデン映画『春の悶え』(アルネ・マットソン監督)を見たいと思った。ともに1951年の作品である。
『カルメン故郷に帰る』は秋の運動会のシーンなどが中心になるので、夏は夏でも季節は夏の終わりなのだが、なぜか(もしかしたら雲はあるが気持ちよく晴れ渡った青空の下で物語が展開するせいか)、ずっと真夏の映画だったように記憶していた。『春の悶え』のほうは原題が『彼女は一夏(ひとなつ)しか踊らなかった』で、北欧の夏至の頃、白夜のはじまる夏休みの頃の話だったので、ずばり夏の映画なのだが……。DVDの画質はとくにスウェーデン映画のほうは古めかしさが気になるのだが、めったに見られない作品だし、私には忘れがたい(いまとなっては知られざる)名作なのである。
村娘を演じたウラ・ヤブコソンの初々しさに魅惑される
『春の悶え』は題名からしてかなりいかがわしいポルノ的な映画として評判になって、高校生だった私は好奇心を煽られ、ドキドキしながらこっそり見に行ったものだ。たぶん当時は18歳未満禁止の指定で映画館にもぐりこむのが大変だった。手元にある児玉数夫著『やぶにらみ世界娯楽映画史 戦後篇』(現代教養文庫、社会思想社)で調べてみたら、当時の週刊誌にもこんな記事が載っていたとのこと——「特に人気の焦点となったのは、この映画のポスターにも写真にも、裸体の場面がハッキリと出ているところがある。十代の男女が真っ裸で泳ぐ場面が最もセンセーションを呼んだのは事実である」。さらに、「諸外国では、この裸体シーンとルーテル(ルター)教会派の牧師の役柄が問題視されて公開禁止、あるいはカットされて公開など、その国の検閲制度によって種々であった」とも記されている。
映画は村の教会の牧師がきつい口調で演説する葬儀のシーンからはじまる——「突き刺すような風がひとりの少女の人生の盛りに吹き荒れた。無軌道な行為が若い命を奪い去った。無責任な新しい時代の風が容赦なくこの世を吹き抜け、平穏な暮らしをかき乱した。なぜ少女が犠牲になったのか、神のみが知り給う。これは神からの警告であろう。非常識な行ないがどれほどの犠牲を払わなければならなかったか、身勝手な行ないの代償がいかに大きなものか、誘惑者が背負う罪は重い。私は切に思う。小さき者をつまずかせた罪人は石臼(いしうす)を首にかけられて海に投げ込まれて然るべきである。神の罰は厳しいのだ…」
イラスト/池田英樹
誘惑者だった青年が涙をこらえながらやってくるが、葬儀の参列者たちから冷たい、憎しみのこもった眼で見られ、いたたまれずに逃げるように走り去って、葦の茂った湖畔にたたずみ、ひとり悲しく思い出にふける。「夏はどこへ行った。幸福は跡形もなく消えた。命と引き換えにしようとしても夏は戻らない……」というナレーションとともに映画は青年の回想になる。19歳の青年は大学を卒業して、夏を田舎の叔父の家で過ごそうと愛用のオートバイを走らせた。そして叔父の家に畑仕事の手伝いに来ていた17歳の村娘に恋をしてしまうのだが、この村娘を演じたウラ・ヤブコソンのういういしく、みずみずしい美しさに誰もが魅惑されたと思う。
森と湖に囲まれた農村で若者たちは日曜日になると教会などに行かずに素朴なダンスをたのしんだり、農家を改造して芝居をやったりして、「遊び」にばかり夢中になっているので、村の指導者気取りの牧師の反撥を買う。村の大人たちも牧師の厳しく熱心なお説教に影響されて教会の信者が圧倒的に多く、若者たちの自由な行動を抑えつけようとしている。そんな風潮のなかで、都会から来た青年と村娘がふたりきりになって、葦の茂る静かな湖畔で自然に愛の衝動に身をゆだね、真夏の陽光のもと、一糸まとわぬ裸身を湖水に快く浸し、戯れる。湖水の表面がキラキラと輝き、とても美しいシーンだ。水からあがった若い男女の肉体はひとつになって——という問題のシーンが愛の成就、性の悶えのクライマックスになるのだが、ここでウラ・ヤコブソンの胸が、乳房が、画面を圧して(とても美しいシーンなのだが)スキャンダラスな評判になった。
いま見ると単純にすがすがしい青春映画と言いたいくらいなのだが、できたら新しく修復された版(2Kなり4Kなりのレストア版)で見直したいものである。
ウラ・ヤコブソンは、この映画のあと、イングマール・ベルイマン監督のすばらしいロマンチックな喜劇『夏の夜は三たび微笑む』(1955年)の忘れがたいヒロインのひとりを演じたことも付記しておきたい。
スター女優高峰秀子の青春期の最後を飾る総天然色映画
高峰秀子はデコちゃんの愛称で人気の名子役だった。デビューが5歳からという場慣れしたキャリアの持ち主だったとはいえ、天真爛漫、素直であどけなく可憐で何をやってもはつらつとして天才子役の名をほしいままにしていた。15歳で主役を演じるスター女優になり、『綴方教室』(山本嘉次郎監督、1938年)、『秀子の応援団長』(千葉泰樹監督、1940年)、『馬』(山本嘉次郎監督、1941年)、『秀子の車掌さん』(成瀬巳喜男監督、1941年)などは戦前・戦中の作品だが、戦後の映画ファンである私も見ることができた。名作、ヒット作が多かったので、戦後も上映されていたのだろうと思う。『綴方教室』や『馬』は教育映画のように映画教室で見せられたような気がするけれども、そんな気がするだけで確かな記憶ではないのだが……。(『馬』は助監督時代の黒澤明と高峰秀子の出会いにもなったことで知られる)。
歌も踊りもうまかった。ブギの女王笠置シズ子と歌って踊った『銀座カンカン娘』(島耕二監督、1949年)の高峰秀子は25歳。元気いっぱい、魅力いっぱいだった。映画も軽やかで、たのしかった。翌々年(1951年)、歌って踊る青春スター、デコちゃん絶頂期の名作が生まれた。それが木下惠介監督と高峰秀子が初めて組んだ『カルメン故郷に帰る』で、その後日本映画を代表するスターになる高峰秀子の長い偉大なキャリアのなかでその青春期の最後を飾る記念すべき作品とみなされた。
子役時代から高峰秀子のすぐれた演技力を見込んでいたという木下惠介監督が彼女のために選んだ役は、なんと、ちょっと「おつむの弱い」ストリッパーである。それも、東京に出て戦後大流行したストリップを「裸芸術」と信じ、立派な「芸術家」として成功して故郷に「錦を飾る」というのである。故郷は信州浅間山麓の、馬や牛の群れが野放しというか、放牧されて草を食んでいる、のどかな風景が美しく広がる村である。きんという古めかしい本名など過去のもの、いまはリリイ・カルメンという芸名を名乗るストリッパーが、劇場の改築で1週間休暇がもらえたので、同じストリップ劇場の仲間マヤ朱美(小林トシ子)を連れて、いまはなき草軽鉄道のトロッコのような可愛い列車で北軽井沢の駅に降り立つ姿を見て、「おきんの馬鹿野郎がいちばん可愛い」と言っていた牧場主の父親(坂本武)も「日本は文化なり」と言うのが口ぐせで「芸術」は擁護すべきだと主張して牧場主の父親に付き添って駅まで出迎えに行った小学校の校長先生(笠智衆)も、ただもう唖然とする。田舎には不釣り合いな派手な帽子、縁だけが白いブルーのサングラス、ドレスも最新の流行なのだろうが人目をひく華やかさというより、ただもう、けばけばしく、みだらといった感じだ。
丸十という運送屋(社長が見明凡太郎、達者な口利きの社員が三井弘次)が手配した馬車に乗って、踊り子ふたりと出迎えのリリイ・カルメンの姉ゆき(望月美恵子、のち優子と改名)が浅間山麓の村へ向かう馬車のなかで、高峰秀子が歌うスローなジャズっぽいモダンなメロディーの主題歌(ではないのだが、映画と同じ題で知られるすばらしい挿入歌だ)は、〽花の巴里ィはシャンゼリゼェ/帽子 パラソル ア・ラモード……とモダンな、お洒落っぽい歌詞とともに忘れられない。黛敏郎作曲、木下忠司作詞で、木下忠司は木下惠介の弟で、いつもながら木下惠介監督の映画のBGM(バックグラウンドミュージック)も主題歌も作曲している。映画のなかでは戦地で失明した元音楽教師(佐野周二)が作曲し、オルガンで演奏する「ああわが故郷(ふるさと)」という曲として映画のはじまりのタイトルバックとラストにも流れる。リリイ・カルメンの歌とは対照的に暗く荘重な調べだ。〽火の山の 麓の村よ 懐かしのふるさと……と不吉な感じの歌詞に浅間山が活火山であることをうたっている。(実際、撮影中、1950年9月23日に浅間山は爆発したが、撮影には支障がなかったようだ)。
イラスト/池田英樹
映画は秋の運動会(という以上のお祭り騒ぎ)からいっきょに盛り上がり、興行師でもある運送屋が開催するにわかストリップショーで見せる踊り子ふたりの野暮ったいようで実は洗練された(様式化されたと言うべきか、見事に美しく型にはまった)踊りのきわめのポーズの連続に至って、きわどく、エロチックで、そして絶妙におかしい木下喜劇の頂点に達する。エロチックといえば、立ち上がったとたんにスカートがすべり落ちて下着が丸見えになってしまう(まるでハワード・ホークス監督のクレイジー・コメディーのギャグみたいに笑いを誘う)小林トシコのマヤ朱美の誘惑も鮮烈だ。
「日本最初の総天然色映画」として映画史に記録される名作でもある。しかし、実験段階だったので、失敗した場合にそなえて、白黒版も同時に撮影されたという。カラー撮影が終了すると白黒フィルムの入ったキャメラを置き換えて同じシーン、同じカットを撮影したので、それだけでもふつうの映画より倍の時間と労力を費やすという大変な撮影だった。しかし、撮影スタッフもカラー撮影には緊張しすぎた感じだったが、そのあと撮影にも慣れて白黒のほうがうまくいったと思うと木下監督も語っている。俳優たちの演技もだんだんよくなって、「言ってみれば白黒がお清書でカラーが下書きみたいなものですよ」。
たしかに、色の仕上がりはあまりよくなかったにちがいないことが、いま、何度か調整されて見やすくなっているにちがいないビデオ版/DVD版を見ても感じられるが、当時はとにかく日本映画を日本製のカラーで初めて見たという感動で、何もかも色鮮やかに見えた印象が残っている。
木下惠介監督は『カルメン純情す』(1952年)という続篇も撮っているが、こちらは最初から白黒作品としてつくられた。キャメラを極端に傾けて画面が傾く独特の演出が目立つ映画だった。いつも新しい実験をたのしく試みる監督だったのだろうと思う。
イラスト/野上照代
山田宏一
やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。